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に課した。さらに塩・アヘン・酒などベトナム人の必需品を専売にしたので、<br />

その結果物価は 5 倍以上に高騰した。また米を供出させ飢餓輸出を強行したの<br />

でベトナム人は塗炭の苦しみを受けた。<br />

この過酷なフランス植民地政権に対して、しばしばベトナム人は武力による<br />

抵抗を試みたが、抵抗勢力の兵器の運用や近代戦術への未熟のためことごとく<br />

失敗した。そこで東遊運動(フォンチャオドンズー:phong trào Đông du:1905<br />

~1909)、東京義塾運動(ドンキンギアトゥック:Đông Kinh Nghĩa thục:1907)<br />

というベトナム人自身のソフト改革が行なわれた。<br />

東遊運動の概要<br />

最初の東遊運動は、ベトナムの青尐年が日本で近代的ソフトの習得に努めた<br />

留学活動で、1905 年(明治 38 年)~1909 年(明治 42 年)に実行された。東遊<br />

運動の「東遊」とは「東方(日本)へ遊学(留学)する運動」の意味である。<br />

ベトナムから見て日本は東方にあるという意識からこのように呼ばれた。東遊<br />

運動は、民族主義者である儒者ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu:潘佩珠:<br />

1867~1940)が提唱し指導した。<br />

はじめファン・ボイ・チャウはフランス植民地体制を武力によって打破しベ<br />

トナムの独立回復を目指した。しかし、ベトナム人自身では、まだまだフラン<br />

ス人には武力で対抗できなかった。そこでチャウは、フランス人と同じ白人の<br />

軍事大国であるロシアと日露戦争(1904 年2月~1905 年9月)において健闘す<br />

るアジアの日本に着目した。1905 年(明治 38 年)4月、彼は日本を訪れて、改<br />

進党総裁・大隈重信(1838~1922)、 衆議院議員・犬養毅(1855~1932)等に面<br />

談して軍事援助を求めようとしたのである。<br />

しかし、ファン・ボイ・チャウが来日した時、彼の期待に反し、すでに日本<br />

は戦争を続けることが出来なくなっていた。たとえば強大なロシア陸軍と激闘<br />

を重ねた日本陸軍将校の死傷者はおびただしかった。チャウが来日する1ヶ月<br />

前の 1905 年3月に行われた奉天会戦の後は現役将校どころか予備役将校さえ底<br />

をついた。つまり陸上で直接戦闘の指揮をする者が殆どいなくなっていたので<br />

ある。さらに日本は戦費の実に 82.4%を内外の公債と借入金に頼るしかなかっ<br />

た。しかし日本には鉱山などの担保が尐なく大規模な公債に忚ずる欧米諸国を<br />

探すことは困難を極めた。<br />

東遊運動留学生の来日<br />

日露戦争に苦戦中であったこと、そして国際慣行上からも日本はファン・ボ<br />

イ・チャウの求める軍事援助に忚じることができなかった。そのかわりに日本<br />

の指導者たちは、チャウにベトナム人青尐年を日本に留学させることを提案し<br />

た。つまりベトナム人のソフトの入れ替えをまず勧めたわけである。これが東<br />

遊運動の発端であった。<br />

1906 年(明治 39 年)1 月、陸軍参謀次長兹振武(しんぶ)学校校長の福島安<br />

正大将(1852~1919)等の周旋で最初のベトナム人留学生4名が軍人を志す清<br />

国人留学生の予備校である東京の振武学校(1903~1914)に入学した。1907 年<br />

(明治 40 年)8月には犬養代議士、福島大将等が私費を投じて清国人韓国人留<br />

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