管家紅葉氏談話 - アート・リサーチセンター - 立命館大学

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管家紅葉氏談話 - アート・リサーチセンター - 立命館大学

洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ管 家 紅 葉 氏 談 話京 都 映 像 文 化 デジタル・アーカイヴ-マキノ・プロジェクト-冨 田 美 香 ( 本 学 文 学 部 助 教 授 )E-MAIL mtt20017@lt.ritsumei.ac.jp紙 屋 牧 子 ( 日 本 大 学 芸 術 学 研 究 科 博 士 後 期 課 程 )E-MAIL QYQ05142@nifty.com大 矢 敦 子 ( 本 学 文 学 研 究 科 博 士 課 程 前 期 課 程 )E-MAIL Atsuko.Oya@mb2.seikyou.ne.jp【 解 説 】 御 室 に 咲 いた 映 画 の 園本 稿 は、「 京 都 映 像 文 化 デジタル・アーカイヴ─マキノ・プロジェクト─」( 以 下 、マキノ・プロジェクトと 略 す)のアーカイヴ 活 動 の 一 環 であり、 映画 都 市 ・ 京 都 の 源 流 といえる “マキノ 映 画 ”(1919年 のミカド 商 会 から1937 年 のマキノ・トーキー 終 焉まで)についてのオーラル・ヒストリーの 集 積 を 目 的とした 調 査 報 告 である。マキノ・プロジェクト 活 動 開 始 から 三 年 目 にあたる本 年 度 は、マキノ 映 画 の 助 監 督 ・ 管 家 紅 葉 (スガヤコウヨウ 本 名 : 管 家 喜 三 郎 ) 氏 との 出 会 いに 恵 まれ、マキノ 映 画 内 部 の 視 点 によるマキノ 映 画 史 を 編むことができた。 管 家 氏 の 語 りが、これまでのマキノ映 画 をめぐる 言 説 と 大 きく 異 なる 点 は、マキノ 映 画を 代 表 する 監 督 、スタッフ、スター 達 が、あくまでも自 身 のキャリアと 同 一 視 した 発 展 史 ・ 興 亡 史 として縦 軸 の 視 点 でマキノ 時 代 を 語 っているのに 対 し、管 家 氏 のそれは、 単 眼 的 かつ 限 りなく 水 平 の 視 点を 保 っていることである。 管 家 氏 の 語 るマキノ 史 は、青 春 の 一 時 を 一 助 監 督 に 徹 して 過 ごし、 後 にまったく 別 の 人 生 を 歩 んだ 管 家 氏 ならではのヒストリーであると 同 時 に、 紛 れもなく 映 画 という 集 団 製 作 の文 化 史 の 一 面 を 示 すものであるといえる。1. 管 家 紅 葉 氏 紹 介管 家 紅 葉 氏 は 本 名 を 管 家 喜 三 郎 といい、1909( 明 治 42) 年 5 月 5 日 大 阪 に 生 まれ、 金 森 万 象 監 督(1893-1982)の 書 生 から 専 属 助 監 督 としてマキノ御 室 撮 影 所 に 入 社 した。 現 在 まで93 年 間 にわたる人 生 のうち 青 春 期 の4 年 間 を、 助 監 督 ・ 管 家 紅 葉 として 過 ごし、 家 業 であった 古 川 橋 の 料 理 旅 館 経 営のためにマキノ 映 画 を 退 社 した。その 後 は、 金 森 組スタッフらとの 個 人 的 な 親 交 やマキノ 映 画 旧 友 会への 参 加 をのぞいて 完 全 に 映 画 界 から 離 れ、 戦 後は 事 業 の 道 を 歩 み、 現 在 ご 家 族 とともに 静 かに 暮らしている。この 管 家 氏 の 長 い 充 実 した 人 生 の 軌跡 は、75 年 以 上 も 前 のマキノでの 助 監 督 生 活 について、 等 身 大 で 鮮 やかに 再 現 する 驚 異 的 な 記 憶力 と、 誇 張 も 憶 測 も 一 切 交 えずに 語 ろうとするその潔 さから、 伺 い 知 ることができる。管 家 氏 のマキノ 映 画 在 籍 期 間 は、1925 年 の 末 から1929 年 夏 までと 推 定 される。これは、 御 自 身 の 記憶 と、 当 時 の 映 画 雑 誌 で 助 監 督 としての 在 籍 を 確認 できた 時 期 とが、 一 致 していることによる。まさにこの 入 社 時 期 は、 牧 野 省 三 が 東 亜 キネマから 独 立して 東 亜 マキノ 等 持 院 撮 影 所 を 一 族 郎 党 とともに去 り、 御 室 撮 影 所 でマキノ・プロダクションを 新 規 に(1)旗 揚 げした 直 後 であり、その 新 しい 機 運 とともに、管 家 氏 ら 新 スタッフが 採 用 され、 活 況 を 呈 したことが 伺 われよう。そして 入 社 後 の 在 籍 期 間 中 に、マキ(2) (3)ノ 名 古 屋 撮 影 所 の 新 設 や、『 実 録 忠 臣 蔵 』の 焼 失 、片 岡 千 恵 蔵 ら 大 量 スターの 脱 退 事 件 がおこり、 退社 時 期 は 創 業 経 営 者 ・ 牧 野 省 三 の 死 の 前 後 に 相当 する。つまり 管 家 氏 は、マキノ 映 画 のもっとも 内部 変 動 の 激 しい 期 間 に 在 籍 したと 言 ってよい。今 回 の 調 査 で 確 認 できた 管 家 氏 の 助 監 督 作 品は、 管 家 紅 葉 氏 の 名 前 が 報 道 された13 本 を 含 め、『 祇 園 情 話 春 雨 草 紙 千 代 香 の 巻 』(1926 年 )から『 松 平 長 七 郎 長 崎 篇 』(1929 年 )までの23 本 にのぼり、これらすべてが 金 森 万 象 監 督 の 作 品 である。(4)(5)241


アート・リサーチ Vol.3注(1)マキノキネマ 株 式 会 社 とその 映 画 制 作 現 場 であるマキノ 等 持 院 撮 影 所 は、1924 年 の 合 併 で「 東亜 キネマ」となったが、 旧 マキノ 派 からの 主 張 による 東 亜 マキノ 等 持 院 への 組 織 変 更 を 経 たのち、牧 野 省 三 は 等 持 院 撮 影 所 と 従 業 員 を 東 亜 キネマに 引 渡 し 独 立 、1925 年 6 月 に 同 志 とともにマキノ・プロダクションを 創 立 し、 京 都 市 外 御 室 の 天授 が 丘 に 撮 影 所 を 開 設 した。(2) 名 古 屋 桟 橋 倉 庫 会 社 の 土 地 を 借 受 けて1927 年に 新 設 されたこの 撮 影 所 は、『 実 録 忠 臣 蔵 』の 松の 廊 下 シーンなどが 撮 影 され、1928 年 1 月 には現 代 劇 専 門 としてスタートを 切 るが、 直 後 の 大 量スター 脱 退 により、 現 代 劇 部 門 も 御 室 撮 影 所 に併 設 されることになった。(3)1928 年 3 月 におきた 火 事 で、 牧 野 省 三 が2 年 の歳 月 を 費 やして 製 作 したマキノ 史 上 の 大 作 『 実録 忠 臣 蔵 』を 自 宅 で 編 集 中 、 電 気 からネガに 引火 し、ネガの 大 半 と 自 宅 を 焼 失 した。(4)1928 年 4 月 から5 月 にかけて 起 きた 大 量 のマキノ・スター 脱 退 事 件 。 製 作 ・ 配 給 ・ 興 行 の 三 部 制 度の 確 立 を 目 的 とし、マキノの 四 国 配 給 を 請 け 負っていた 三 共 社 社 長 ・ 山 崎 徳 次 郎 の 音 頭 で、 自由 配 給 常 設 館 が「 大 日 本 活 動 常 設 館 館 主 連 盟映 画 配 給 社 」を 設 立 し、 山 崎 の 働 きかけに 呼 応したマキノの 映 画 人 がマキノから 独 立 して 製 作 部門 に 参 加 した。 主 な 脱 退 者 は、 制 作 現 場 となる日 本 キネマの 双 ケ 丘 撮 影 所 をになう 河 合 広 始 を筆 頭 とする 大 道 具 スタッフや、 片 岡 千 恵 蔵 、 市川 小 文 治 、 中 根 龍 太 郎 、 嵐 長 三 郎 ( 嵐 寛 寿 郎 )、山 本 礼 三 郎 等 人 気 スター。 大 打 撃 を 受 けたマキノは 新 しい 人 材 獲 得 とともにノー・スター 映 画 を開 拓 し、 洛 西 地 域 はこの 脱 退 者 達 の 活 動 で 撮影 所 街 の 様 相 を 呈 していく。(5)1929 年 7 月 25 日 没 。 翌 26 日 に 北 野 天 満 宮 脇 のマキノ 家 で 密 葬 が、29 日 に 御 室 撮 影 所 で 神 式 による 本 葬 ・ 告 別 式 が 行 なわれた。これらの 様 子 はマキノ 映 画 の 監 督 総 がかりで 記 録 映 画 に 収 められた。洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 3管 家 紅 葉 氏 談 話Ⅰ.マキノ 入 社1. 入 社 経 緯─マキノ 映 画 に 入 社 された 経 緯 を 教 えて 頂 けますか。私 は 大 阪 でよく 映 画 を 見 てましてね。 今 の 大 阪工 大 の 前 身 の、 関 西 工 学 専 修 学 校 という 学 校 の 学生 やったんです。 天 神 に 八 千 代 館 いうのがありましてね。それから 天 六 に 弥 生 館 、 国 光 いう 浪 花 節 や落 語 の 小 屋 もありましたわ。 八 千 代 館 は 大 きくてね、よう 行 きました。─ 八 千 代 館 はマキノの 常 設 館 ですね。ええ、そうです。マキノ 専 属 で、 月 形 龍 之 介 主 演のばっかりやったね。よう 見 ましたわ。それで 学 校卒 業 してから、 京 都 の 電 気 店 へ 就 職 したんです。それが 小 僧 扱 い 同 然 でつまらなくてね。 辞 めて 戻ってきたんですわ。それから 知 人 が 金 森 さんに 紹介 してくれたんです。─よくマキノ 映 画 を 御 覧 になっていたから 映 画 界へ 入 りたいとおっしゃったんですか?ええ、そうです。それで 金 森 万 象 さんの 書 生 として、 金 森 さんの 家 に 同 居 しましたのや。 約 半 月 ほどしてから、「やっぱりここに 書 生 として 居 てもいかんから、 正 式 にマキノ 撮 影 所 の 監 督 部 へ 入 るように 手続 きする」と 金 森 さんが 言 って、 一 緒 にマキノ 省 三 さんに 撮 影 所 へ 会 いに 行 ったんです。それで 省 三 さんが「それやったらよろしい」と。「 採 用 する」ということで 書 生 やめて、 監 督 部 の 助 監 督 として 採 用 されたわけですね。18( 歳 )の 後 半 くらいやと 思 いまんのや。学 校 を 卒 業 してね。そのとき 給 与 は25 円 でしたわ。─ 助 監 督 の 給 料 で?それは 高 いんじゃないですか。いやー、その 時 分 はね、 監 督 なんかはね、かなり給 料 貰 うてましたで。 助 監 督 として 入 った 初 任 給 が25 円 でしたわ。─ 入 ったのは、 御 室 の 撮 影 所 ですよね?(1)244


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話ええ。あの 当 時 はね、 月 形 龍 之 介 さんがいました。月 形 さんはもう 花 形 でやってはりましたね。すでに(2)阪 東 妻 三 郎 さんは、 妻 プロダクションで 独 立 しては(3) (4)りましたわ。まだ( 市 川 ) 右 太 衛 門 も( 片 岡 ) 千 恵 蔵 もおられませんでしたわ。 私 が 助 監 督 した 時 分 に、(5)( 嵐 ) 寛 寿 郎 さんが 入 って、それから、かなり 遅 うに、千 恵 蔵 さんが 入 られたんと 違 いますか。 寛 寿 郎 さんはね、 嵐 長 三 郎 さんという 名 前 で 会 社 入 られたんですわ。 市 川 右 太 衛 門 さんは、 市 川 右 一 という 名前 やったんですわ。『( 探 偵 綺 譚 ) 文 明 の 復 讐 』の 撮 影 の 最 後 の 時 分に( 撮 影 現 場 に) 居 ったと 思 うわ。 正 式 にはマキノの助 監 督 とは 違 って、 書 生 時 代 に 見 に 行 きましたわ。夜 間 ( 撮 影 )やってましたやろ、(セットが) 大 がかりやったね、だから 有 名 やったで。「 文 明 の 復 讐 」が済 んでから、マキノ 省 三 さんに 紹 介 してもろうて、 助監 督 として 採 用 されたわけですわ。 私 はだいたい金 森 さんの 専 属 ( 助 監 督 )でしたわ。 一 番 最 初 に『 祇 園 情 話 ( 春 雨 草 紙 千 代 香 の 巻 )』でしたな。マ(6) (7)キノ 正 博 さんに 都 賀 静 子 さん。そのときに 初 めて「 管 家 喜 三 郎 」が、「 管 家 紅 葉 」として 名 前 貰 うて、それでタイトルに 出 たわけでんな。「 喜 三 郎 ていう名 前 な、 助 監 督 として 紅 葉 という 名 前 にしたる」て、金 森 万 象 さんから 頂 きましたんや。これを 撮 ってるときはね、 京 都 の 円 山 公 園 と、 清 水 さん( 清 水 寺 )とこ 行 きましたな。 清 水 さん 撮 影 するときには、もう 夜中 のうちに、 監 督 さんとか 撮 影 技 師 と 山 の 上 、あがって、それで 下 には 私 が 居 てましたんや。 旗 でもって、 指 図 しまして 撮 影 したわけですな。あの 時 分 はね、( 警 察 に) 未 届 けか 何 かで( 笑 )、 公 にできへんから、 朝 早 うに 山 、あがってしもうたんやな。 今 こそね、 許 可 貰 わんといけないけども。2. 金 森 組 について「 文 明 の 復 讐 」より 前 に、 高 木 新 平 さんが、 神 戸 でビルとビルの 間 を 飛 んで 撮 影 して、 一 躍 金 森 さんが、活 劇 篇 の 監 督 として 有 名 になったわけやな。 私 はそのとき 居 まへんけれども、「 管 家 君 、こんな 話 があった」ということ、 金 森 さんから 聞 いてまんのや。 金 森 さんはね、フィルムの 整 理 ( 編 集 )しますやろ?それで(8)『 祇 園 情 話 春 雨 草 紙 千 代 香 の 巻 』 八 瀬 ロケ・スナップ。左 より、 管 家 紅 葉 、マキノ 正 唯 、 金 森 万 象 、 都 賀 静 子 提供 : 管 家 紅 葉 氏“ 追 っかけ”がおまんな。 悪 者 が 逃 げる、ゴロ 追 いますな、そのときに、フィルム、パッパッパッとしはる、そのカットバックが、ものすごい 上 手 やった。(9)沼 田 紅 緑 さんと 金 森 万 象 さんが 親 友 でね。 二 川(10) (11)文 太 郎 さん、 井 上 金 太 郎 さん、それから 金 森 万 象 、これが 三 羽 烏 やったんです。 金 森 万 象 さんは、だいたい 活 劇 篇 の 監 督 をしてましたね。 井 上 金 太 郎さんは、 喜 劇 をやってはりましたな。 秋 篠 珊 次 郎 、これ 井 上 金 太 郎 さんの 変 わりの 名 前 ( 筆 名 )やな。 一寸 この 人 、 面 白 い 人 やった。 二 川 文 太 郎 さんは、まあ、 艶 物 語 とか『 雄 呂 血 』(1925)とかそういうのを 担当 してはりました。もうすごく、 井 上 さんやとか、 二 川(12)さん、 寿 々 喜 多 ( 呂 九 平 )さん、 四 人 が 非 常 に 仲 が良 かったんやな。「 万 ちゃん」、「 金 ちゃん」、「 文 ちゃん」ていう 風 な 間 柄 やったんやな。 私 もそういう 仲の 金 森 さんの 助 監 督 やから、 撮 影 所 行 っても、はたの 監 督 から、ちょっと 受 けが 良 かったんやな。 一 回か 二 回 はね、 二 川 文 太 郎 さんが 監 督 をやったときに 助 監 督 したことがおまんねん。そのシャシン、 今でもあると 思 いますわ。─ 金 森 万 象 監 督 は 寿 々 喜 多 呂 九 平 さんとコンビが 多 かったですね。ああ、もう 多 かったね。 金 森 さんと 寿 々 喜 多 呂 九平 さんとはね、ものすごい 仲 が 良 かったな。 寿 々 喜245


アート・リサーチ Vol.3多 呂 九 平 さんは 大 したもんやったねえ、 私 が 入 ったときには。 頭 良 かってんな。 脚 本 にね、ちゃんと 絵 も付 いたったわ、 肝 心 なとこね。『 矢 衾 』とか『 狼 火 』やとねぇ、 立 ち 廻 りんとこ、ちゃんと 漫 画 みたいに 絵 描いてあんねん。 絵 も 上 手 や。─ 金 森 さんは 寿 々 喜 多 さんの 指 示 通 りのカットを撮 っていたんですか?金 森 さんは、あくまでも、 寿 々 喜 多 さんの 脚 本 を 尊重 してましたな。 大 体 、それ( 寿 々 喜 多 の 絵 )に 似 たような、 演 技 はしてました。だから 大 したもんや、この人 ( 寿 々 喜 多 )は。 西 条 照 太 郎 さんあったね?あの人 は 字 幕 が 多 かったな。そういう 非 難 があったな。─ 金 森 監 督 は 寿 々 喜 多 呂 九 平 さんの 隣 にお 住まいだったんですね。いや、 最 初 は 違 いました。 小 松 原 って 駅 の 近 所にね、 長 屋 で 二 階 建 ちの 家 あって、ススキ( 寿 々 喜多 )さんが 入 られて、 後 から 隣 の 長 屋 の 二 階 に 金 森さん 入 ったんや。そのときは 私 は 別 居 してました。( 後 に) 金 森 万 象 さんは、 京 都 の 有 栖 川 町 に 一 人で 住 んではりましたわ。 私 、 会 いに 行 ったことおまんねん。 金 森 さんはね、あの 人 は、 実 家 は 嵐 山 で、土 産 物 屋 やってはりましたな。─キャメラマンの 石 野 誠 三 さんともコンビでしたね。そうそう。カメラマンと 監 督 さんは、 一 心 同 体 にならなあかん。 野 球 でゆうたら、ピッチャーとキャッチみたいなもんやね。 息 のおうた 人 やないと、やっぱり 上 手 いこといきまへんな。そういう 点 では、 金 森 さんは、 石 野 さんと 一 生 コンビやったね。 金 森 さんと石 野 さんやっぱりよう、 馬 がおうててんな。 途 中 で 交代 になったか 知 らんけどね。 私 はほとんど 石 野 さん(と 撮 影 一 緒 )やったわ。せやから 誰 より、 石 野 さんに 物 凄 いかわいがってもらいましたわ。 中 々ええ 人やったしね。 山 崎 一 雄 さん、 壇 ( 常 夫 )さんが 撮 影(14)(13)(15) (16)助 手 やった。あの 人 ( 石 野 誠 三 )は 一 寸 派 手 な 人 で、一 寸 変 わった 服 着 てはりまんな。あの 時 分 、 玉 突 きしてはったん。 名 人 やったね。ええ 男 やった。 面 白い、 愉 快 な 人 。 世 話 好 きやね。せやからこういうもん(「マキノ 旧 友 会 」) 出 来 たんやな。あの 人 おらへんだら、もう 出 来 まへんわ。 松 浦 ( 茂 )さんも、 石 野 さんの 後 で 金 森 さんにつかはったわ。(17)Ⅱ. 助 監 督 の 仕 事1. 映 画 製 作 過 程台 本 でけたら10 冊 はコピーせないけまへん。 油紙 引 いて、 書 きますのや、 監 督 部 屋 で。 撮 影 技 師 、主 演 、 衣 装 方 、 鬘 、 大 道 具 、 小 道 具 にホンをコピーして、 渡 しますのや。 時 代 劇 やったら 鬘 おまっしゃろ? 女 優 やったら、 女 優 の 鬘 形 の 系 統 おまっしゃろ。それから 衣 装 、 見 なきゃいかんがな。 小 道 具 見せな。そんなん 皆 、ホン 渡 さんといかんわな。でけたら、ホン 読 みしまっしゃろ、ホン 読 み 済 んだら、 衣装 部 屋 (は) 衣 装 合 わせ。 鬘 は、 主 演 と 女 の 人 やったら 鬘 合 わせして、(サイズが)あかなんだら、 誂 えせないかん、 主 演 の 俳 優 と 打 ち 合 わせします。 他の 俳 優 はヅラ、オーダーせんでええねや。 主 演 の人 は、 鬘 、 衣 装 、 皆 別 注 や。ロケーションは、 人 の 整 理 がエライがな。マキノの常 設 館 の 無 料 入 場 券 、ロケーション 行 くときに 貰 えまんねん。「こういう 事 情 で」って 言 って、50 枚 なら50 枚 、 助 監 督 が 持 って 行 きますねん。そして 撮 影のときにね、 人 がよう 来 ますやろ?「 邪 魔 になるよってに。この 券 やるよってに 退 いてんか」 言 うて、 券 で人 の 整 理 をしますねん。 助 監 督 はそんなでロケーションは 忙 しかった。 俳 優 も 連 れていかなならんし、交 通 整 理 もせなきゃいかんし。セットは 楽 やねん。大 道 具 も 小 道 具 もライトマンやら、いはるもん。ところがロケーション 行 くとね、かなり 雑 音 が 多 いもんでね、もう 助 監 督 は 忙 し。 人 が 少 なかったんで、 何 もかもやらないかんもん。 許 可 は 簡 単 にもらえるけども、 一 応 はやっぱり 警 察 に 届 けもしなきゃいかん。ロケーションの 時 は 会 計 もやりまんのや。なんぼかお 金 預 かって( 笑 )。─「 佐 平 次 捕 物 帖 」シリーズは 人 気 がありましたね。「 佐 平 次 捕 物 帖 」(シリーズ)はやね、この 人 ろっぺい( 呂 九 平 )さんの 十 八 番 で。キャメラが 自 動 車の 上 からエキストラを、 俯 瞰 撮 影 でやりまっしゃろ?捕 手 が 追 いかけてくる、 本 人 がズーッと 下 がってくる、そうすると 自 動 車 がズーッと( 引 いて) 行 く。 捕 手が 十 手 持 っておっかけてくるときにね、 大 勢 の 人 や246


(18)から、せんど( 何 度 も) 撮 影 助 手 の 江 原 義 夫 と 二 人で、 役 者 の 代 わりに( 捕 手 の) 中 入 って、エキストラ動 かして 指 導 しまんねや。エラかった。それで( 自分 達 も) 扮 装 してまんねや。 扮 装 せなんだらシャシン 写 ったとき 格 好 悪 いもん。「お 前 が 入 ってやれー!」てなもんや。( 笑 )─ 夜 間 撮 影 は、だいたい 御 室 撮 影 所 の 中 でされるわけですよね。うん、セットのときの 夜 間 撮 影 もあるし、オープンのときは、たいてい 夜 間 撮 影 やな。「 四 谷 怪 談 」のときだとか、 全 部 夜 間 撮 影 や。 相 当 費 用 が 要 るのと違 いますか、オープンは。─ 夜 間 撮 影 は、 照 明 も 含 めて 事 前 の 準 備 は 大変 でしたか?大 道 具 さんがやるのと 違 いますか。「 四 谷 怪 談 」の“ 戸 板 流 れ”の 川 あってね、あんなのは 皆 、 大 道具 さんがやりましたな。 大 道 具 さんは、また 忙 しいんで。あの 時 分 はカーボンやった、カーボンでバッーと 写 った。せやから、 直 、 目 やられてしまうねん。俳 優 さんでも 直 、 眼 鏡 かけるやろ? 皆 、 夜 間 撮 影するたびに、 朝 、 目 真 っ 赤 になってたもん。ものすごいきついもん。エライこっちゃ、 夜 間 撮 影 は( 笑 )。─その 当 時 の 編 集 は?編 集 はね、 私 やとか、 石 野 さん、 金 森 さん、 撮 影助 手 と 四 人 でやりまんねん。だいぶ 編 集 しますがな。金 森 さん、(フイルム) 見 てますやろ、 石 野 さんも 私も 見 てますわ。それで、 切 るモン、 切 る。で、 俳 優 さんいかんよってにNG、おまっしゃろ?それは、 石 野さんと 金 森 さん、 話 し 合 いしてやりますがな。とにか洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話く 監 督 と 技 師 によってフィルムを、 整 理 しまんねん。アミールとかアセトンていう 薬 で、つなぎまんがな。徹 夜 多 かったなあ。─『 砂 絵 呪 縛 』も 短 期 間 に 徹 夜 で 仕 上 げたそうですね。そうです。 新 聞 の 連 載 小 説 やろ?それを 山 上(19)( 伊 太 郎 )さんが 脚 色 しはって、ロケは 仁 和 寺 ですわ。これは 何 篇 もあったねえ、 監 督 さんも 皆 、 違 いまんな。 各 社 競 映 やもん。こういうもんは 監 督 泣 かせやで。 上 映 日 が 決 まってるからね。 昼 、 撮 影 しに行 きますやろ、そしたら 昼 の 分 を 直 ぐに 現 像 して、現 像 している 間 に 帰 ってきて、セットの 撮 影 しますわな、セット 済 んでから、また 夜 通 しで 現 像 出 来 たヤツ(フイルム)を 編 集 します。フィルム、ネガからしまんな。 昼 の 撮 影 が 少 なかったらええけどね、 多 かったら 一 寸 いかんな。ロケーション 行 って 曇 やったら 中 止 や。 太 陽 が 出 てきたらやるけれども。なんぼも 出 来 まへんで。シャシン 出 来 たら、 字 幕 タイトルおますやろ? 助監 督 が、 脚 本 の 中 から( 字 幕 部 分 を) 抜 粋 して 書 いて、 字 幕 部 へ 出 さないかん。で、 字 幕 部 はそれに 基づいて、 紙 で 書 いてくる。 字 幕 出 来 たら、 字 幕 部 屋で 撮 影 せないかん。 岡 本 一 鳳 さんやらもおましたし、(21)鈴 木 影 一 郎 もおました。 私 らいたときに 仲 間 やった。「でけたか?」「おう!でけてんで」てなもんだ。「ほなでけたら 撮 影 するわ」「いつえ?」「ほな、いついつしよか」「ほな、まとめといてくれ」てなもんや。そんでまとめといてもうて、 一 遍 写 して。 助 監 督 と 撮 影 技(20)『 佐 平 次 捕 物 帖 の 内 第 五 篇 謎 後 篇 』 草 津 ロケ。 左 より、 金 森 万 象 、 小 岩 井 昇 三 郎 、 近 藤 伊 与 吉 、 管 家 紅 葉 、江 原 義 夫 、 石 野 誠 三 (キャメラ) 提 供 : 管 家 紅 葉 氏『 砂 絵 呪 縛 』 仁 和 寺 ロケ・スナップ。 左 より、 石 野 誠 三 、 金森 万 象 、 管 家 紅 葉 ( 鈴 木 の 左 隣 )、 鈴 木 澄 子 、 中 根 龍 太郎 提 供 : 管 家 紅 葉 氏247


アート・リサーチ Vol.3師 と、 二 人 でやりますのや。もう、パッパッパッと 撮 って、 助 監 督 ( 字 幕 を) 読 みますのや。 読 む 間 、 技 師(カメラを)シヤーっと 回 して( 撮 影 する)。 暇 暇 にやんねやもん。タイトル( 部 )はタイトル 撮 影 ばっかりします。そんな 難 しいことないもん。バアーッと 出 まんがな、エムピー(M-Picture)みたいなのも( 笑 )。─ 字 幕 の 背 景 に、 絵 や 映 像 が 映 っていたりする場 合 も?そんなんは 別 におまんねや、それやるグループが。映 画 の 頭 に 提 示 されるマキノ 映 画 のマーク2. 難 しさと 楽 しみ助 監 督 はあらゆる 面 において、 交 際 が 難 しい。一 番 大 事 な 悩 みやね。 大 道 具 部 屋 にも 皆 、 好 かれないかんわ。まあ、 大 道 具 はセット 組 むだけや。 出来 たら、 監 督 見 に 来 よるわな。「ここのセットやったら、 前 は 誰 々がやった 残 りや」「これはうちのんで 間に 合 うな」と 思 うたら 出 来 まっしゃろ。 大 道 具 はあんまり 関 係 おまへんけど、 小 道 具 はうるさい。 時 代 によってみな 違 いまっしゃろ、「こんな 小 道 具 いる」とか、 色 々 注 文 おまんがな。 撮 影 行 くのに、 間 に 合 わないもん 拵 えてもらわんといかんやろ。 無 かったらチャーターするけども、ある 物 は、 嫌 われたら 上 手いこと 順 序 よく 貰 われへんがな。 監 督 に 怒 られるがな。せやから 小 道 具 あたりは、 大 事 にせないかんな。夜 鷹 のことと、 瓦 版 のことでね、「 笑 われた、 恥 かいた」っていうことがおまんねん。「 管 家 君 、 明 日 撮影 はこういうようなのにせいよ」。ホン 見 ると、 川 端 があって、 夜 鷹 が 出 てくるわな? 私 、 夜 鷹 が 何 持 って出 よんのや、 全 然 わからんのや。もう 一 つは 等 持 院の 撮 影 所 で、 大 道 芸 人 がちょっと 練 習 してまんねん。そしたら、「 瓦 版 !」。ほな 瓦 版 て 何 やわからんわ( 笑 )。「 管 家 君 、 瓦 版 というのはこういうもんや」「 夜鷹 は、 筵 持 って 出 るよってに」て 教 えて(もらって)。一 瞬 でも 撮 影 暇 やったら、 小 道 具 行 って、 色 々世 間 の 話 したり、よう 教 えてもらいに 行 かんならん。憎 まれたら、 教 えてもらわれしまへんやん。タイトルいうたかて、「こんなん 書 いてんか。 急 くよって、はよして」「 今 いうても 忙 しい!」て 言 われてしまうがな。好 かれたら、はよ 書 いてくれるわな。キャメラマンも大 事 にせないかん。キャメラマンは 助 手 一 人 でっしゃろ? 撮 影 技 師 はきちんとレンズ 見 とる。 撮 影 する場 面 によって、(レンズ) 一 所 懸 命 見 ててやねえ、立 ち 廻 りやったときは、 助 手 が(クランク) 回 さないかんわ。 手 回 しやもん!せやから 監 督 助 手 が、レフ 板を 持 つ 作 業 もやったらないかん。とにかく、 助 監 督いう 仕 事 は、 最 も 頭 使 うて、うるさい。 監 督 の 言 うこときかないかんし。 俳 優 さんのご 機 嫌 も 伺 わないかんし、 照 明 の 援 助 もせないかんし、そら 難 しい 仕 事 や。ありとあらゆる 人 のご 機 嫌 伺 いに 行 くような。せやから 途 中 で、 辞 める 人 も 多 い( 笑 )。若 いとき、 撮 影 所 時 代 は 面 白 かったね。 良 かったですわ。 面 白 い 話 するんやないけどね、 女 優 さ(22) (23) (24)んでマキノ 輝 子 さんや 大 林 ( 梅 子 )さんや 松 浦 築 枝さんやとか 幹 部 の 人 は、 全 部 個 室 や。 女 中 ( 役 )やとか 仕 出 しやとかは 大 部 屋 におまんな? 他 のモンは、 自 由 に 入 れませんでしたけど、 監 督 部 の 助 監督 はね、 女 優 さんの 大 部 屋 へ 自 由 に 入 れまんねん。そやから、 雨 降 って 撮 影 休 みでおまっしゃろ?そうするとお 遊 びに( 行 く)。 阿 呆 な 話 したり、 楽 しかったねえ。Ⅲ. ロケーションでのエピソード1. 京 都ロケーション・ハンティングは、 主 演 の 偉 い 人 、 監督 さん、 撮 影 技 師 、 撮 影 助 手 と 一 緒 に 行 きますわ。「 簡 単 な 茶 店 のセット 組 んでくれ」ということを( 打 ち合 わせ)でけたら、 大 道 具 へ 頼 んで 組 んでもらう。上 鳥 羽 方 面 、 鳥 羽 の 堤 防 でようやりましたがな。 障248


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話害 物 少 なかったわ。 時 代 劇 ではもってこいだったもんね。『 返 り 討 以 上 』は、 鳥 羽 ですわ。─『 仇 討 世 相 録 』も 鳥 羽 で 撮 影 されたそうですね。伏 見 に 方 除 けの 神 さま( 城 南 宮 )、おまんな?その 前 にね、 有 名 なおせき 餅 屋 がおまんねん。おせき 茶 屋 いうて、 国 道 1 号 線 出 来 る 前 には 上 鳥 羽 の方 やった。ここら 方 面 撮 影 したときに、そこで 休 憩 してたん。─ 大 原 でもロケされましたよね。大 原 はね、よう 行 きましたがな。『 青 春 』も 大 原 や。「 恋 と 若 武 者 」(『 青 春 』の 公 開 前 題 名 )やと 思 います。 大 原 三 千 院 の 真 ん 前 に、 茶 店 兼 、 色 紙 や 短 冊を 売 っているお 店 があって、ロケーションへ 行 ったときは、 石 野 さん 達 とそこへよう 寄 りましたわ。 徳 子さんいう 人 がやってましてね。 有 名 でしたわ。『 矢 衾 』か『 狼 火 』でねぇ、 保 津 川 下 り 途 中 で 舟 上がってロケーションした。『 矢 衾 』は 京 都 の 木 津 川 でやりましたわ。 橋 の 上 から 撮 影 してね。 夏 の 暑 い 時分 で 苦 労 した。オーヴァーラップとかおましたな。「 謎 」(『 佐 平 次 捕 物 帖 の 内 第 五 篇 謎 後 篇 』)は 山陰 線 の 八 木 に 園 部 の 方 、ようロケに 行 きました。2. 江 州 ( 滋 賀 )『( 江 戸 巷 説 ) 女 怪 』は 瀬 田 の 唐 橋 行 ったことおますわ。 橋 の 東 詰 めにね、「あみ 定 」ていう 料 理 屋 が(25)あったんや。 鈴 木 澄 子 さんが 立 ち 回 りしてね、 橋 から 河 へ、はまりまんのや。 離 れてるときには、 吹 き 替えして、 岸 上 ってるときは、アップで。 鈴 木 さんが 岸上 ってくるとこ「あみ 定 」さんの 前 で 撮 影 したんです。道 具 ( 方 ) 皆 、 御 飯 よばれて 休 憩 しました。 衣 装 の着 替 えとか、 世 話 なってましたんや。あのとき( 助 監督 時 代 の 瀬 田 ロケでの 休 憩 は) 全 部 あこでした。 未だに 記 憶 ありますわ。 吹 き 替 えは 大 部 屋 男 優 が、捕 手 やとか 道 歩 いたり、 皆 色 々してましたわ。 今 の彦 根 城 の 堀 端 で 立 ち 回 りして、はまりまっしゃろ、それも 全 部 男 や。 立 ち 回 りするときは、いつも 大 部 屋の 役 者 がはまりまんがな。その 代 わり、はまったらコレが 付 きまんがな、“はまり 料 ”( 笑 )。せやから“はまり 専 属 ”ちゅうのはおまへんで。『 松 平 長 七 郎 』の 船 おましたな?( 広 告 の) 絵 に『 青 春 』 八 瀬 ロケ・スナップ。 左 より、1 人 おいて 嵐 長 三 郎( 後 の 嵐 寛 寿 郎 )、 管 家 紅 葉 、 石 野 誠 三 、 金 森 万 象 、 不明 提 供 : 管 家 紅 葉 氏『 松 平 長 七 郎 』 近 江 瀬 田 ロケ。 左 より、 山 本 九 一 郎 キャメラ 助 手 、 金 森 万 象 、(1 人 おいて 手 前 ) 管 家 紅 葉 。 右 より二 人 目 の 白 襷 俳 優 は 西 郷 昇 提 供 : 管 家 紅 葉 氏なったけども。これ、 近 江 瀬 田 川 、 瀬 田 の 唐 橋 の「あみ 定 」か、あの 辺 で 撮 ってます。その 時 分 はね、監 督 と 大 道 具 さんと 打 ち 合 わせてやったん 違 いまっか。オランダ 船 を 写 したかったん 違 いまっか。 船が 撮 影 の 後 に 潰 れてしもたわけや。『 天 明 果 報 談 』ア イ バ ノは 昔 、 陸 軍 の 演 習 場 やった、 今 津 の 饗 庭 野 っていう 所 ですわ。3. 信 州─『 狼 火 』では、 何 百 頭 もの 馬 を 使 い 大 ロケをしたという 記 録 があります。飯 田 で 馬 、 都 合 しましたんや。 馬 (の 撮 影 )やるときに、テント 張 りで 休 憩 するのや。 信 州 のね、 日 本アルプスおますでしょ、 大 正 池 。 松 本 からね、トロッコで 上 がったんや。 白 樺 が 川 から 上 がっていて、ものすごい 綺 麗 やったな。えらい 櫓 (イントレ 用 ) 組 んで 俯 瞰 撮 影 (した)。 天 竜 川 でも、マキノ 正 博 さん 一249


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話そしたらメモしはるがな。そうしたら、 企 画 が 出 てきますやろ、そしたら「あの 娘 使 うてやったらどうや」というようなので、まあ 下 の 役 者 の 出 世 の 糸 口 というわけですな。それで 段 々 上 に 上 がってきますわ。大 部 屋 の 人 もやっぱり 一 層 熱 心 になりよる。 大 部 屋の 連 中 でも、そういうチャンスがあるわけだんな。マキノ 省 三 さん 監 督 のときは、 必 ず 松 田 定 次 さんが、キャメラマンやったわ。 縁 故 関 係 があると 思 いますわ、マキノ 省 三 さんと 松 田 さん。 知 りまへんけど、一 寸 聞 いてんのはそんなことやね。せやから 松 田 さん、 大 人 しい 人 でしたで。 冗 談 絶 対 言 わはらへん。もう 真 面 目 なね。ほんまにもう、 堅 苦 しいちゅうか、あんまり 人 の 付 き 合 いも 少 ないしね。そういう 人 でしたな、 松 田 さんは。 松 浦 築 枝 さんていう 人 がいましたな、あの 人 と 松 田 さんが 結 婚 されたんやな。『 元 和 豪 侠 伝 』 八 瀬 ロケ。 左 より、 管 家 紅 葉 、 品 川 スチル、 不 明 、 不 明 、 金 森 万 象 、 岡 島 艶 子 、 澤 田 敬 之 助 、 滝川 紅 二 、 松 浦 茂 提 供 : 管 家 紅 葉 氏2. 関 わった 俳 優 たち私 はだいたい 担 当 しておったのは、マキノ 正 博 さんが 多 かったね。 女 優 さんでは 鈴 木 澄 子 さん、 多かった。マキノ 正 博 さんは 私 より 一 つ 歳 上 やった。『 祇 園 情 話 ( 春 雨 草 紙 千 代 香 の 巻 )』 撮 影 したときに、 私 が18( 歳 )で、あの 人 、19ぐらいやったね。 面白 いお 方 でしたな。 人 を 大 事 にしてくれましたね。ええ 人 やったわ。 一 緒 にお 化 粧 みたいなのして 撮影 所 遊 んでましたりしてな。 愛 想 も 良 かったし、もう皆 から 慕 われて。 俳 優 としても 仕 事 熱 心 でしたわ。芝 居 上 手 でね。あの 人 はだいたい 申 年 やから( 笑 )、ものすごい 器 用 や。そやから 監 督 やってはったけど、(28)振 りは 自 分 でやってはった。 演 技 のやり 方 上 手 でしたな。お 父 さんから 譲 り 受 けたか 知 らんけども、 役者 としても 良 かったけど 監 督 としても 良 かったね。そやけど、 俳 優 よりも 監 督 の 方 が 適 当 な 人 やったね。─マキノ 正 博 さんやマキノ 省 三 さん、ご 家 族 と 個人 的 な 交 流 はおありでしたか。いや、 正 博 さんと 別 に 個 人 的 な 付 き 合 いはなかった。 撮 影 してるときは 何 やかや 話 しもしますけど、私 は 助 手 やし、あの 人 は 御 大 の 息 子 さんやもん。あの 人 が 監 督 になってからはあんまり 付 合 いはなかったなあ。その 時 分 、マキノ 智 子 ( 輝 子 )さん 主 演 でね、お父 さんが 監 督 してはりましたわ。『お 洒 落 狂 女 』(1926、マキノ 省 三 )、ああいう 映 画 やってはりましたわ。いつも、 月 形 さんと 共 演 してはった。 私 が 入る 前 から 共 演 やったなあ。( 二 人 の 仲 の) 噂 がでてからね、 月 形 さん 出 る 番 、 昼 でたら、マキノ 輝 子 さんが 昼 でるってことは、ちょっとシャットアウトやったなあ。マキノ 輝 子 さんが 昼 やったら、 月 形 さん、 晩 という 具 合 にやってはった。そりゃあな、やっぱり 若 いうちは 一 緒 に 共 演 すればやっぱり 情 が 移 りまんがな。そやからやっぱりそういう 人 が 多 い。 撮 影 所 のなかには。( 嵐 ) 寛 寿 郎 さんとはね、 一 回 か 二 回 ぐらいは 一緒 でしたな。 寛 寿 郎 さんは 沼 田 紅 緑 さん、 多 かったと 違 いますか。 寛 寿 郎 さんは、 芝 居 が 派 手 や。「 鞍馬 天 狗 」( 初 作 は『 鞍 馬 天 狗 異 聞 角 兵 衛 獅 子 』1927、 曽 根 純 三 )だとか。ところが、 千 恵 蔵 さんは『 万 花 地 獄 』( 全 五 篇 、1927-28、 中 島 宝 三 他 )みたいなんしてはったやろ。 芝 居 が 渋 いわな。 人 気 はやっぱそれで、 寛 寿 郎 さんのが 上 やったな。 常 に寛 寿 郎 さんと 千 恵 蔵 さんはやっぱ、ライバル 同 士(29)やったな。 嵐 冠 三 郎 さんは 俳 優 であって、 俳 優 の幹 事 してはってん。 北 岡 よし 江 の 父 親 やった。あの人 もおったね、 高 木 新 平 さん。 奥 さんが 生 野 初 子でした。 新 平 さんが 独 立 してね、 京 都 の 吉 田 山 、あ(32)こで 撮 影 所 を 持 ってはったと 思 いますねん。その 高木 新 平 さんの 撮 影 も、 金 森 さんがやってはったわ。(33)天 野 刃 一 さんは、 市 川 右 太 衛 門 さんが 撮 影 所 つくったときに、 右 太 衛 門 さんが 引 き 抜 いて。この 人 、(30)(31)251


アート・リサーチ Vol.3敵 ( 役 )、 上 手 いねん。 奈 良 のあやめ( 池 )、いうのおまんな?あこに 右 太 衛 門 プロダクションこしらえはったんです。 千 恵 蔵 さんは 御 室 撮 影 所 の 付 近 や(35)ったもんね、 千 恵 プロ。 竜 安 寺 の 駅 の 側 に 玉 突 きがあって、そこに、 岡 島 艶 子 さんの 家 あったと 思 うわ。ご 主 人 は 監 督 さん( 仁 科 熊 彦 )やった。(37)阪 東 三 右 衛 門 さんも 入 っておられて、 名 前 出 んうちにやめてしまはったらしい。やっぱりマキノ 省 三さんが 引 っ 張 っていかはったん 違 いまっか。あんまり 人 気 悪 かったな。それに 実 川 芦 雁 がおった。あれも 切 ってまいよった。 阪 東 三 右 衛 門 は、 芝 居 下 手や。 見 た 目 、 体 細 かったしなあ。 顔 も 細 い。 口 綿 一杯 入 れとった。そんな 役 者 やった。 大 谷 友 三 郎 さんも 割 りに 人 気 出 なかったね。あとで 入 ってきた 人 や、マキノ 生 え 抜 きと 違 いまんがな。 友 三 郎 さんとよう 一緒 に 撮 影 しましたわ。ほとんど 金 森 さんとやった、大 谷 友 三 郎 さんは。 大 谷 友 三 郎 さんは、 弟 子 さん付 いてはった。 俳 優 のね。それでロケーション・ハンティングのときには、 弟 子 連 れて 歩 いてはった。 他の 人 はそんなのおらん。せやから 二 人 分 、 段 取 りせないかんがな( 笑 )。(39)(36)マキノ 登 六 さんはね、 殺 陣 師 やった。 林 正 美 さん、後 からマキノの 名 前 貰 うてね、マキノ 正 美 になりました。(マキノ 青 年 ) 五 人 組 はね、マキノ 正 博 さんでっ(41)しゃろ、それからマキノ 潔 な、それからマキノ 正 美 さん、マキノ 登 六 さん、それからマキノ 梅 太 郎 さん、この 五 人 やと 思 うなあ。3. 助 監 督 仲 間助 監 督 は、 専 属 の 助 監 督 とフリーの 助 監 督 があったん。この 当 時 はね、マキノ 省 三 さんには 松 田 さんが 助 監 督 やってん。で、 二 川 文 太 郎 さんには、(43)稲 葉 蛟 児 さんやってん。それで 金 森 万 象 さんには私 が 付 いてましてん。(44)山 中 貞 雄 さんは、 私 が 助 監 督 やってたときは 社堂 沙 汰 夫 さんていってました。( 後 に) 新 聞 で( 山 中貞 雄 という) 名 前 も 死 も 知 りましてん。 山 中 貞 雄 さんは“むっつり”やったなあ。 親 しうしてたけども、 冗 談とかそんなのあまり 話 ししまへなんだなあ。それから一 番 親 しかったのは、 萩 原 陣 太 郎 さん。 萩 原 遼 とし(38)(40)(34)(42)(45)て 東 映 かどっかで 監 督 してるはずですわ。 東 映 の撮 影 所 になって 面 会 に 行 ったことおまんねん。それにね、 二 川 文 太 郎 さんの 弟 さんで、 滝 沢 英 輔 さんは、 俳 優 として 私 、 交 流 してましたな。 後 に 監 督 なさったけどね。それからね、 並 木 鏡 太 郎 さんていう 人もおられた。この 人 、 性 格 が 違 う( 笑 )。あんまり 付 合いしまへんわ。 並 鏡 さん、それからもう 一 人 、 杉 本(48)九 一 郎 さん、 沼 田 さんの 助 監 督 でした。 杉 本 九 一郎 さん、 一 緒 やったなあ。エライ 友 達 やった。 杉 本九 一 郎 、それから 私 、 萩 原 陣 太 郎 、 社 堂 沙 汰 夫 、これがものすごい 仲 良 かった。「シャダやん、シャダやん」て。それで 萩 原 遼 さんは、「おい、 陣 やん、 陣やん」ていうもんや( 笑 )。それからここ( 大 阪 門 真市 )に 私 、 戻 ってからでも、 杉 本 九 一 郎 さんよう 家 、来 はったん。マキノやめてから 杉 本 九 一 郎 さんが、葬 式 屋 に 勤 めていて、 何 回 も 来 ましたがな。 九 一( 郎 )さんが、わてらでは 一 番 “ 偉 いさん”や( 笑 )。家 も 撮 影 所 の 近 所 やった。 竜 安 寺 の 停 留 所 の 裏 やった。 鈴 木 澄 子 さんの 家 と 並 んではった。稲 葉 蛟 児 と 管 家 紅 葉 提 供 : 管 家 紅 葉 氏4. 裏 方─ 当 時 マキノにいらした 河 合 広 始 さんはご 存 じですか。河 合 さんは 大 道 具 かどっかと 違 いますか。 大 道具 でもう 一 人 、 居 はったなあ。 松 村 ( 清 次 郎 )さんか。松 村 さんは 小 道 具 やったかなあ。 松 村 さんはよう 知ってますわ。 年 配 やったね、 松 村 さんは。( 撮 影 所の)なかに、ちゃんと 小 道 具 部 屋 おまんがな。ほとんど、 小 道 具 なんか 揃 うてましたな。 衣 装 も、 衣 装部 屋 がちゃんと 置 いたった。 大 概 もう 衣 装 は 衣 装 部(47)(49)(50)(46)252


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話屋 、 鬘 は 鬘 部 屋 があって。 主 演 は 鬘 屋 が 鬘 、 別 に誂 えてくれるけども、 普 通 のヤツは 鬘 部 ってあった。あんまり 他 所 から 借 りていなかったな。これにね、 大(51)海 ( 源 太 郎 )さんね。この 人 、 照 明 係 の 主 任 さんや。この 人 も 心 安 かった。 藤 林 甲 さんは 大 海 さんの 弟子 で 親 切 でしたわ。( 藤 林 さんは) 東 京 かどっかいかはったなあ。ええ 撮 影 所 へ 行 かはったはずやわ。そんなことちょっと 便 りがありました。(53)都 村 健 さんは、マキノの 雑 誌 社 や、 編 集 者 や。『マキノ 映 画 』という 雑 誌 が 出 まんのや、 毎 月 。なかなか 熱 心 やったわ。よく 撮 影 所 来 てはったもん。 金森 さんやとか 井 上 さんやとか、 心 安 かったで。 都 村健 さんは、 出 来 た 雑 誌 持 ってきはりますやろ、それで、やっぱり 見 たいがな。どんなのが 出 るか 分 からんもん。 文 句 も 書 いてあるし。「 都 村 さん 私 もひとつ貰 いま」 言 うて。 仲 良 うしてな 貰 われへん。─ 他 にはどういう 裏 方 さんがいらっしゃいましたか。(54)西 郷 ( 昇 )さんは、 馬 方 さんもやってて、 自 分 も 俳優 に 出 てはった。─ 乗 馬 シーン 専 門 ですか。普 通 の 俳 優 として 出 てはりましたわ。 吹 き 替 えのときには、 西 郷 さん、( 馬 に) 乗 ってましたな。 馬 が要 るときは、 斡 旋 してくれますわ。 高 岡 ( 昌 嗣 )さんも 子 役 で 出 てました。お 父 さんが 西 郷 昇 さんで。これ 馬 方 の、 親 子 繋 がりや。( 馬 は) 西 郷 さんがどっかに 預 けてはったな。 高 岡 さんは( 馬 方 に)なったのは、マキノ 正 博 さんが 所 長 の 時 分 。 八 瀬 大 原 ( 京都 市 左 京 区 )の 馬 (を 使 ったロケ)おまんだな?あれやとか、「 謎 」(『 佐 平 次 捕 物 帖 の 内 第 五 篇 謎後 篇 』)のとき、 京 都 の 綾 部 ( 京 都 府 福 知 山 盆 地 )の方 でも 馬 使 うたことおまんがな。そのときも 西 郷 さんが 現 場 へ 馬 連 れて 来 てくれはってん。 今 こそ 自 動車 で 運 ぶけどね、あの 時 分 はどないして 馬 運 んだのか 知 りまへんのや。せやけど、ちゃんと 現 場 で 馬 、居 てましたわ。 東 映 の 時 分 になったら 高 岡 昌 嗣 さんが、 馬 持 って 東 映 ( 京 都 撮 影 所 )の 近 所 で 牧 場 やっとったわ。 馬 、 置 いてあった。─ロケ 写 真 (『マキノプロダクション』1928 年 7 月号 )に 大 海 自 動 車 屋 と 説 明 がありますが。大 海 さんは 自 動 車 屋 さんや。 貸 し 自 動 車 や、マ(52)(55)『 佐 平 次 捕 物 帖 の 内 第 五 篇 謎 後 篇 』 八 木 ロケ。 前 列 右より、 金 子 新 、 新 見 映 郎 、 自 動 車 屋 。 中 列 左 より、 自 動車 屋 、 小 岩 井 昇 三 郎 、 管 家 紅 葉 、 山 本 緑 葉 、 不 明 、 金 森万 象 。 後 列 左 より、 江 原 義 夫 助 手 、 石 野 誠 三 、 不 明 、 滝川 紅 二 助 監 督 、 以 下 自 動 車 屋 提 供 : 管 家 紅 葉 氏キノの。─マキノ 撮 影 所 所 員 としてですか。いやいや 別 で、それを 専 属 みたいに 借 りてるわけや。 大 海 さんは、 他 の 一 般 の 仕 事 もしてはった。せやけど 撮 影 所 へ 行 くときは 大 体 その 前 日 に、「 何本 要 るのや」てここ( 大 海 自 動 車 )から 聞 きにくる。そしたら 事 務 や 総 務 の 方 で「 明 日 どこの 組 が 何 台 要る」と 言 いますやろ、それで 段 取 りしてくれるわけや。─ 自 動 車 屋 は 太 秦 界 隈 にあるんですか。近 所 にあったんと 違 いまっか。 撮 影 所 の 近 所 に。私 ら 居 たときはもう 専 属 の 自 動 車 屋 で、 観 光 バスみたいなもの(ロケバス)も 皆 ここから 雇 うてました。「 明日 6 時 に 行 くよってに」(と 言 う)と、その 前 にちゃんと( 自 動 車 が) 来 てくれはるわ。カメラマン( 技 師 )やったらええ 車 に 乗 るけども、 大 部 屋 のモンとか 道 具 方は 皆 ガタガタ(の 自 動 車 )で( 笑 )。─ 移 動 撮 影 のときなど、キャメラを 載 せて 大 海 自動 車 の 運 転 手 が 運 転 するのですか。いやいや、 普 通 に 歩 くシーンなんかは、 車 じゃとっても 速 いから、 皆 で 後 ろから 押 すんですわ。キャメラ 助 手 や 私 やら 大 部 屋 ( 俳 優 )や、 皆 でや。─ 追 っかけシーンの 場 合 は?速 いときは 運 転 しますな。 当 時 はオープンカーやから。ロケ 地 へその 車 で 行 って、それがカメラ 乗せて 撮 影 するわけや。─ 撮 影 所 に 千 本 組 の 方 はいらしてましたか。(56)笹 井 栄 次 郎 さんは、 千 本 ( 組 )の 人 やってん。 私 、253


アート・リサーチ Vol.3居 ったときは、( 既 に) 居 られたですわ。ええ 顔 役 や。省 三 さんの 時 代 からもう、 笹 井 さんは 来 てはりましたわ。 毎 日 来 てはらへんねん。 自 由 出 勤 、 違 いまっか。ときたま 顔 見 せはるだけで。 別 に 何 もしやはらへんけど、うろうろと 来 てましたわ。Ⅴ. 撮 影 所 界 隈─ 当 時 、 撮 影 所 に 全 国 から 映 画 好 きの 人 たちが集 まってきて、「 撮 影 所 に 入 れてくれ」というようなことは 度 々あったのでしょうか。撮 影 所 には、 一 般 の 人 は 入 れなかったね。 紹 介があったら 入 れますけどね。 地 方 から 女 の 人 が 来 ますやろ、そうすると 巧 いこと 言 って、 誘 惑 されて。そんなこともおました。─ 撮 影 所 所 員 以 外 の 出 入 りはありましたか。外 部 からは、うどん 屋 も 来 るし、 寿 司 屋 も 来 るし。うどん 屋 は 屋 台 、 持 ってきよんのや。うどんからぜんざい 何 でもある。 寿 司 ( 屋 )は、ちゃんと 桶 にこさえて 提 げて 来 るわ。 女 優 部 屋 や、 男 優 部 屋 へ 持 ってきよる。せやから 外 に 店 、 持 っとんのやろな。ほんで金 は 払 わんでもええねん。 給 料 日 ちゃんと 集 金 に来 はるねん。─ 東 亜 キネマの 方 々とは 交 流 はありましたか。そんなことはあんまりしまへんな。 消 えてしもたなあ、 東 亜 キネマ。 嵐 寛 寿 郎 さん、 居 やはったな。あこ、 有 名 な 俳 優 仰 山 おったのに。 羅 門 光 三 郎 も、 団(58) (59)徳 麿 も、 原 駒 子 もおったし。なかなか、ええ 女 優 さん 多 かったん。─ 撮 影 所 同 士 で 野 球 の 対 抗 戦 だとかの 交 流 があったかと 思 いますが。あ、 付 き 合 いありました。 一 遍 、 京 都 の 円 山 公 園に 行 ったんあってね。それから 藤 井 寺 の 球 場 おまっしゃろ?あこにも 一 遍 、 行 ったことあるわ。メンバー 違 いますねん。 応 援 だけや。( 対 戦 ) 相 手 は 知 らんな。あのときは 日 活 やとか、 東 亜 キネマとか、 帝 キネ、 色 々あったもんねえ。 千 恵 蔵 やらの 人 は 関 係 なかった。 妻 さんも 関 係 なかった。 日 活 やとか 東 亜 やとか 帝 キネやとかマキノ、そういう 連 中 やな。(57)Ⅵ. マキノプロダクション 終 幕(60)マキノ( 省 三 )さんが 伊 井 蓉 峰 という 俳 優 を 呼 んできて『( 実 録 ) 忠 臣 蔵 』(1928)、 撮 影 してはったんです。その 当 時 、 名 古 屋 の 撮 影 所 があって、そこで、“ 松 の 廊 下 ”、“ 刃 傷 場 ”、を 撮 影 にマキノさんが 行かはってね。それで 帰 ってきてフィルムを 整 理 してはったんです。ところがその 当 時 は、フィルムの 整理 はスタンドの 電 気 を 置 いてフィルムを 見 るんです。それで 整 理 してつなぎ 合 せる。そのときに、 引 火 したんやな。フィルム、バッーと 直 、 燃 えてしまうがな。それから 病 気 されてそれで 亡 くなったんやと 思 いますな。─そのときは 撮 影 所 にはいらしたんですか。そのときは 私 、 居 ったか、ひょっとしたら 徴 兵 検 査か 何 かで 一 時 ( 郷 里 に) 帰 ってたかも 分 かりませんねん。( 撮 影 所 に) 帰 ってきたときは 向 う(マキノ 省三 ) 逝 ってしまった。 葬 式 のときは 私 、 行 かなかったわ。その 前 に、“ 目 玉 の 松 っちゃん”の 葬 式 がありましたな。あれはマキノ 省 三 さんの 前 やったな、 尾 上(61)松 之 助 の 葬 式 。 大 将 軍 の 撮 影 所 でしたな。 北 野 さんを 一 寸 行 ったところ。─ 嵐 寛 寿 郎 さんや 片 岡 千 恵 蔵 さんが 昭 和 3 年 にマキノを 退 社 しますよね?ああ、そのときに、 千 恵 蔵 さんは 石 本 秀 雄 さん、キャメラマンね、 引 っ 張 ってしまはって。 石 本 さんと(63)か 三 木 稔 さんとか、ええキャメラマンやったな。─その 混 乱 のなかで、 撮 影 が 中 止 になってしまったりしたとか。ああ、そうらしいね。 一 時 中 止 やったなあ。その時 分 に、ゴタゴタしはったんやなあ。─『 戻 橋 』(1929、マキノ 正 博 )について 伺 えますか。マキノ 省 三 さんが、「ダークステージNO.2」で、 初めてトーキーやったと 思 います。『 戻 橋 』をここで 初めて 試 験 的 に。 蓄 音 機 借 りて、レコード 会 社 行 って。成 功 するかせんかの 境 目 やな。それ、やらはったんや。「ダークステージNO.2」は、マキノ 省 三 さん 以外 、 入 れへなんだ。だから 撮 影 知 らんねん。省 三 さん、 亡 くなりましたやろ、それからは 一 時(62)254


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話平 和 になりましたな。 昭 和 5 年 の、ストライキのときは知 らんわ。その 前 に 皆 もう 片 岡 千 恵 蔵 やとか、 寛 寿郎 さん、 出 てしまっはった。 残 った 後 、マキノ 正 博 さんが、 再 建 しはったんと 違 いますか。それでマキノ正 博 さんが 所 長 や。 殆 どもう、ええ 役 者 いませんが(64)な。 南 光 明 さんぐらいやったんと 違 いますか。 松 浦築 枝 さんは 万 年 娘 や( 笑 )。 有 名 な 人 、 皆 出 てしまった 後 や。その 時 分 はもう 居 りませなんだ。これが一 応 会 社 になってしもうて、(マキノをやめてから)しばらくしてからの 会 社 やもん、あの 会 社 なんてものは。それであと 日 活 とか、 皆 バラバラに。バラバラになってから 金 森 さんは 一 時 、 帝 産 バス( 帝 産 観 光 バス)の 写 真 部 へ 入 ってましたわ。 石 野誠 三 さんは 中 央 競 馬 会 ( 日 本 中 央 競 馬 会 ─JRA)の 写 真 判 定 の 部 門 に 入 ってやってましたわ。 石 野さんは( 私 が) 辞 めてからも、 家 へ 遊 びに 来 てくれたね。 私 は 古 川 橋 前 で 実 家 がやっていた「とり 弥 三 」という 料 理 旅 館 を 継 がんならんので、 途 中 で 辞 めたけども。 本 当 は 辞 めたくなかったんや。 一 人 息 子 やったからね、しょうがない。その 店 もダメになって、そのあと 徴 用 されて、 私 は 特 殊 技 術 者 やから、 軍事 工 場 で 働 いてましたわ。そやから 終 戦 後 は 苦 労しました。けれど 不 思 議 なもんですな。 私 は 泣 く 泣く 辞 めて、 苦 労 しましたけれど、 今 元 気 に 不 自 由 無く 暮 らしていて。あの 頃 辞 めずにずっと 残 ってた 人達 は、 散 り 散 りになって 生 活 も 苦 労 した 人 が 多 い。あの 頃 の 映 画 業 界 は 今 と 違 って、 副 業 がないから大 変 や。 今 93 歳 で4、5 年 (マキノに) 居 っただけやけど、 良 かったなあ、 思 います。左 より、 管 家 紅 葉 、 瀬 川 与 志 、 永 井 柳 太 郎 ( 前 )、 久 利 富周 介 ( 後 )、 不 明 、 不 明 提 供 : 管 家 紅 葉 氏注(1) 月 形 龍 之 介 (1902-1970)。 俳 優 。 本 名 : 門 田 潔人 。マキノの 俳 優 養 成 所 に 入 所 後 、 中 村 末 之 助一 座 に 加 わり、 地 方 巡 業 に 出 る。1922 年 、 牧 野教 育 映 画 製 作 所 に 中 村 東 鬼 蔵 の 名 で 大 部 屋 入りし、 寿 々 喜 多 呂 九 平 によって 月 形 龍 之 介 に 改名 。 初 期 は、 阪 東 妻 三 郎 の 陰 で 端 役 として 出 演していたが、 徐 々に 頭 角 を 現 し、 妻 三 郎 と 争 うほどのトップスターとなる。 製 作 に 対 する 野 心 もあり、28 年 、31 年 と 独 立 プロダクションを 設 立 するがいずれも1 年 で 解 散 。 松 竹 、 東 活 、フリー 時 代 を 経て、 新 興 キネマ、マキノトーキー、 日 活 などに 転々と 籍 を 置 き、42 年 から49 年 まで 大 映 に 在 籍 。後 年 はフリーとして『ジャコ 万 と 鉄 』(1949、 谷 口千 吉 、 東 宝 )でのジャコ 万 や、 同 年 、 東 横 映 画(のちの 東 映 )に 入 社 後 、『 殺 陣 師 段 平 』(1950、マキノ 正 博 )に 主 演 、その 存 在 感 を 発 揮 した。また、「 水 戸 黄 門 漫 遊 記 」シリーズの 黄 門 役 も 定 着し、54 年 から61 年 まで 計 14 本 に 主 演 。 日 本 芸 術家 信 用 組 合 の 初 代 理 事 長 も 務 めた。(2) 阪 東 妻 三 郎 (1901-1953)。 俳 優 。 本 名 : 田 村 傳吉 。1916 年 片 岡 仁 左 衛 門 に 入 門 後 、23 年 マキノ教 育 映 画 製 作 所 に 入 社 。 寿 々 喜 多 呂 九 平 との共 同 生 活 の 中 で、「 佐 平 次 捕 物 帳 」 第 二 話 『 鮮 血の 手 型 』(1923、 沼 田 紅 緑 )に 主 演 し、スターダムにのし 上 がる。 苦 悩 と 純 真 さを 併 せ 持 つ 新 たな俳 優 として 活 躍 し、それまでのスター 像 を 塗 り 替えた 革 命 児 。24 年 に 帝 キネへ 移 るが、 翌 年 阪 東妻 三 郎 プロダクションを 設 立 。マキノプロと 配 給提 携 し、 剣 戟 シーンが 印 象 的 な『 雄 呂 血 』(1923、二 川 文 太 郎 )を 製 作 。 続 いて 翌 年 にはユニバーサル 日 本 支 社 と 提 携 し、 阪 妻 立 花 ユニバーサル連 合 映 画 を 設 立 するが、27 年 には 約 定 解 釈 の 相違 により 解 約 する。その 後 、 阪 妻 プロは 松 竹 、 新興 キネマなどの 映 画 会 社 と 提 携 、 合 流 し、 作 品 を世 に 送 り 出 す。36 年 の 解 散 後 、 妻 三 郎 は 日 活 に入 社 するが、42 年 に 大 映 へ 移 り、『 無 法 松 の 一生 』(1943、 稲 垣 浩 )、『 王 将 』(1948、 伊 藤 大 輔 )などの 作 品 に 主 演 。49 年 からはフリーで 活 躍 した。(3) 市 川 右 太 衛 門 (1907-1999)。 俳 優 。 本 名 : 浅 井255


アート・リサーチ Vol.3善 之 助 。 市 川 右 団 次 門 下 となり、 名 前 を 市 川 右一 とし、 関 西 青 年 歌 舞 伎 の 花 形 として 活 躍 。1925 年 、 省 三 のスカウトにより 入 社 。 右 太 衛 門 と改 名 、スターとしての 一 歩 を 踏 み 出 す。 得 意 の 立廻 りで 他 を 圧 倒 し、 美 剣 士 スターとしての 地 位 を築 く。27 年 には 市 川 右 太 衛 門 プロダクションを 設立 し、あやめ 池 に 撮 影 所 を 建 設 。30 年 には、その 後 シリーズ 物 として 何 度 も 撮 られることになる『 旗 本 退 屈 男 』 第 一 編 ( 古 海 卓 二 )が 製 作 される。36 年 に 独 立 プロを 解 散 、 新 興 キネマへ 移 り、42年 に 統 合 、 創 立 された 新 会 社 、 大 映 では、 阪 妻 、千 恵 蔵 、 寛 寿 郎 らと 競 演 。49 年 、 東 横 映 画 (のち東 映 )が 創 立 された 後 は、 大 映 の 契 約 切 れを 待っての 入 社 。51 年 には 千 恵 蔵 と 共 に、 東 映 の 取締 役 にも 選 任 され、 重 役 スターとなる。(4) 片 岡 千 恵 蔵 (1903-1983)。 俳 優 。 本 名 : 植 木 正義 。1912 年 、 片 岡 仁 左 衛 門 主 宰 の 片 岡 少 年 劇に 入 った 後 、 千 栄 蔵 として 大 歌 舞 伎 に 出 演 。その 後 、 映 画 界 入 りを 希 望 し、27 年 にマキノ 御 室 に入 社 、 嵐 寛 寿 郎 と 共 にマキノを 盛 り 立 てていく。28 年 退 社 と 共 に 片 岡 千 恵 蔵 プロダクションを 設立 し、『 瞼 の 母 』(1931、 稲 垣 浩 )、『 国 士 無 双 』(1932、 伊 丹 万 作 )、『 赤 西 蛎 太 』(1936、 伊 丹 万作 )などの 秀 作 を 放 つ。37 年 に 解 散 し 所 員 ともども 日 活 へ 入 社 、42 年 には 創 立 された 大 映 へ。 戦後 の 時 代 劇 規 制 時 期 は 現 代 劇 『 七 つの 顔 』(1946、 松 田 定 次 )など 主 演 し、 東 横 映 画 ( 後 の東 映 ) 入 社 後 は、 右 太 衛 門 と 共 に 取 締 役 となり、重 役 スターとして 東 映 の 屋 台 骨 を 支 えた。 後 年は 小 牧 ハイランド 社 長 に 就 任 。(5) 嵐 寛 寿 郎 (1903-1980)。 俳 優 。 本 名 : 高 橋 照 一 。嵐 和 歌 太 夫 として 女 形 で 活 躍 。1927 年 右 太 衛 門の 後 釜 としてマキノに 入 社 し、『 鞍 馬 天 狗 異 聞角 兵 衛 獅 子 』(1927、 曽 根 純 三 )に 主 演 。1 年 間で28 作 品 に 出 演 、 片 岡 千 恵 蔵 と 共 に 人 気 を 博 す。独 立 プロを 起 こすが、 日 本 映 画 プロダクション 連盟 の 瓦 解 により、1 年 も 経 たないうちに 解 散 。29年 に 東 亜 キネマへ 入 社 、「 右 門 捕 物 帖 」シリーズで 人 気 を 博 す。31 年 には 第 二 次 嵐 寛 寿 郎 プロダクションを 設 立 し、 山 中 貞 雄 、 並 木 鏡 太 郎 監 督 らと 共 に、 名 作 を 放 つ。37 年 に 解 散 後 、38 年 日 活へ 入 社 し、 阪 妻 、 千 恵 蔵 と 共 に、 御 三 家 としてもてはやされた。(6)マキノ 正 博 (1908-1993)。 監 督 。 本 名 : 牧 野 正 唯 。マキノ 省 三 の 長 男 。 父 、マキノ 省 三 に 映 画 人 として 厳 しく 育 てられた。 子 役 として 出 演 を 始 め、 後には 監 督 として 名 作 を 生 み 出 す。マキノ 映 画 を 表になり 陰 になり 支 えた 人 物 。 省 三 の 死 後 マキノプロ 解 散 、 正 映 マキノを 設 立 するが、 経 営 困 難 であえなく 離 散 。 自 身 は 借 金 を 背 負 い、 日 活 、 東 京 映音 、 嵐 寛 プロを 経 て、1935 年 マキノトーキーを 創立 するが 経 営 不 振 により37 年 に 日 活 復 社 。41 年には 東 宝 へ、44 年 に 転 じた 松 竹 では 撮 影 所 所 長を 兼 任 。48 年 以 降 はフリーで 活 躍 した。 改 名 遍 歴は、 正 唯 → 雅 弘 → 雅 裕 → 雅 広 。(7) 都 賀 静 子 (1912- 没 年 不 明 )。 俳 優 。 本 名 : 須 永静 子 。 舞 台 俳 優 から 映 画 に 転 じ、マキノ 御 室 や宝 塚 キネマでの 老 練 な 演 技 で 知 られる 父 、 都 賀清 司 や、 子 役 で 活 躍 していた 弟 の 都 賀 一 司 と 一家 で 作 品 に 出 演 。 幼 少 期 より 父 について 子 役 で舞 台 に 立 ち、 国 活 や 松 竹 蒲 田 でも 子 役 として 出演 。1924 年 にマキノ 等 持 院 に 父 と 共 に 入 社 。マキノ 正 博 、 東 郷 久 義 とコンビを 組 んだり、 中 根 龍 太郎 や 近 藤 伊 与 吉 とも 共 演 した。31 年 マキノ 御 室 の解 散 により、 父 と 東 活 映 画 社 へ 転 社 。(8) 高 木 新 平 (1902-1967)。 俳 優 。 本 名 : 高 木 慶 吉 。1921 年 、マキノの 俳 優 養 成 所 に 入 所 、 柳 妻 麗 三郎 に 師 事 して 演 技 を 学 び、 片 岡 慶 左 衛 門 と 名 乗る。 所 内 には、 中 村 東 鬼 蔵 (のち 月 形 龍 之 介 )もいた。23 年 に 高 木 新 平 と 改 名 、『 怪 傑 鷹 』(1924、二 川 文 太 郎 )が 人 気 を 博 し、 金 森 監 督 との『 闘争 』(1924)で“ 鳥 人 ”のニックネームが 付 く。それまでにない、スピーディーな 時 代 劇 作 品 で 注 目を 集 めた。27 年 に 高 木 新 平 プロダクションを 設 立 、吉 田 山 麓 に 撮 影 所 を 建 設 するが、28 年 にマキノに 復 社 。(9) 沼 田 紅 緑 (1891-1927)。 監 督 。1921 年 牧 野 教 育映 画 に 入 社 し、 以 後 牧 野 省 三 と 行 動 を 共 にする。寿 々 喜 多 呂 九 平 の 脚 本 で『 鮮 血 の 手 型 』を 阪 東妻 三 郎 主 演 で 監 督 し、 続 いて『 討 たるヽ 者 』256


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話(1924)では、 阪 妻 人 気 を 不 動 のものとした。 一 方 、月 形 龍 之 介 主 演 で『 刃 光 』 前 後 篇 (1924)を 監 督するなど 活 躍 はめざましく、マキノ 省 三 の 片 腕 として 働 く。27 年 2 月 、マキノ 省 三 の 応 援 監 督 として『 実 録 忠 臣 蔵 』(1928)の 彦 根 での 雪 のロケーション 撮 影 で 風 邪 をひき、 体 調 を 崩 して 翌 月 逝 去 。(10) 二 川 文 太 郎 (1899-1966)。 監 督 。 軍 人 になろうとしていたが、やがて 栗 原 トーマスに 師 事 して 映画 を 学 ぶ。1921 年 大 正 活 映 撮 影 所 から、 牧 野 教育 映 画 部 に、 俳 優 として 入 社 。その 後 、 撮 影 部や 脚 本 部 、タイトル 部 などを 経 て23 年 に『 唇 気楼 』を 初 監 督 。ちなみに、マキノ 映 画 の 冒 頭 に 必ず 映 されるマキノのマークは、タイトル 部 にいた経 験 を 生 かし 二 川 が 考 案 したものと 言 われている。 同 時 期 に 大 正 活 映 から 移 籍 した 井 上 金 太 郎と 同 じく、 脚 本 も 書 き、 紫 之 塚 乙 馬 という 筆 名 で作 品 を 執 筆 。マキノ 解 散 後 は、 松 竹 下 加 茂 や、宝 塚 映 画 で 時 代 劇 を 撮 り 続 けた。(11) 井 上 金 太 郎 (1901-1954)。 監 督 。 大 正 活 映 撮影 所 で 栗 井 饒 太 郎 と 名 乗 り、 俳 優 として 所 属 。1921 年 、 牧 野 教 育 映 画 部 に 入 社 し、『 一 太 郎 やあい』(1921)や『 幸 福 は 何 処 より』(1922、 金 森 万象 )に 主 演 するが、のち 監 督 を 志 すようになり、マキノ 省 三 の 下 で 助 監 督 を 経 験 する。23 年 には 初監 督 作 品 『 立 派 な 父 』を 世 に 出 し、 阪 妻 プロ 設 立時 には『 異 人 娘 と 武 士 』(1925)を 監 督 し、 好 評 を得 る。 秋 篠 珊 次 郎 の 筆 名 で 脚 本 も 書 いた 監 督 作が、キネマ 旬 報 ベストテンを 賑 わせるなど、マキノ御 室 時 代 に 活 発 な 活 動 を 展 開 。28 年 の 月 形 プロ設 立 時 には、 月 形 龍 之 介 と 行 動 を 共 にし、 作 品を 数 多 く 監 督 する。 後 年 は 松 竹 に 移 り、20 年 近 く作 品 を 撮 り 続 ける。(12) 寿 々 喜 多 呂 九 平 (1899-1960)。 脚 本 家 、 監 督 。本 名 : 神 脇 満 。1923 年 マキノ 等 持 院 入 社 。 脚 本作 『 鮮 血 の 手 型 』(1923、 沼 田 紅 緑 )で 阪 妻 を 主演 にし、 一 躍 スターにのし 上 げる。 以 後 、コンビで 次 々と 作 品 を 発 表 、『 雄 呂 血 』(1925、 二 川 文太 郎 )で 頂 点 を 迎 える。 今 回 談 話 でも 話 題 に 上がった「 佐 平 次 捕 物 帖 」シリーズは、 彼 が 長 年 書き 溜 めていた 小 説 を 元 にしたもの。26 年 退 社 、 以後 は 帝 キネ、 新 興 キネマ 等 で 監 督 作 を 発 表 。 神脇 満 、 新 妻 逸 平 太 の 監 督 名 あり。(13) 西 条 照 太 郎 (1902- 没 年 不 明 )。 脚 本 家 。 本 名 :土 屋 可 義 。 運 輸 会 社 、 保 険 会 社 に 勤 務 後 、1925年 に 帝 キネ 脚 本 部 に 入 社 。 同 年 マキノ 等 持 院 に移 り、マキノ 御 室 時 代 も 引 き 続 き 活 躍 した。 金 森監 督 とは『 正 剣 邪 剣 前 後 篇 』、『 青 春 』で 共 に 仕事 をする。 代 表 的 な 作 品 としては、『 修 羅 八 荒 』(1926、マキノ 省 三 他 )、『 鳴 門 秘 帖 』(1927、 沼 田紅 緑 )が 挙 げられる。28 年 に 退 社 、 独 立 後 、 月 形プロ、 河 合 プロダクションを 転 々とし、36 年 にマキノトーキー 脚 本 部 に 波 多 憲 治 の 名 で 参 加 。 新 興キネマ 京 都 時 代 には、 怪 猫 映 画 の 脚 本 も 手 掛 け、45 年 にフリーとなる。 別 名 を 西 条 章 太 郎 や、 木 下藤 吉 としていた。 後 年 は 嵐 山 嵯 峨 どうふ「 竹 村 」主 人 としての 生 活 を 送 る。(14) 石 野 誠 三 (1905- 没 年 不 明 )。 撮 影 技 師 。1919年 に 日 活 関 西 撮 影 所 に、 技 術 見 習 い 助 手 として入 社 。21 年 退 社 後 、 大 阪 サワタ 映 画 製 作 所 を 経て24 年 にマキノ 等 持 院 に 入 社 し 設 立 とともにマキノ 御 室 へ。 一 本 立 ちした25 年 の『 奇 傑 鬼 鹿 毛 』 以後 、 金 森 監 督 とは 長 年 コンビを 組 み、『 矢 衾 』、『 砂 絵 呪 縛 』などを 担 当 。 大 森 伊 八 や、 三 木 稔 らと 共 に、 重 要 なキャメラマンとして 活 躍 。 名 古 屋中 部 撮 影 所 設 立 時 には、 現 代 劇 部 のキャメラマンとして 指 名 もされ、 他 プロでは 阪 東 妻 三 郎 主 演での『 雄 呂 血 』(1925、 二 川 文 太 郎 )の 撮 影 も 担当 。マキノ 御 室 が 解 散 した 後 は、すぐにJ.Oスタジオに 転 じ、 編 集 に 携 わるが、41 年 には 満 映 に移 り、 石 野 吉 三 郎 の 名 で、 作 業 管 理 所 技 術 班 長 、編 集 係 主 任 として 終 戦 まで 在 籍 した。マキノ 当 時は 女 優 の 水 谷 蘭 子 と 夫 婦 だった。(15) 山 崎 一 雄 (1909- 没 年 不 明 )。 撮 影 助 手 。 大 阪英 語 専 門 学 校 卒 後 、マキノ 御 室 時 代 は、 石 野 誠三 の 助 手 として 活 動 。 富 沢 進 郎 監 督 の『 黒 怪 流星 』(1927)の 助 監 督 も 務 めている。その 後 J.Oスタジオ( 後 の 東 宝 )に 入 社 。1941 年 、 東 宝 スタジオ( 東 京 撮 影 所 ) 所 属 。46 年 新 東 宝 、51 年 再 度東 宝 に 所 属 した。(16) 壇 常 夫 ( 生 没 年 不 明 )。 撮 影 助 手 。 詳 細 は 不 明257


アート・リサーチ Vol.3であるが、 金 森 監 督 作 品 では『 青 春 』の 撮 影 助手 としての 記 録 がある。(17) 松 浦 茂 (1898 年 - 没 年 不 明 )。 撮 影 技 師 。 別 名 :松 浦 詩 華 留 。1919 年 に 日 活 関 西 撮 影 所 へ 入 社 、翌 年 退 社 し、 野 ヶ 原 飛 行 隊 撮 影 課 に 奉 職 。 同 課辞 職 後 の22 年 にマキノ 等 持 院 へ 入 社 。 金 森 監督 を 始 めとして、マキノ 省 三 、 沼 田 紅 緑 、 中 島 宝三 、 吉 野 二 郎 、 二 川 文 太 郎 など 多 彩 な 監 督 に 付き、 石 野 誠 三 、 大 森 伊 八 、 三 木 稔 などの 撮 影 技師 と 肩 を 並 べた。33 年 からは 宝 塚 キネマに 在 籍 。36 年 には 太 秦 発 声 映 画 株 式 会 社 ( 後 の 東 宝 )の編 集 部 に 在 籍 記 録 がある。(18) 江 原 義 夫 ( 生 没 年 不 明 )。 撮 影 技 師 。 江 原 義 雄としての 表 記 もあり。マキノ 御 室 時 代 の 詳 細 は 不明 であるが、 金 森 監 督 の『 隼 六 剣 士 』には 撮 影助 手 として 記 録 がある。 後 は 東 宝 に 移 り、『 東 京オリンピック』(1965、 市 川 崑 )では、 編 集 部 長 、また 製 作 本 部 委 員 会 にも 名 を 連 ねている。(19) 山 上 伊 太 郎 (1903-1945)。 脚 本 家 。 滋 賀 県 生れで 大 津 市 役 所 給 士 であったが、 東 亜 キネマのシナリオ 研 究 生 となる。『 帰 ってきた 英 雄 』(1926、仁 科 熊 彦 )でマキノ 省 三 の 目 に 留 まり、マキノ 御室 に 同 年 入 社 。『 蹴 合 鶏 』(1928、マキノ 正 博 )、『 浪 人 街 』 三 部 作 (1928-29、マキノ 正 博 )、『 首 の座 』(1929、マキノ 正 博 )などを 次 々と 執 筆 、マキノ 正 博 、 撮 影 技 師 の 三 木 稔 とトリオを 組 んだ 作 品が、 若 者 の 人 気 を 博 したが、 後 年 はスランプに 見舞 われる。 戦 時 下 フィリピンのルソン 島 で 陸 軍 報道 班 員 として 戦 死 した。(20) 岡 本 一 鳳 ( 生 没 年 不 明 )。 字 幕 部 。 金 森 監 督 の『 祇 園 小 唄 絵 日 傘 第 一 話 』(1930)でのタイトルなどを 手 掛 ける。 詳 細 は 不 明 であるが、マキノトーキー 瓦 解 後 は 日 活 に 転 社 しており、1941 年 まで 日 活 京 都 タイトル 部 に 在 籍 記 録 がある。(21) 鈴 木 影 一 郎 ( 生 没 年 不 明 )。タイトル( 字 幕 ) 部 。学 生 時 代 の「マキノ 映 画 」 誌 への 投 稿 がきっかけで、マキノ 御 室 美 術 部 のタイトルマンとなり、 助 監督 や 撮 影 助 手 との 交 流 も 深 かった。 柏 木 一 雄 監督 や 稲 葉 蛟 児 監 督 に 脚 本 を 提 供 したりもした。1933 年 からは 右 太 衛 門 プロに 転 じ、35 年 までは美 術 主 任 として 在 籍 記 録 がある。また、 雑 誌 の 評論 も 手 掛 けるなど 幅 広 い 活 動 を 展 開 した。 後 年は 静 岡 県 湖 西 商 工 会 に 勤 務 。(22)マキノ 輝 子 (1907-1984)。 俳 優 。マキノ 省 三 の四 女 。 尾 上 松 之 助 主 演 作 『 曾 我 兄 弟 一 代 記 』(1911、 横 田 商 会 製 作 ) 以 後 、 牧 野 省 三 監 督 作品 に 子 役 として 出 演 し、マキノ 等 持 院 時 代 に 本格 的 に 女 優 活 動 を 開 始 。『 逆 流 』(1924、 二 川 文太 郎 )で、 人 気 を 確 立 し、 看 板 女 優 として 活 躍 。1931 年 4 月 、 沢 村 国 太 郎 と 結 婚 、 共 にマキノ 御 室を 退 社 し、 東 活 映 画 に 入 社 。その 後 、 弟 の 正 博の 日 活 太 秦 時 代 劇 部 入 社 にあわせ、32 年 、 夫 婦で 日 活 入 社 。35 年 、 新 興 キネマへ 移 籍 するが、正 博 がマキノトーキーを 設 立 すると 夫 婦 で 参 加 。37 年 4 月 、マキノト―キー 解 散 により 一 旦 家 庭 に入 る。 改 名 遍 歴 : 牧 野 恵 美 子 ( 本 名 )→マキノ 輝子 →マキノ 智 子 → 藤 乃 智 子 →マキノ 智 子 →マキノ 輝 子 → 加 藤 智 子 。 息 子 に 長 門 裕 之 、 津 川 雅 彦がいる。(23) 大 林 梅 子 (1907-1995)。 俳 優 。 本 名 : 大 林 静 枝 。1925 年 9 月 に、マキノ 映 画 の 名 古 屋 の 興 行 主 であった 竹 本 にスカウトされてマキノ 御 室 入 社 。 大林 静 子 の 名 で 純 情 可 憐 な 役 を 演 じ、 観 客 を 魅 了 。マキノ 正 唯 がマキノ 正 博 に 改 名 したのと 同 時 期 に大 林 梅 子 と 改 名 し、 沼 田 紅 緑 監 督 の 遺 作 となった『 江 戸 嵐 』(1927)にも 河 原 崎 権 三 郎 と 共 演 した。また、 同 年 、 勝 見 正 義 監 督 の『 文 七 元 結 』(1927)で 初 めての 妖 婦 役 に 挑 戦 。『 浪 人 街 第 一 話 美しき 獲 物 』(1928、マキノ 正 博 )では、 牛 裂 きの 刑に 処 せられる、 女 スリの 役 で 脚 光 を 浴 びた。30 年にマキノを 退 社 し、31 年 南 光 明 と 結 婚 後 、 共 に 松竹 下 加 茂 へ 入 社 。(24) 松 浦 築 枝 (1907-1999)。 俳 優 。 本 名 : 大 野 月 枝 。朝 鮮 釜 山 生 まれ。マキノ 省 三 の 指 示 により 月 枝から 築 枝 に 改 名 。 松 竹 下 加 茂 で 演 技 を 学 び、1925 年 のマキノ 御 室 入 社 から 解 散 までマキノ 智子 と 共 に、マキノ 黄 金 時 代 を 支 えた。 入 社 当 時の 嵐 寛 寿 郎 や、 片 岡 千 恵 蔵 の 相 手 役 なども 務 め、二 人 の 退 社 後 も 南 光 明 と 共 に 正 博 の 作 品 に 出演 し、『 蹴 合 鶏 』(1928)や『 浪 人 街 』 三 部 作258


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話(1928-29)にも 出 演 するなど、 功 績 は 大 きい。マキノ 御 室 瓦 解 の 瀬 戸 際 には、 名 古 屋 や 浅 草 で 役者 達 と 舞 台 に 立 ち、 争 議 資 金 の 調 達 に 尽 力 した。32 年 には 監 督 の 松 田 定 次 と 結 婚 し、 正 映 マキノでも 活 躍 するが、 解 散 後 は 宝 塚 キネマに 移 籍 。それも 解 散 した 後 は 太 秦 発 声 、エトナ 映 画 などに 出 演 する。しかしマキノトーキーが 出 来 ると、 夫と 共 に 参 加 し、あくまでマキノを 盛 り 立 てた。52 年 、東 映 京 都 の 専 属 となり、65 年 まで 活 躍 した。(25) 鈴 木 澄 子 (1904-1985)。 俳 優 。1921 年 、 大 正 活映 入 社 。23 年 、 小 笠 原 プロを 経 由 し、24 年 にマキノ 等 持 院 へ 入 社 。その 年 に、 帝 キネの 引 き 抜 きに応 じ 移 籍 するが、 間 もなく 解 雇 。25 年 6 月 にマキノ御 室 に 入 社 後 は、 金 森 監 督 との『 女 怪 』で 妖 婦 役としての 才 能 を 開 花 させる。その 後 は 同 監 督 の『 砂 絵 呪 縛 』でのお 酉 役 、 千 恵 蔵 主 演 『 万 花 地獄 』( 全 五 篇 、1927-28、 中 島 宝 三 他 )でのお 妻 役で、その 座 を 不 動 のものとする。28 年 に 河 合 映 画に 引 きぬかれ、 杉 狂 児 や 松 林 清 三 郎 らと 共 演 し、演 技 に 磨 きをかける。29 年 には 右 太 衛 門 プロへ移 り、 市 川 右 太 衛 門 の 相 手 役 として 活 躍 する。その 後 は 転 々と 会 社 を 変 わり、『 佐 賀 怪 猫 伝 』(1937、木 藤 茂 )に 出 演 後 は、 化 け 猫 女 優 として 人 気 を 得る。(26) 武 井 龍 三 (1905- 没 年 不 明 )。 俳 優 。 本 名 : 竹 熊龍 蔵 。1925 年 『 奇 傑 鬼 鹿 毛 』( 金 森 万 象 ) 以 降 マキノ 御 室 にて、 俳 優 として 活 躍 し、 高 木 新 平 に 次ぐ" 鳥 人 "スターとして 人 気 が 出 る。 金 森 監 督 との作 品 は『 剣 は 鳴 る 前 篇 』、『 砂 絵 呪 縛 』、『 正 剣邪 剣 前 後 篇 』、『 女 怪 』と、 多 数 。28 年 に 退 社 後千 恵 プロに 参 加 、 翌 年 武 井 龍 三 プロダクションを設 立 するが、 失 敗 し、30 年 に 右 太 衛 門 プロに 移り、『 旗 本 退 屈 男 』(1930、 古 海 卓 二 )などで 共 演 。その 後 は 松 竹 下 加 茂 に 転 じて、 脇 役 として41 年頃 まで 活 動 した。(27) 大 谷 友 三 郎 (1899-1971)。 俳 優 。1908 年 、 大谷 友 衛 門 の 弟 子 として 初 舞 台 。 芸 名 を 助 丸 、 東蔵 とした 後 、21 年 、 大 谷 友 三 郎 と 改 名 。 沢 村 長十 郎 一 座 に 加 わり、25 年 、 長 十 郎 のマキノとの 映画 出 演 契 約 にともない 映 画 出 演 開 始 。 長 十 郎 が映 画 を 退 いた 後 もマキノに 残 り、『 正 剣 邪 剣 前後 篇 』 等 に 主 演 。27 年 、 嵐 長 三 郎 ( 寛 寿 郎 )、 片岡 千 恵 蔵 らの 入 社 と 入 れ 違 いにマキノを 退 社 し河 合 映 画 へ 移 籍 した 後 、 伊 井 蓉 峰 の 養 子 となり芸 名 を 伊 井 友 三 郎 として 新 派 の 幹 部 俳 優 となった。(28) 松 田 定 次 (1906-2003)。 監 督 。マキノ 省 三 の 庶子 。1921 年 牧 野 教 育 映 画 製 作 所 技 術 部 に 撮 影助 手 として 入 社 以 来 、 等 持 院 、 東 亜 マキノ 等 持院 、マキノ 御 室 に 在 籍 。22 年 に『 女 怪 』で 初 キャメラマンを 務 め、28 年 に 撮 影 部 から 助 監 督 部 へ 転じ『かわいそうな 大 九 郎 』で 監 督 昇 進 。 省 三 の 死後 、30 年 11 月 にマキノを 退 社 し、 帝 キネ、 新 興 キネマを 経 てマキノトーキー(1936-37)に 参 加 。その 解 散 により38 年 、 日 活 京 都 に 入 社 。47 年 、 東横 映 画 の 発 足 とともに 活 動 基 盤 を 東 横 映 画 に 移し(51 年 、 東 横 映 画 は 東 京 映 画 、 大 泉 映 画 と 合併 し「 東 映 」に 改 称 )、 東 映 の 基 軸 監 督 として『 鳳城 の 花 嫁 』(1957)など 娯 楽 時 代 劇 大 作 を 量 産 。妻 は 女 優 の 松 浦 築 枝 (32 年 結 婚 )。(29) 嵐 冠 三 郎 ( 生 没 年 不 明 )。 俳 優 。 日 活 退 社 後1921 年 、 牧 野 教 育 映 画 製 作 所 設 立 に 参 加 。 以来 、マキノ 等 持 院 、マキノ 東 亜 等 持 院 、マキノ 御室 、 正 映 マキノに 在 籍 し 一 時 は 俳 優 幹 事 も 務 めた。(30) 北 岡 よし 江 (1913- 没 年 不 明 )。 俳 優 。 別 名 : 北岡 芳 江 。 本 名 : 北 岡 よし 江 。1925 年 、 小 学 校 卒 業後 すぐにマキノ 御 室 に 入 社 し、 正 映 マキノまで 在籍 。 父 は 俳 優 の 嵐 冠 三 郎 。(31) 生 野 初 子 (1907-1967)。 俳 優 。 幼 時 より 女 歌 舞伎 で 演 技 を 鍛 え、1924 年 1 月 、マキノに 入 社 し『 山 猫 の 眼 』(1924、 後 藤 秋 声 )で 映 画 デビュー。マキノが 東 亜 から 分 離 した 後 は 夫 の 高 木 新 平(25 年 結 婚 、のちに 離 別 )とともに 東 亜 に 在 留 。26 年 、 東 亜 を 退 社 し 高 木 新 平 プロ(27-28)に 参加 。 高 木 プロ 解 散 後 、 地 方 巡 業 を 経 て28 年 4 月 、夫 婦 でマキノ 復 社 。(32) 高 木 新 平 プロダクション。1926 年 、 東 亜 キネマから 独 立 した 高 木 新 平 が 翌 年 1 月 に 設 立 、 吉 田山 の 麓 に 撮 影 所 を 建 設 。 妻 の 生 野 初 子 とともに259


アート・リサーチ Vol.310 作 品 ほど 製 作 した 後 、28 年 解 散 。(33) 天 野 刃 一 (1907- 没 年 不 明 )。 俳 優 。 中 根 龍 太郎 の 弟 子 となり、 東 亜 キネマへ 入 社 した 後 、1925年 、マキノへ 移 籍 。 月 形 龍 之 介 の 独 立 (28 年 1月 )を 知 るとすぐに 翌 月 マキノを 退 社 し 月 形 プロに 参 加 。 撮 影 中 止 のため 実 演 を 経 て、29 年 に 月形 龍 之 介 と 共 に 下 加 茂 入 社 し『 斬 人 斬 馬 剣 』(1929、 伊 藤 大 輔 )などに 出 演 。32 年 、 右 太 プロへ 移 籍 。 美 青 年 ながら 敵 役 を 得 意 とした。(34) 市 川 右 太 衛 門 プロダクション。1927 年 2 月 、マキノを 退 社 した 市 川 右 太 衛 門 が 同 年 5 月 に 設 立 、笹 川 良 一 の 斡 旋 により 奈 良 市 郊 外 の「あやめ 池遊 園 地 」 敷 地 内 に 撮 影 所 を 建 設 。(35) 片 岡 千 恵 蔵 プロダクション。マキノの 四 国 配 給を 請 け 負 っていた 三 共 社 社 長 ・ 山 崎 徳 次 郎 の 呼びかけにより 全 国 の 自 由 配 給 常 設 館 が 結 成 し 大日 本 活 動 常 設 館 主 連 盟 映 画 配 給 社 を 設 立 。その 基 本 理 念 ( 制 作 ・ 配 給 ・ 興 行 の 三 部 制 )に 共 鳴した 千 恵 蔵 が、1928 年 5 月 にマキノ 御 室 を 退 社 し、日 本 キネマの 双 ヶ 丘 撮 影 所 内 ( 右 京 区 花 園 土 堂町 )に 設 立 。(36) 岡 島 艶 子 (1909-1989)。 俳 優 。1921 年 9 月 松 竹蒲 田 入 社 。マキノ 省 三 の 説 得 により24 年 11 月 、 東亜 マキノ 等 持 院 に 移 籍 、 旧 知 の 阪 東 妻 三 郎 主 演作 の『 墓 石 が 鼾 する 頃 』(1925、 二 川 文 太 郎 )で狂 気 に 満 ちた 美 貌 のヒロインを 演 ずる。25 年 6 月マキノプロ 設 立 により、マキノ 御 室 へ 移 籍 、 可 憐な 娘 役 を 得 意 とするマキノ 主 要 スターに 成 長 。 愛くるしい 風 貌 から 綽 名 は「 鳩 ぽっぽ」。26 年 に 衣 笠映 画 連 盟 に 参 加 するものの 翌 年 再 びマキノに 復社 。 経 営 不 振 のなか30 年 8 月 に 退 社 、 夫 で 東 亜キネマの 監 督 ・ 仁 科 熊 彦 (29 年 結 婚 )とともに 第二 次 嵐 寛 プロに 参 加 。 解 散 後 は 富 国 映 画 などの小 プロダクション、 地 方 巡 業 を 経 て52 年 に 東 映 と専 属 契 約 。 後 年 は 東 映 のみならず 他 社 作 品 にも多 数 出 演 。 賀 古 残 夢 監 督 は 遠 縁 にあたる。(37) 阪 東 三 右 衛 門 ( 生 没 年 不 明 )。 俳 優 。 東 京 生 まれ。 阪 東 三 吉 を 芸 名 とする 舞 台 役 者 であったが、マキノ 省 三 に 招 かれ1928 年 5 月 、マキノ 御 室 入社 。 初 出 演 作 は『 天 明 果 報 談 』。30 年 11 月 、マキノを 退 社 し 舞 台 に 戻 る。(38) 実 川 芦 雁 (1909 頃 - 没 年 不 明 )。 俳 優 。 大 阪 生まれ。 実 川 延 宝 の 芸 名 で 実 川 延 若 の 門 下 となった 後 、1926 年 、 中 村 雁 治 郎 の 意 見 により 芦 雁 と改 名 。28 年 5 月 、 片 岡 千 恵 蔵 、 嵐 長 三 郎 ( 寛 寿郎 )らと 入 れ 違 いにマキノ 御 室 に 入 社 し『 仇 討 制度 』に 主 演 。 舞 踊 ( 藤 間 勘 翁 門 下 )を 得 意 とした。(39)マキノ 登 六 (1910-1932)。 俳 優 兼 殺 陣 師 。 本 名: 林 喜 一 郎 。 天 活 を 経 て、1923 年 にマキノ 等 持 院に 入 社 。 片 岡 十 六 の 芸 名 で 殺 陣 師 として 活 躍 。27 年 4 月 、マキノ 省 三 に 才 能 を 買 われ、マキノ 登六 に 改 名 。(40)マキノ 正 美 (1911- 没 年 不 明 )。 俳 優 。 別 名 :マキノ 政 美 。 本 名 : 林 正 美 。 後 に 東 洋 シネマ(58 年設 立 ) 社 長 。1925 年 8 月 、マキノ 御 室 に 入 社 。27年 4 月 、 林 正 美 からマキノ 正 美 に 改 名 。(41)マキノ 潔 (1912- 没 年 不 明 )。 俳 優 。 本 名 : 井 上喜 吉 。 幼 時 に 市 川 蝦 四 郎 の 門 下 となる。 市 川 姉蔵 とともに1920 年 9 月 日 活 関 西 入 社 。 芸 名 を 市 川小 蝦 とする。21 年 4 月 姉 蔵 が 急 死 。 同 年 6 月 、 牧野 教 育 映 画 製 作 所 設 立 に 際 し 移 籍 、 名 子 役 として 活 躍 。27 年 井 上 潔 からマキノ 潔 に 改 名 。51 年大 映 東 京 に 入 社 、 春 本 富 士 夫 と 改 名 。(42)マキノ 梅 太 郎 (1907- 没 年 不 明 )。 俳 優 。 本 名 :柳 川 勝 好 。1912 年 、 中 村 福 助 門 下 として 大 阪 浪花 座 で 初 舞 台 をふみ、 芸 名 を 中 村 福 呂 とする。青 年 歌 舞 伎 を 経 て、27 年 4 月 マキノ 御 室 に 入 社 。28 年 5 月 マキノを 退 社 し 日 本 映 画 プロダクション連 盟 に 参 加 ( 代 わって、 二 川 文 太 郎 の 弟 子 ・ 田山 通 が 二 代 目 マキノ 梅 太 郎 を 襲 名 )。29 年 4 月 に帝 キネ( 後 に 新 興 キネマ)に 入 社 し 中 村 梅 太 郎 と改 名 。(43) 稲 葉 蛟 児 (1904- 没 年 不 明 )。 本 名 : 稲 葉 義 信 。静 岡 中 学 卒 業 後 、キャメラの 研 究 を 目 指 し 東 亜甲 陽 の 現 像 場 に 入 所 。その 後 、 阪 妻 プロ『 雄 呂血 』(1925、 二 川 文 太 郎 )の 撮 影 助 手 を 経 てマキノに 入 社 。 主 に 二 川 文 太 郎 に 師 事 し、 脚 本 家 ・ 西条 章 太 郎 ( 照 太 郎 )の 第 一 回 監 督 作 品 となるはずであった『 強 者 』(1928)を 監 督 。マキノ 解 散 後は 右 太 プロ、エトナなどの 小 プロダクションを 転 籍260


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話した 後 、 文 化 映 画 製 作 に 身 を 投 じ、 戦 中 は 中 華電 影 作 品 に 製 作 主 任 として 関 わる。 後 年 は 宝 塚映 画 に 在 籍 しテレビ 映 画 の 演 出 もおこなった。(44) 山 中 貞 雄 (1909-1938)。 監 督 。1927 年 3 月 、 京都 市 立 第 一 商 業 を 卒 業 、 監 督 を 志 望 してラグビー 部 先 輩 ・マキノ 正 博 を 頼 りマキノ 御 室 に 入 社 。マキノ 在 籍 中 の 助 監 督 時 代 は 社 堂 沙 汰 夫 、 沙童 敬 太 郎 などと 名 乗 った。28 年 10 月 、 第 一 次 嵐寛 プロに 参 加 し 助 監 督 をつとめる 他 、『 鬼 神 の 血煙 』(1929、 城 戸 品 郎 )の 脚 本 を 執 筆 。 嵐 寛 プロが 崩 壊 し 嵐 寛 寿 郎 らとともに29 年 、 東 亜 キネマに入 社 し『 鞍 馬 天 狗 』(1929、 橋 本 松 男 )など 次 々と脚 本 を 発 表 。32 年 、『 磯 の 源 太 抱 寝 の 長 脇 差 』で 監 督 デビューを 果 たし 絶 賛 を 浴 びる。その 成功 により32 年 に 日 活 へ 入 社 。 鳴 滝 に 住 む 稲 垣 浩 、滝 沢 英 輔 、 三 村 伸 太 郎 らとシナリオ 執 筆 集 団 「 鳴滝 組 」を 結 成 し 梶 原 金 八 の 筆 名 で 寛 プロ、 千 恵プロ、 日 活 などに 脚 本 を 提 供 。38 年 に 遠 征 先 の中 国 で 戦 病 死 、P.C.L.での 第 一 回 作 品 『 人 情 紙風 船 』(1937、 東 宝 配 給 )が 遺 作 となった。(45) 萩 原 遼 (1910-1976)。 監 督 。 本 名 : 萩 原 陣 蔵 。1930 年 、マキノ 御 室 入 社 。マキノ 解 散 後 、34 年 、日 活 京 都 へ 移 籍 し『お 茶 づけ 侍 』で 監 督 デビュー。その 後 、J.Oスタジオ、 東 宝 、 新 東 宝 、 東 横映 画 ( 後 に 東 映 )、 松 竹 と 転 じ、 多 くのプログラム・ピクチュアを 撮 った。 助 監 督 時 代 に 山 中 貞 雄 に師 事 し 山 中 らが 結 成 したシナリオ 執 筆 集 団 「 鳴滝 組 」に 参 加 。 山 中 の 死 後 、 追 悼 映 画 『その 前夜 』(1939、 東 宝 )を 監 督 している。(46) 滝 沢 英 輔 (1902-1965)。 監 督 。 本 名 : 滝 沢 憲 。1925 年 3 月 、 東 亜 マキノ 等 持 院 に 入 社 し 兄 ・ 二 川文 太 郎 監 督 『 乱 刀 』の 脚 本 を 執 筆 。マキノ 御 室 設立 にともない、27 年 1 月 、 東 亜 より 移 籍 し 俳 優 兼助 監 督 としてつとめるかたわら、 脚 本 も 執 筆 。29年 3 月 、 滝 沢 憲 から 英 輔 と 改 名 し『 或 る 女 と 画 家 』で 監 督 昇 進 。マキノ 解 散 後 、 国 太 郎 プロ、 東 活 、日 活 太 秦 、 右 太 プロ、 新 興 キネマ、 寛 プロ、P.C.L、 東 宝 へ 転 ずる。この 間 、34 年 に 結 成 された「 鳴 滝 組 」に 参 加 、 数 々の 傑 作 時 代 劇 映 画 脚本 の 合 作 に 加 わった。(47) 並 木 鏡 太 郎 (1902-2001)。 監 督 。 本 名 : 金 田 寅雄 。1926 年 、 西 条 照 太 郎 の 紹 介 によりマキノ 御 室に 入 社 。 助 監 督 として『 浪 人 街 第 一 話 美 しき 獲物 』を 担 当 する 傍 ら、 山 上 伊 太 郎 に 傾 倒 し 並 木鏡 太 郎 、 狂 太 郎 、 鏡 次 郎 等 の 筆 名 で 脚 本 を 執 筆 。29 年 6 月 、『 夜 討 曾 我 』で 監 督 昇 進 。マキノ 解 散 の後 、 帝 キネ、 東 活 を 経 て、 第 二 次 寛 プロに 入 社 し「 右 門 捕 物 帖 」シリーズなど、 数 々の 嵐 寛 主 演 による 娯 楽 時 代 劇 を 発 表 、 嵐 寛 映 画 黄 金 期 を 築 くが、 寛 プロ 解 散 により 右 太 プロ、 東 宝 へ 転 じる。戦 後 しばらくはマキノ 芸 能 社 に 在 籍 し 舞 台 演 出などを 手 がけ、49 年 に 得 意 の 嵐 寛 主 演 『 右 門 捕物 帖 謎 の 八 十 八 夜 』で 映 画 界 に 復 帰 。60 年 に映 画 界 を 引 退 し 大 平 洋 テレビに 籍 をおいた。(48) 杉 本 九 一 郎 ( 生 没 年 不 明 )。 助 監 督 。1929 年 にマキノ 御 室 に 在 籍 記 録 あり。 吉 野 二 郎 、 中 島 宝三 らの 助 監 督 として『 万 花 地 獄 第 三 篇 』(1927、吉 野 二 郎 )などの 作 品 を 担 当 した 他 、『 狐 と 狸 』(1929、 吉 野 二 郎 )などの 脚 本 も 執 筆 。(49) 河 合 広 始 ( 生 没 年 不 明 )。 大 道 具 。 牧 野 教 育 映画 製 作 所 設 立 (1921 年 6 月 )に 際 しマキノ 省 三 と行 動 を 共 にし 日 活 を 退 社 。 以 来 、マキノの 大 道具 、 舞 台 装 置 の 主 任 をつとめる。1928 年 3 月 にキャメラマンの 田 中 十 三 とともにマキノを 退 社 、 双 ヶ丘 ( 右 京 区 花 園 土 堂 町 )に 京 都 初 の 貸 スタジオ・日 本 キネマ 撮 影 所 ( 通 称 双 ヶ 丘 撮 影 所 )を 設 立 。(50) 松 村 清 次 郎 ( 生 年 不 明 -1957)。 小 道 具 。 千 本座 を 皮 切 りにマキノ 省 三 に 付 き 従 い、 古 株 の 小道 具 として 珍 重 されていた。 在 籍 記 録 としては1925 年 のマキノ 御 室 から。 後 年 は 東 映 で 小 道 具係 を 務 めた。「 清 治 郎 」、「 清 二 郎 」、「 精 治 郎 」、「 清 太 郎 」、「 清 三 」の 表 記 あり。なお、 同 時 代 の日 活 太 秦 に 別 人 物 松 村 清 太 郎 が 撮 影 技 師 として 存 在 している。(51) 大 海 源 太 郎 ( 生 没 年 不 明 )。 照 明 技 師 。 詳 細 不明 。1925 年 に「 光 線 」 部 として、29 年 から31 年 まで「 電 気 主 任 」あるいは「 照 明 部 主 任 」としてマキノ 御 室 に 在 籍 記 録 がある。(52) 藤 林 甲 (1908-1979)。 照 明 技 師 。1925 年 マキノ入 社 。マキノ 解 散 により31 年 松 竹 京 都 に 入 社 し261


アート・リサーチ Vol.3『 雪 之 丞 変 化 』(1935、 衣 笠 貞 之 助 )などの 照 明 を担 当 。37 年 東 宝 に 入 社 するが 東 宝 争 議 を 機 に 新東 宝 へ 移 籍 。54 年 日 活 ( 技 術 課 照 明 係 )へ 入 社 。(53) 都 村 健 (1899-1982)。 映 画 宣 伝 者 、 後 に 通 信合 同 社 代 表 。 本 名 : 井 上 健 三 。1923 年 、 関 東 大震 災 を 機 に 京 都 に 居 を 移 す。 新 聞 記 者 であったのをマキノ 省 三 に 買 われ、 同 年 マキノ 入 社 。28 年に 御 室 撮 影 所 内 に 宣 伝 部 が 設 置 されると 部 長 として 雑 誌 『マキノ』などの 編 集 ・ 発 行 を 手 がける。マキノ 解 散 後 、 東 活 の 宣 伝 部 長 を 経 て、37 年 、 通信 合 同 社 に 入 社 、『 合 同 通 信 』の 編 集 に 携 わる。(54) 西 郷 昇 ( 生 没 年 不 明 )。 俳 優 。 詳 細 不 明 。1925年 に「 御 室 スタジオ 専 属 」として 在 籍 記 録 あり。(55) 高 岡 昌 嗣 ( 生 没 年 不 明 )。 別 名 : 木 村 政 次 郎 、高 岡 政 次 郎 。1925 年 に 木 村 政 次 郎 の 名 で「 御 室スタジオ 専 属 」 俳 優 として 在 籍 記 録 あり。 父 の 代より 自 宅 に 馬 を 所 有 し、 草 競 馬 の 調 教 もつとめた。56 年 、 東 映 京 都 撮 影 所 裏 に 馬 場 が 建 設 されると、そこで 馬 術 を 教 えるなど 馬 に 関 する 一 切 を 取 り仕 切 る。 後 に、 東 伸 テレビ 映 画 (62 年 設 立 ) 代 表取 締 役 。 息 子 の 政 昭 ( 後 に 東 伸 テレビ 映 画 取 締役 )も 馬 術 を 心 得 、 親 子 三 代 にわたって 映 画 と 馬関 連 の 仕 事 に 携 わった。(56) 笹 井 栄 次 郎 (1876 頃 - 没 年 不 明 )。 別 名 : 笹 井栄 志 郎 。 千 本 組 当 主 ・ 笹 井 三 左 衛 門 (1855-1939)の 二 男 。マキノ 御 室 に「 事 務 部 」を 経 て「 顧問 代 理 」として 在 籍 。(57) 羅 門 光 三 郎 (1901- 没 年 不 明 )。 俳 優 。 本 名 : 岩井 憲 次 。1921 年 、 新 派 の 成 美 団 に 入 団 、 武 村 新門 下 となる。27 年 大 阪 港 パーク 撮 影 所 製 作 の『 彼 は 復 讐 を 忘 れたか』( 悪 麗 之 助 )に 端 役 出 演し 映 画 デビュー。 翌 年 東 亜 キネマへ 入 社 し 光 岡竜 三 郎 の 弟 子 となり、 羅 門 光 三 郎 を 名 乗 る。 東亜 キネマの 解 散 後 はその 代 理 会 社 ・ 東 活 を 経 て、32 年 妻 の 原 駒 子 (31 年 結 婚 、34 年 離 婚 )とともに富 国 映 画 社 に 入 社 するが 同 年 のうちに 解 散 、 夫婦 で 宝 塚 キネマへ 入 社 。 後 、 千 恵 プロ、 日 活 太秦 、 第 一 映 画 、 極 東 映 画 甲 陽 、 今 井 映 画 製 作 所 、新 興 キネマ、 大 映 と 活 動 の 場 を 広 げ、63 年 の『 座頭 市 凶 状 旅 』( 田 中 徳 三 )まで250 本 以 上 の 作 品に 出 演 した。(58) 団 徳 麿 (1900-1987)。 俳 優 。 本 名 : 山 本 徳 麿 。新 派 俳 優 ・ 松 尾 次 郎 一 座 に 入 り1916 年 に 谷 本 若葉 を 名 乗 り 初 舞 台 を 踏 んだ 後 、 数 々の 劇 団 を 渡り 歩 いて 芸 を 磨 き、10 代 にして 老 役 を 得 意 とする。24 年 にマキノ 省 三 に 憧 れて 東 亜 マキノに 入 社 、太 田 黒 黄 吉 を 芸 名 とする。 東 亜 からマキノが 離脱 した 後 も 東 亜 に 残 留 し、 個 性 的 なマスクを 生 かし 怪 優 と 称 される 異 色 スターとして 活 躍 。30 年 に帝 キネ( 後 に 新 興 キネマ)を 経 て36 年 2 月 にマキノトーキーに 参 加 。 戦 後 は 東 映 京 都 で 時 代 劇 映画 やテレビに 多 数 出 演 。(59) 原 駒 子 (1910-1968)。 俳 優 。 本 名 : 倉 形 駒 子 。弁 士 ・ 原 天 波 の 娘 として 幼 時 から 舞 台 にたつ。 奉公 先 の 六 車 修 ( 当 時 は 松 竹 蒲 田 の 俳 優 兼 監 督 )が、 関 東 大 震 災 を 機 に 京 都 へ 移 った 際 に 同 行 し松 竹 下 加 茂 の 大 部 屋 女 優 に 潜 り 込 む。 帝 キネ、東 邦 映 画 を 経 て25 年 、マキノ 独 立 後 の 東 亜 キネマに 入 社 し 手 薄 となった 俳 優 陣 のなかで 一 気 にスター 女 優 への 道 を 駆 け 上 がる。ヴァンプ 女 優 と称 され、 酒 井 米 子 、 鈴 木 澄 子 と 並 ぶ 人 気 を 誇 った。 東 活 映 画 、 富 国 映 画 、 宝 塚 キネマ、 日 活 、 第一 映 画 などを 経 てマキノトーキーに 招 かれ 再 び主 演 級 女 優 として 活 躍 。 羅 門 光 三 郎 夫 人 でもあった(31 年 結 婚 、34 年 離 婚 )。(60) 伊 井 蓉 峰 (1871-1932)。 俳 優 。 本 名 : 伊 井 申 三郎 。1891 年 川 上 音 二 郎 一 座 に 参 加 。まもなく 一座 を 離 れ、 吾 妻 座 ( 浅 草 )を 拠 点 に 男 女 合 同 改良 演 劇 済 美 館 を 起 こすなど、 写 実 的 演 劇 を 目 指した。 新 派 劇 界 の 重 鎮 として 君 臨 。 映 画 出 演 は『 実 録 忠 臣 蔵 』(1928、マキノ 省 三 )のみ。(61) 尾 上 松 之 助 (1875-1926)。 俳 優 。 本 名 : 中 村 鶴三 。5 歳 のときに 近 所 の 芝 居 小 屋 で 尾 上 多 見 雀を 芸 名 として 初 舞 台 をふみ、 以 来 子 供 芝 居 に 出演 。1889 年 に 青 年 芝 居 の 一 座 に 加 わり、 旅 芝 居役 者 となる。1892 年 から 尾 上 鶴 三 郎 を 名 乗 り、1900 年 に 尾 上 松 之 助 と 改 名 。1909 年 、 地 方 巡 業中 にマキノ 省 三 に 見 い 出 され、 千 本 座 に 出 演 するようになる。さらに 横 田 商 会 製 作 の『 碁 盤 忠 信源 氏 礎 』(1909、マキノ 省 三 )に 映 画 初 出 演 。 以262


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話降 、マキノ 省 三 ・ 尾 上 松 之 助 コンビで 次 々とヒット作 を 連 発 。 幼 時 から 鍛 えた 身 軽 さと 躍 動 的 な 演技 ですぐさま 注 目 され、またよく 動 く 目 玉 から“ 目玉 の 松 っちゃん”として 親 しまれる。12 年 に 横 田商 会 が 他 社 と 合 併 し 日 活 が 創 立 。 日 活 で 製 作 した 忍 術 映 画 『 児 雷 也 』(1914、 牧 野 省 三 )などでの 成 功 によって、 空 前 絶 後 の 人 気 を 誇 る。21 年には 大 将 軍 撮 影 所 所 長 にも 就 任 し 重 役 スターとして 君 臨 。 驚 異 的 なペースで 出 演 し 続 け、25 年に 一 千 本 記 念 映 画 として『 荒 木 又 右 衛 門 』(1925、池 田 富 保 )を 総 指 揮 、 主 演 。 義 弟 ・ 池 田 富 保 監督 の『 侠 骨 三 日 月 前 篇 』(1926)での 彦 根 ロケ 中に 心 臓 病 で 倒 れ、9 月 11 日 に 自 宅 療 養 中 に52 歳で 逝 去 。16 日 に 日 活 社 葬 として 盛 大 な 葬 儀 が 行われた。 現 在 、 松 之 助 映 画 を 監 督 した 小 林 弥 六らとともに 立 命 館 大 学 脇 の 等 持 院 墓 地 に 眠 る。(62) 石 本 秀 雄 (1906-1965)。 撮 影 技 師 。1922 年 、マキノ 入 社 。25 年 8 月 、 撮 影 助 手 から 撮 影 技 師 に昇 進 し『 猿 』( 富 沢 進 郎 )を 担 当 。28 年 5 月 マキノを 退 社 、 千 恵 プロ 創 立 メンバーとなり 数 多 くの 傑作 産 出 に 貢 献 。 千 恵 プロ 解 散 後 は 日 活 、 大 映 、東 映 松 竹 京 都 にて 第 一 線 で 活 躍 、 名 キャメラマンと 謳 われた。(63) 三 木 稔 (1902-1968)。 撮 影 技 師 。 別 名 : 三 木 滋人 。1916 年 Mパテー 商 会 に 入 社 。『 先 代 萩 床 下 』の 撮 影 を 初 めて 担 当 。21 年 東 亜 キネマ 甲 陽 に 入社 した 後 、マキノ 御 室 に 移 籍 。「 新 鋭 トリオ」と 称 されたマキノ 正 博 と 山 上 伊 太 郎 と 組 んだ『 浪 人 街第 一 話 美 しき 獲 物 』(1928、マキノ 正 博 )などでの 撮 影 が 撮 影 所 内 外 で 高 く 評 価 され、 撮 影 部 長の 地 位 も 得 る。マキノ 解 散 後 は 新 興 キネマ 京 都 、第 一 映 画 、 大 映 、 松 竹 京 都 と 転 籍 。47 年 、フリーキャメラマンとなった 後 、 東 映 京 都 に 入 社 。 後 年 、内 務 省 技 術 審 査 員 も 務 めた。(64) 南 光 明 (1895-1960)。 俳 優 。 本 名 : 鈴 木 光 。1920 年 に 小 山 内 薫 が 設 立 した 松 竹 キネマ 研 究 所の 研 究 生 となり、『 路 上 の 霊 魂 』(1921、 村 田 実 )などに 出 演 。21 年 7 月 、 研 究 所 が 解 散 し 松 竹 蒲 田 へ合 流 。23 年 に 日 活 向 島 へ 移 籍 した 後 、28 年 、 永田 雅 一 の 斡 旋 により 根 岸 東 一 郎 とともにマキノに入 社 し 早 速 『 蹴 合 鶏 』(1928、マキノ 正 博 )に 主 演 。続 いて『 崇 禅 寺 馬 場 』、『 浪 人 街 第 一 話 美 しき獲 物 』とマキノ 正 博 監 督 作 品 に 立 て 続 けに 出 演 。千 恵 蔵 、 嵐 寛 不 在 となったマキノを 支 え 盛 りたてた。マキノ 解 散 後 は 東 活 映 画 を 経 て、 松 竹 下 加 茂に 入 社 。 妻 は 女 優 の 大 林 梅 子 (31 年 結 婚 )。解 題 「 助 監 督 ・ 管 家 紅 葉─マキノ 御 室 の 青 春 」Ⅰ.マキノ 入 社1. 入 社 経 緯マキノ 作 品 の 熱 心 なファンであった 管 家 氏 の 入社 時 期 は、 阪 東 妻 三 郎 の 独 立 後 から 市 川 右 太 衛門 入 社 以 前 という 本 人 談 に 基 づき、1925 年 7 月 ~12 月 の 間 と 推 定 される。 撮 影 終 了 後 に 助 監 督 採 用されたという『 探 偵 綺 譚 文 明 の 復 讐 』の 公 開 日 が、1925 年 12 月 4 日 であることからも、この 時 期 と 見 て 間違 いないといえるだろう。ちなみに、 嵐 長 三 郎 と 片岡 千 恵 蔵 の 入 社 は、 管 家 氏 が 初 助 監 督 作 品 を 担当 した1926 年 の 翌 年 である。管 家 氏 の 通 った 関 西 工 学 専 修 学 校 は 天 神 橋 に近 く、1922 年 に 創 立 された。 創 立 当 時 の 校 主 ・ 本 庄京 三 郎 氏 は、 大 正 信 託 株 式 会 社 と 甲 陽 土 地 株 式(1)会 社 の 社 長 であった。この 甲 陽 土 地 株 式 会 社 は、当 時 の 甲 陽 地 域 の 土 地 を 買 収 して 甲 陽 園 という 一大 娯 楽 施 設 を 開 設 し、 後 に 東 亜 キネマの 撮 影 所 、つまりマキノと 合 併 時 には 現 代 劇 部 として 機 能 する甲 陽 撮 影 所 を 設 立 した 会 社 であり、 管 家 氏 と 映 画 との 縁 を 感 じることができる。映 画 好 きの 管 家 氏 を 育 んだ 天 神 界 隈 には、19(2) (3)25 年 から1926 年 にかけて「 八 千 代 」の 名 を 掲 げた映 画 館 が3 館 あった。 日 活 特 約 の 西 区 九 条 「 八 千代 倶 楽 部 」(1926 年 からは 東 亜 ・マキノ・ユニバーサル 社 特 約 )、 当 初 は 芝 居 小 屋 だった 東 亜 ・ 松 竹 特約 の 天 神 橋 「 天 満 八 千 代 座 」、 同 じく 大 衆 演 劇 小 屋から 活 動 写 真 専 門 館 を 経 て、1926 年 マキノ 常 設 館となった 港 区 九 条 通 「 九 条 八 千 代 座 」である。 (4)263


アート・リサーチ Vol.3管 家 氏 に 支 払 われたマキノ 助 監 督 初 任 給 25 円は、 我 々にとって 予 想 外 の 高 額 だったが、1930 年の 一 般 的 な 初 任 給 と 比 較 すると、 旧 制 中 学 卒 が20円 、 専 門 学 校 卒 30 円 、 師 範 学 校 卒 45 円 、 大 卒 は50~60 円 、 小 さい 町 工 場 では 高 等 小 学 校 卒 で15 円程 度 となり、 専 修 学 校 卒 の 管 家 氏 にとっては 平 均 より 低 めと 感 じられたようである。ちなみに、 映 画 入 場料 は 封 切 館 で50 銭 、3 本 立 で10 銭 である。 管 家 氏 と同 年 入 社 の 並 木 鏡 太 郎 の 助 監 督 初 任 給 は20 円 、カメラマン 石 野 誠 三 氏 の 等 持 院 撮 影 所 技 術 部 初 任(7)給 は30 円 と、 各 スタッフ 間 で 若 干 の 差 があるにしても、マキノ 映 画 は 企 業 として 社 会 的 水 準 の 給 与 を払 っていたと 言 ってよいだろう。 興 行 的 成 功 や、 技術 面 で 功 績 をおさめた 者 には、 奨 励 金 が 別 途 支 払われていた。 (8)2. 金 森 組 についてマキノ 省 三 を 御 大 と 慕 い、 等 持 院 時 代 からの 古参 としてマキノを 支 えた 沼 田 紅 緑 、 井 上 金 太 郎 、 二川 文 太 郎 、 金 森 万 象 、 寿 々 喜 多 呂 九 平 、 石 野 誠 三らの 中 でも、 金 森 組 と 称 される 金 森 ・ 寿 々 喜 多 ・ 石野 のトリオは、 質 と 興 行 両 面 で 安 定 した 作 品 を 放 つ主 力 メンバーであった。 特 に 金 森 監 督 の 力 が 発 揮された 活 劇 作 品 は、 談 話 で 触 れられている“ 鳥 人 ”スター、 高 木 新 平 を 生 み 出 した『 争 闘 』(1924)であり、 神 戸 の 海 岸 通 りにあった 大 阪 商 船 ビル8 階 からオリエンタルホテルに 実 際 に 飛 び 移 った 姿 を、 多 くの 見 物 人 と 共 に、マキノ 省 三 も 見 守 った。 活 劇 作 品以 外 にも、 祇 園 の 悲 恋 を 描 いた 祇 園 ものを 多 く 手がけている。管 家 氏 が 語 った 金 森 監 督 と 寿 々 喜 多 呂 九 平 との親 密 度 は、 彼 らの 住 居 変 遷 からも 見 てとれる。1928年 まで 二 人 はそれぞれ 花 園 村 に 住 んでおり、 翌 年(9)から、 嵐 電 の 小 松 原 駅 にほど 近 い 等 持 院 南 町 に、隣 同 士 で 住 み 始 める。 当 時 、 脚 本 が 評 価 されると省 三 から1 本 につき 千 円 のボーナスを 貰 っていた 寿々 喜 多 は、 大 金 が 入 ると 脚 本 のネタ 探 しを 口 実 に、大 阪 へ 遊 びに 金 森 監 督 を 屋 根 を 伝 って 誘 いに 来たというエピソードも 残 っている。マキノ 映 画 に 惚 れ込 んで、 省 三 の 家 を 尋 ねて 来 た 寿 々 喜 多 を、 金 森(10)(5)(6)万 象 が 応 対 したというのが、そもそも 彼 らが 出 会 った 最 初 であるが、 寿 々 喜 多 が 亡 くなると、 金 森 監 督は 喪 主 として 寿 々 喜 多 を 見 送 り、 最 後 まで 彼 らの 関係 は 絶 えることがなかったのである。Ⅱ. 助 監 督 の 仕 事1. 映 画 製 作 過 程映 画 撮 影 のスタッフ・ワークにおいて、 管 家 氏 在籍 当 時 と 現 在 との 一 番 の 違 いは、 仕 事 の 分 業 化 ・細 分 化 といえるだろう。トーキー 以 後 に 独 立 していく 編 集 部 ( 整 理 部 )も 当 時 はなく、 現 在 では 製 作 部などが 行 う、 台 本 印 刷 、ロケーション 現 場 の 許 可 申請 、 出 写 会 計 と 呼 ばれていたロケ 撮 影 の 会 計 も、助 監 督 の 仕 事 であり、このような 助 監 督 生 活 を 長 く経 験 した 結 果 、 企 業 統 合 時 に 編 集 や 事 務 といった部 門 へ 移 行 していった 映 画 人 が 多 いのも 事 実 である。 無 声 時 代 の 特 徴 ともいえる 字 幕 部 の 主 任 として長 年 マキノに 在 籍 した 岡 本 一 鳳 氏 については、 鈴木 影 一 郎 氏 が、「 大 変 面 倒 見 の 良 い、 親 父 のような存 在 であった」と 後 に 語 っている。また、アーク 灯( 炭 素 棒 に 電 流 を 加 えて 光 を 出 す)を 基 本 とした 照明 も、この 時 代 特 有 のものである。ロケ 現 場 での 見物 人 整 理 に、マキノの 映 画 館 無 料 入 場 券 を 配 っていたというエピソードは、 当 時 のスタッフ 陣 が、いかに 智 恵 を 絞 って 人 払 いをしていたかという 一 つの 大変 ユニークな 方 法 として 捉 えることが 出 来 るだろう。製 作 日 数 が 残 り 少 なくなり、 連 日 徹 夜 作 業 が 進められる 状 態 は、 戦 前 戦 後 を 通 じて 共 通 したエピソードだが、ここで 言 及 された 各 社 競 映 作 品 の『 砂 絵呪 縛 』は、 当 初 から 殺 人 的 スケジュールで 進 行 した驚 異 的 な 例 である。 各 社 競 映 とは、 相 乗 的 な 宣 伝効 果 を 期 待 し、 複 数 の 映 画 会 社 が 同 一 原 作 の 映画 化 を 同 じ 時 期 に 公 開 する 形 式 であり、 本 作 では、東 亜 キネマ、 日 活 、 阪 妻 プロ、マキノが 競 映 となった。この 作 品 では、マキノを 除 く 三 社 が 原 作 連 載 紙の 朝 日 新 聞 社 に 先 に 交 渉 するという 競 映 のルール違 反 を 犯 し、その 結 果 、 新 聞 社 との 交 渉 が 長 引 き製 作 開 始 が 遅 れたマキノは、 憤 慨 して 十 日 会 を 一時 脱 退 するにいたった。その 混 乱 も、 三 昼 夜 で 脚(11)(12)(13)264


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話色 し 終 えた 山 上 伊 太 郎 の 脚 本 により、8 月 21 日 に 撮影 を 開 始 し、 月 末 には 全 てを 撮 り 終 え、 見 事 一 矢 を報 いたというマキノらしい 制 作 談 で 締 め 括 られた。「こんな、 忙 しい 撮 影 をしたのは 初 めてである」と 金(14)森 監 督 も 漏 らしている。2. 難 しさと 楽 しみこの 項 では、 多 くの 映 画 職 人 が 語 る 助 手 時 代 と同 様 に、 技 師 やカメラマン、 監 督 の 仕 事 を、 見 様 見真 似 で 吸 収 する 字 義 通 りの「 見 習 い」として 仕 事 を覚 えていった 助 監 督 ・ 管 家 氏 の 心 情 が 吐 露 されている。特 に、 智 恵 袋 とも 呼 べる 小 道 具 方 との 交 際 が、仕 事 をする 上 で 大 変 重 要 なものであったという 管 家氏 の 発 言 は、 時 代 劇 の 助 監 督 ならではの 重 みを 持っているといえよう。また、この 助 監 督 の 仕 事 の 幅広 さは、 一 人 の 人 間 に 大 きな 責 任 と 重 荷 を 与 えてもいたが、 管 家 氏 自 身 の、 失 敗 から 学 習 する 克 己精 神 と 同 時 に、 先 輩 や 俳 優 との 現 場 での 意 思 疎 通のやり 方 を 含 め、 細 かな 心 遣 いと 仕 事 に 対 する 情熱 が、 助 監 督 時 代 のみならずその 後 の 人 生 を 支 えていたことも 推 察 できる 談 話 である。Ⅲ.ロケーションでのエピソード本 章 では、 管 家 氏 の 在 籍 時 を 近 年 のフィルム・コミッション 運 動 の 萌 芽 期 ととらえ、ロケーション 撮 影のエピソードを 中 心 にお 話 を 伺 った。ロケ 先 の 選 択には、 先 輩 たちから 受 け 継 がれた 土 地 情 報 が 広 まっていたこと、 拠 点 となる 馴 染 みの 休 憩 場 所 があること、 土 地 の 景 観 が 作 品 に 相 応 しいなどの 理 由 が挙 げられる。1. 京 都京 都 でのロケ 地 選 択 は、 撮 影 所 から 日 帰 り 出 来 、手 頃 な 休 憩 場 所 が 近 辺 にあることがポイントとなっており、 市 内 では 撮 影 所 近 辺 の 嵐 山 方 面 から 鳥 羽 、左 京 区 大 原 方 面 、 府 内 においては、 園 部 や 八 木方 面 が 多 く 利 用 されている。なかでも 時 代 劇 の 街 道 として 頻 繁 に 利 用 された伏 見 区 下 鳥 羽 の 城 南 宮 は、 桓 武 天 皇 が 創 建 したと伝 えられ、 中 世 以 降 は 辺 り 一 帯 の、 産 土 神 と 方 除け 神 社 として 信 仰 を 集 めた 場 所 である。 多 くの 映 画人 の 休 憩 場 所 として 利 用 された「おせき 茶 屋 」は、現 在 国 道 1 号 線 の 向 かいにあるが、1932 年 までは現 在 の 羅 生 門 跡 から 南 へ 延 びる 旧 街 道 ( 鳥 羽 街道 )の 赤 池 付 近 にあった 茶 店 で、 名 物 の「おせき餅 」は、 稲 垣 浩 監 督 も、 助 監 督 時 代 に 食 べるのが大 変 楽 しみだったとしている。また、 大 原 方 面 も、有 名 寺 院 が 点 在 する 上 、 山 里 で、 桜 ノ 馬 場 と 呼 ばれる 桜 の 名 所 もあり、 頻 繁 にロケ 地 となっていたようだ。 管 家 氏 が 懐 かしげに 語 った「 徳 子 さん」の 茶 店は 土 産 物 屋 であり、 彼 の 人 は 俳 人 のようなモダンな(16)女 性 だったと 言 われる。オープン・セット 的 な 機 能 を果 たしていた 馴 染 みのロケ 地 ならではの、 映 画 スタッフと 地 元 の 人 々との 触 れ 合 いが 伺 えるエピソードである。2. 江 州 ( 滋 賀 )近 隣 諸 県 では、 京 都 から 近 く 手 頃 な 滋 賀 方 面 のロケも 頻 繁 に 行 われ、 川 を 必 要 とする 場 合 は 旅 館「あみ 定 」がある 瀬 田 や、 広 大 な 土 地 が 広 がってい(17)(15)た 今 津 の 饗 庭 野 は、 特 に 重 宝 された。景 勝 地 でもある 瀬 田 の 唐 橋 は、 四 条 大 橋 になったり、 江 戸 日 本 橋 になったりと、 作 品 によって 変 化した。 橋 の 袂 の「あみ 定 」は、 京 都 の 映 画 人 にとっては 尾 上 松 之 助 の 時 代 から 馴 染 みの、あみ 舟 旅(18)館 である。『 松 平 長 七 郎 』では、 高 さ 二 丈 もある 大掛 りな 船 のセットをメインにしたロケとなり、メーキャップ 等 の 支 度 部 屋 や、 昼 食 時 に 蜆 の 味 噌 汁 と 鰻 丼を 運 ぶなど、「あみ 定 」が 撮 影 拠 点 としての 機 能 を果 たしていた 様 子 が、セットの 船 が 崩 壊 したエピソード ─激 しい 立 廻 りの 撮 影 中 に 崩 壊 し、その 時船 上 にいた 松 浦 築 枝 が、あわやという 所 で 救 出 された─とともに 綴 られている。3. 信 州『 狼 火 』の 信 州 ロケは、9 月 25 日 に 出 発 し、 上 高地 の 大 正 池 撮 影 から、 飯 田 、 木 曽 、 飛 騨 と 進 み、(19)(20)10 月 12 日 帰 京 までの 約 2 週 間 に 及 んだ。ロケ 費 が265


アート・リサーチ Vol.3膨 んだ 撮 影 隊 に、 帰 京 費 を 運 んだ 中 部 ( 名 古 屋 )撮 影 所 は、『 実 録 忠 臣 蔵 』(1928、マキノ 省 三 ) 松 の廊 下 シーン 撮 影 を 終 え 人 員 募 集 を 開 始 した 時 期 である。その 協 力 の 甲 斐 あって、 帰 京 後 のセット 撮 影も 無 事 に 終 え、 大 アルプスを 背 景 に 進 行 する『 狼火 』は、その 自 然 の 雄 大 さ、 馬 を 使 ったシーンの 迫力 やスピード 感 で、 日 本 の 西 部 劇 と 評 価 された。(21)後 には 四 社 営 業 連 盟 が 結 成 され、マキノ 映 画 の 興行 を 阻 んだ。それに 対 抗 するためにも 有 能 な 映 画人 の 育 成 が 急 務 であり、そしてこの 時 期 においてこそ「 日 本 映 画 の 父 」マキノ 省 三 の 辣 腕 が 揮 われ、 市川 右 太 衛 門 、 嵐 寛 寿 郎 、 片 岡 千 恵 蔵 といった 日 本映 画 を 代 表 する 時 代 劇 スター、 脚 本 家 山 上 伊 太 郎 、監 督 マキノ 正 博 が 才 能 を 開 花 させるのである。4. 高 松 から 岡 山 へ新 年 挨 拶 など 当 時 頻 繁 に 行 われた 常 設 館 の 舞台 挨 拶 廻 りについては、 金 森 監 督 も 小 旅 行 気 分 の楽 しみだったようであり、 常 設 館 館 主 が 俳 優 一 団 の旅 費 などを 全 て 負 担 するなど、 四 国 での 歓 待 ぶりを 華 やかなエピソードとして 綴 っている。 特 に 岡 山には、 中 国 、 四 国 地 方 を 中 心 に10 数 館 を 経 営 し、一 立 商 店 をおこした 立 花 良 介 が 一 時 期 館 主 だったマキノ 特 約 ・マキノキネマをはじめ、 有 力 な 常 設 館と 後 援 者 がおり、 何 度 も 舞 台 挨 拶 に 訪 れている。Ⅳ.マキノ 御 室 撮 影 所 の 人 々1. 御 大 ・マキノ 省 三当 時 のマキノ 映 画 は、 冒 頭 の「M-Picture」とともに、「 総 指 揮 マキノ 省 三 」のクレジットが 一 種 の 看 板となっていたが、 果 たしてマキノ 省 三 が 実 際 に 個 々の 作 品 に 如 何 に 具 体 的 に 関 わっていたかについて、 日 本 映 画 史 のなかで 疑 問 視 されていた。 本 節での 談 話 は、この 問 いに 答 えるための 極 めて 重 要な 証 言 となっているだろう。試 写 会 場 となっていた 常 設 館 は、この 頃 すでに京 都 土 地 興 行 の 所 有 となっていた 千 本 座 ( 千 本 通一 条 上 ル)ではなく、 西 陣 マキノキネマ( 西 陣 千 本中 立 売 上 ル)と 推 察 されるが 確 証 は 得 られていない。 数 々の 大 部 屋 俳 優 の 才 能 を 見 い 出 したであろう 省 三 のその 慧 眼 は、ときに 冷 静 にその 才 能 を 見極 め、 見 限 られたら 最 後 二 度 と 良 役 を 得 られずに消 えていく 俳 優 も 少 なくなかった。 談 話 から 窺 える省 三 は、 念 願 かなった 独 立 プロ・マキノの 主 としての 気 勢 に 満 ちている。マキノ 最 初 のスター 阪 妻 はすでにマキノを 離 れていたし、 御 室 撮 影 所 開 設 直(23)(25)(22)(24)2. 関 わった 俳 優 たち後 年 、 演 技 塾 「マキノ 会 」を 運 営 していた 監 督 マキノ 正 博 の 演 技 指 導 力 が、この 頃 すでに 習 得 されていたということに 本 節 では 注 目 できるだろう。 実 際に 自 分 が 演 じてみせる 演 出 法 は 義 太 夫 や 浄 瑠 璃を 会 得 していた 省 三 譲 りのもので、また 姉 マキノ 輝子 も、 省 三 によって 鍛 えられた 確 実 な 演 技 力 と 美貌 でマキノのトップ 女 優 として 人 気 を 確 立 していた。すでに 独 立 していた 阪 妻 の 後 任 スターとして、『 探偵 綺 譚 文 明 の 復 讐 』で 輝 子 の 相 手 役 に 抜 擢 された 月 形 龍 之 介 は 以 来 、 輝 子 との 共 演 が 続 き、 情 念籠 る 二 人 の 演 技 は「 女 夫 劇 」とまで 称 された─すでに 妻 子 のあった 月 形 と 輝 子 との 相 思 相 愛 は 日 本映 画 史 における 悲 恋 物 語 として 知 られている。マキノ 御 室 からは 数 々のスターが 育 ったが、 驚 くべきことに 彼 らの 在 社 期 間 は 現 在 の 感 覚 から 考 えると 極 めて 短 い。 例 えば、 鈴 木 澄 子 が2 年 半 、 市 川右 太 衛 門 は1 年 半 、 片 岡 千 恵 蔵 と 嵐 長 三 郎 ( 寛 寿郎 )はわずか1 年 。ちなみに 等 持 院 時 代 の 阪 東 妻三 郎 は2 年 であった。この 新 陳 代 謝 の 活 発 さはマキノの 優 れた 特 質 であると 同 時 にマキノの 悲 劇 を 物語 る。そしてまた、スター 育 成 に 余 念 のないマキノでは、「マキノ 青 年 五 人 組 (マキノ 青 年 派 )」のような若 手 集 団 が 省 三 の 指 示 のもとに 結 成 され(1927 年 3月 )、 売 り 出 しを 計 ったのである。3. 助 監 督 仲 間1929 年 3 月 発 行 『マキノプロダクション』 誌 掲 載 の「 撮 影 所 所 員 全 員 名 簿 」で、 助 監 督 として 管 家 紅 葉 、杉 本 九 一 郎 、 萩 原 遼 、 滝 沢 憲 ( 英 輔 )、 並 木 鏡 太 郎の 名 前 が 確 認 できる。 松 田 定 次 と 稲 葉 蛟 児 は1928年 に 各 々 監 督 に 昇 進 している。 萩 原 遼 の 本 名 は 萩(26)266


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話原 陣 蔵 。 管 家 氏 による 陣 太 郎 は 当 時 の 通 名 であっ(27)たと 推 察 される。山 中 貞 雄 は 京 都 市 立 第 一 商 業 の 先 輩 ・マキノ 正博 を 頼 り 入 社 するものの、 一 見 ぼんやりしているように 見 える 風 体 から“ 昼 行 灯 ”と 呼 ばれ、マキノではまともな 仕 事 を 与 えられていなかった。 気 の 毒 に 思 った 正 博 のすすめで 設 立 したばかりの 寛 プロに 移 籍 、その 後 の 活 躍 は 映 画 史 が 教 えてくれる 通 りである。管 家 氏 の 回 想 による“シャダやん”が、さながら 嵐 寛寿 郎 の 当 たり 役 “むっつり 右 門 ”のごとく 無 愛 想 な人 間 像 として 表 されているのは 正 確 だろう ─山中 の「 人 見 知 り」はよく 知 られている。談 話 に 登 場 する 山 中 貞 雄 、 萩 原 遼 、 滝 沢 英 輔 、並 木 鏡 太 郎 、 松 田 定 次 らは、1933 年 に 井 上 金 太 郎をリーダーとして「 京 都 時 代 劇 の 新 鋭 監 督 の 会 」を(30)結 成 、まさにマキノで 温 めた 親 交 によるものだった。(31)これは 名 高 い「 鳴 滝 組 」に 先 行 する 集 団 で、ここにおいても 日 本 映 画 史 におけるマキノ 人 脈 の 尊 さが明 らかになるだろう。4. 裏 方前 掲 「 撮 影 所 全 員 名 簿 」によると、 松 村 清 次 郎 は「 装 置 部 」、 大 海 源 太 郎 と 藤 林 甲 は「 配 光 部 」、 笹 井栄 次 郎 は「 事 務 部 」、 西 郷 昇 は「 俳 優 部 」に 各 々その 名 を 記 している。この 時 代 の 撮 影 所 は 家 族 共 同 体 的 性 質 が 色 濃く、 例 えば 松 村 清 次 郎 が 千 本 座 の 下 足 番 から 小 道具 係 へ 転 身 した 生 え 抜 きの 人 物 であれば(この 頃「 装 置 部 」に 配 属 されているのは、 前 年 3 月 に 日 活時 代 からマキノ 省 三 と 行 動 を 共 にしていた 大 道 具主 任 の 河 合 広 始 が 弟 子 ともどもマキノを 退 社 し、 日本 キネマを 設 立 したこととの 関 連 を 指 摘 できよう)、笹 井 栄 次 郎 もまたその 素 行 不 良 の 更 正 のために父 である 千 本 組 当 主 ・ 笹 井 三 左 衛 門 がその 身 柄 を省 三 に 預 けたいわば 身 内 であった。また 当 時 御 室撮 影 所 内 食 堂 にも 千 本 組 関 係 者 が 在 職 していたことからも、 笹 井 の 斡 旋 によって 撮 影 所 に 職 を 得 る 例が 複 数 あったと 推 察 される。一 家 で 在 職 する 所 員 の 例 もよくみられ、“ 馬 方 ”西 郷 昇 と“ 子 役 ” 高 岡 昌 嗣 ( 子 役 時 代 は 木 村 政 次(28)(34)(32)(36)(29)(33)(35)郎 と 名 乗 った) 父 子 も 等 持 院 時 代 からのマキノ 一 党で、 高 岡 の 母 もまた 日 活 、 等 持 院 時 代 からのマキノ省 三 側 近 で 撮 影 所 の 賄 方 でもあった。 自 宅 に 馬 小屋 を 所 有 していた 西 郷 は、 御 室 撮 影 所 の 楽 屋 風 呂裏 手 の 馬 小 屋 も 預 かり、 数 10 頭 の 馬 が 彼 の 調 教 のもと 映 画 に 出 演 (1927-28 年 『マキノプロダクション』参 照 )、 高 岡 もまたのちに 東 映 京 都 撮 影 所 の 馬 場を 預 かり、 父 子 で 馬 術 の 才 気 を 発 揮 した。1929 年 の『マキノプロダクション』 誌 には、 御 室 撮影 所 にオープンカーやロケバスを 調 達 していた 自動 車 屋 が、ときには 出 勤 途 中 の 撮 影 所 所 員 を 乗 せ(38)て 参 じ、その 数 台 の 自 動 車 にロケ 隊 を 分 乗 させてロケ 地 へ 出 発 するという、 朝 の 撮 影 所 風 景 が 綴 ら(39)れている。この 自 動 車 業 者 が 大 海 自 動 車 かどうかは 不 明 だが、 一 日 貸 切 ともなれば30 円 もの 金 額 を(40) (41)徴 収 したといい、 千 本 組 と 日 活 のような 関 係 には 相当 しないと 考 えられる。このような 業 者 の 登 場 は、映 画 産 業 拡 大 による 大 規 模 ロケーションの 増 加 に加 え、 固 定 画 面 からダイナミックな 移 動 撮 影 への 転換 といったシネマ 的 事 象 とフィルム 的 事 象 の 推 移 と(42)の 連 動 を 指 摘 することも 可 能 だろう。Ⅴ. 撮 影 所 界 隈1925 年 6 月 、 当 時 はまだ 畑 の 広 がる 天 授 ヶ 丘 に、マキノ 御 室 撮 影 所 は 設 立 された。 新 興 目 覚 しいマキノでは 多 くのスタッフが 新 たに 採 用 され、1929 年の 時 点 で 所 員 は600 人 に 及 んだ。 彼 らの 多 くは1925 年 から26 年 にかけて 開 通 したばかりの 京 福 嵐(44)山 電 車 の 北 野 線 沿 いに 居 を 構 え、 御 室 撮 影 所 のある 妙 心 寺 駅 まで 通 勤 していた。 談 話 からは、こうした 映 画 人 たちを 目 当 てにした 飲 食 店 や、 映 画 界入 り 志 願 者 の 来 訪 による 賑 わいや 混 乱 ぶりが 垣 間見 える。そしていずれはこの 御 室 撮 影 所 から 輩 出された 映 画 人 が 次 々と 近 隣 に 独 立 プロを 設 立 して、更 に 活 況 を 呈 していくのである。管 家 氏 が 在 籍 していた 時 期 の 雑 誌 記 事 によるとマキノの 野 球 チームは 日 活 チームに 二 連 勝 してい(46)る。 等 持 院 撮 影 所 を 中 心 に、マキノ 御 室 撮 影 所 と日 活 大 将 軍 撮 影 所 は 半 径 1km 以 内 に 位 置 しており、(45)(43)(37)267


アート・リサーチ Vol.3こうした 交 流 が 生 まれるのもごく 自 然 なことであった。この 頃 、 名 キャメラマン 宮 川 一 夫 が 野 球 の 腕 を 買 われて 日 活 大 将 軍 に 入 社 した 事 も、 興 味 深 い 事 実 としてここにつけ 加 えておこう。1930 年 代 になると、 日活 太 秦 、マキノトーキー、 千 恵 プロ( 嵯 峨 野 )、 第 二次 寛 プロによって「 映 画 人 大 会 」もおこなわれるようになり、 昭 和 初 期 の 社 会 現 象 でもある 野 球 人 気 と撮 影 所 街 の 福 利 厚 生 事 業 が 一 致 した、まさしく「 日本 のハリウッド」 洛 西 地 域 を 謳 歌 する 祝 祭 イベントと化 したのである。Ⅵ.マキノプロダクション 終 幕マキノ 省 三 生 誕 五 十 年 記 念 映 画 『 実 録 忠 臣 蔵 』のフィルム 焼 失 。“マキノ 生 え 抜 き”の 大 道 具 主 任 ・河 合 広 始 と、キャメラマン・ 田 中 十 三 による 日 本 キネマ( 双 ヶ 丘 撮 影 所 )の 設 立 。 片 岡 千 恵 蔵 、 嵐 寛 寿郎 らの 大 量 スター 脱 退 。マキノ 名 古 屋 中 部 撮 影 所の 撤 退 。これらはすべて1928 年 の3 月 から5 月 の 間にかけて 起 こり、マキノに 甚 大 な 打 撃 を 与 えた 事 件である。それでもこの 年 85 本 もの 映 画 を 製 作 し、とりわけノー・スターで 撮 られた『 浪 人 街 第 一 話 美 しき 獲 物 』では、マキノ 正 博 、 山 上 伊 太 郎 の 才 能 を 世に 送 りだした。 翌 年 には『 戻 橋 』(マキノ 正 博 )で、 日本 映 画 史 にトーキー 映 画 の 先 鞭 をつけたものの、その 封 切 の2ヶ 月 後 にマキノ 省 三 が 亡 くなり、 長 男 ・正 博 が 所 長 に 就 任 。マキノ 系 封 切 館 を 次 々と 失 いながらも、この 年 、 前 年 を 上 回 る104 本 の 製 作 に 励む。 談 話 からうかがえる「 平 和 」な 時 期 はこの 頃 に相 当 し、 管 家 氏 のマキノ 退 社 は1929 年 9 月 末 からのストライキ 直 前 であると 推 察 される。1931 年 5 月 にマキノは 株 式 化 され、 更 正 マキノとして 再 出 発 を 図るが、その 数 カ 月 後 には 解 散 。 翌 年 2 月 に 設 立 と 同時 にステージ 焼 失 に 直 面 した 正 映 マキノキネマもわずか1ヶ 月 後 には 解 散 した。金 森 万 象 と 帝 産 観 光 バスとの 関 係 は 現 在 明 らかでない。マキノ 解 散 後 、 映 画 界 の 第 一 線 を 退 いた金 森 万 象 の 軌 跡 を 知 るうえで 重 要 な 談 話 部 分 であろう。 一 方 、 石 野 誠 三 は 金 森 万 象 監 督 のシボレー宣 伝 映 画 『 見 よ!この 先 駆 者 を』(1933、 大 沢 商 会 )(47)(48)(49)の 撮 影 を 担 当 後 、 編 集 職 に 転 向 し、J.Oスタジオへ入 社 。 満 映 を 経 て、 戦 後 は 山 口 シネマ( 現 ・プラスミック)に 在 籍 し、 日 本 中 央 競 馬 会 の 専 属 として、パトロールフィルムの 撮 影 を 担 当 していた。注(1) 大 阪 工 業 大 学 学 園 史 編 集 委 員 会 編 集 『 大 阪 工業 大 学 学 園 五 十 年 史 』( 大 阪 工 業 大 学 、1972 年 、15 頁 )、 大 阪 工 業 大 学 学 園 史 編 集 委 員 会 『 創 設史 実 篇 』( 大 阪 工 業 大 学 、1983 年 、16-18 頁 )。(2)「 全 国 映 画 常 設 館 名 簿 」(『 映 画 年 鑑 』 昭 和 編 Ⅰ、大 正 15 年 版 、 日 本 図 書 センター、1994 年 、143-144 頁 )。(3)「 全 国 映 画 常 設 館 名 簿 」(『 映 画 年 鑑 』 昭 和 編 Ⅰ、昭 和 2 年 版 、 日 本 図 書 センター、1994 年 、675-678 頁 )。(4) 前 掲 書 「 全 国 映 画 常 設 館 名 簿 」(『 映 画 年 鑑 』 昭和 2 年 版 、677 頁 )。(5)「 第 2 部 昭 和 元 年 -10 年 の 世 相 と 風 俗 」(『 実 録昭 和 史 』 株 式 会 社 ぎょうせい、1987 年 、162-165頁 )。(6)「 大 正 15 年 です。20 円 もくれたから、ぼくもびっくりしたんですよ」( 並 木 鏡 太 郎 「 第 三 章 映 画 史 の監 督 たち」『キネマを 聞 く』パート2、 日 本 大 学 芸術 学 部 映 画 学 科 編 集 委 員 会 、 江 戸 クリエート 株式 会 社 、1994 年 、104 頁 )。(7) 石 野 誠 三 「マキノ 映 画 略 年 表 」(『 回 想 ・マキノ 映画 』 御 園 京 平 編 、マキノ 省 三 先 生 顕 彰 会 、1971年 、158 頁 )。(8) 例 えば、 当 時 の 感 度 の 低 いフイルムに、 紗 をかけて 雲 の 様 子 を 出 して 見 せたキャメラマン 三 木稔 には 三 百 円 。 脚 本 の 題 名 が 気 に 入 れば 惜 しみも 無 く、 寿 々 喜 多 呂 九 平 に 千 円 など。(マキノ雅 弘 『マキノ 雅 弘 自 伝 映 画 渡 世 ・ 天 の 巻 』 平 凡社 、1977 年 、138 頁 )。(9) 嵐 山 電 鉄 北 野 線 は、 当 時 等 持 院 駅 、 小 松 原 駅を 通 り、 北 野 天 満 宮 前 の 北 野 駅 が 最 終 となっていた。( 京 福 電 気 鉄 道 社 史 編 さん 事 務 局 編 『 京福 電 気 鉄 道 50 年 の 歩 み』、1993 年 、12-13 頁 )。(10)「『 隣 が 空 いているさかいに 来 いや』と 言 うので、268


洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅲ. 管 家 紅 葉 氏 談 話等 持 院 の 南 町 に 呂 九 平 と 隣 同 士 の 家 を 借 りたんです」「 屋 根 伝 いにやってきては、 大 阪 へ 行 こうかとか 私 を 誘 いに 来 るんです」( 金 森 万 象 「マキノ 映 画 とともに」『INTERVIEW 映 画 の 青 春 』 京 都文 化 博 物 館 編 、1998 年 、12 頁 )。(11)「その 頃 、およそ 非 芸 術 的 な 風 貌 の 岡 本 一 凰さんがいて、おやじが 倅 を 可 愛 がるようによく 後輩 の 面 倒 をみてくれた」( 鈴 木 影 一 郎 「マキノ 映画 略 年 表 」『 回 想 ・マキノ 映 画 』[ 前 掲 、152 頁 ])。(12) 帰 山 教 正 『シネハンドブック』( 日 本 アマチュアシネマリーグ、1930 年 、183-192 頁 )。(13) 製 作 営 業 等 に 関 する 協 議 や 利 害 の 衡 突 を 防ぐ 役 割 を 負 っていた( 山 本 夏 男 「 砂 絵 呪 縛 に 就いて」『マキノプロダクション』1927 年 11 月 号 、62頁 )。(14) 山 本 夏 男 「 砂 絵 呪 縛 に 就 いて」 前 掲 。(15) 稲 垣 浩 「 城 南 宮 」(『 日 本 映 画 の 若 き 日 々』 毎 日新 聞 社 、1978 年 、108 頁 )。(16) 大 原 里 づくり 協 会 事 務 局 長 ・ 宮 崎 氏 による。(17) 現 在 の 今 津 町 、 新 旭 町 、 安 曇 川 町 にまたがる広 大 な 台 地 で、 主 に 肥 料 や 燃 料 採 取 の 場 所 であった。 明 治 22 年 に 陸 軍 の 演 習 場 として 一 部 が買 い 取 られ、 大 津 港 から、 多 くの 兵 士 がやってきた。 後 にこの 土 地 はスキー 場 として 開 発 されていくことになる。( 今 津 町 史 編 集 委 員 会 『 今 津 町 史 』第 3 巻 、2001 年 、104-112 頁 )。(18)ある 冬 の 日 に 瀬 田 橋 を 五 条 の 橋 に 見 たてて 撮影 したという。( 尾 上 松 之 助 + 中 村 房 吉 著 『 活 動写 真 の 大 スター/ 目 玉 の 松 ちゃん─ 尾 上 松 之助 の 世 界 ─』 日 本 文 教 出 版 株 式 会 社 、 岡 山 文庫 178、1994 年 、103 頁 )。(19) 詩 芸 悲 路 「 黒 船 の 沈 没 /『 松 平 長 七 郎 』( 長 崎篇 ) 撮 影 にからむ 一 大 危 難 記 」(『マキノプロダクション』1929 年 9 月 号 、66 頁 )。(20)「 撮 影 所 通 信 」(『キネマ 旬 報 』1926 年 8 月 -9 月号 ) 参 照 。(21) 山 本 緑 葉 「 主 要 日 本 映 画 批 評 」(『キネマ 旬 報 』1927 年 2 月 11 日 号 ) 参 照 。(22) 高 松 での 歓 待 ぶりは、 港 では 花 火 が 挙 げられ、映 画 館 の 専 属 楽 団 のマーチ 演 奏 の 中 を 船 から降 りると、 一 団 は 大 勢 のファンから 花 束 を 贈 られ、飾 られた 人 力 車 で 街 を 練 り 歩 き、 常 設 館 へ 到 着するといった 様 子 であった。( 金 森 万 象 「 映 画 今昔 」94、『 消 費 者 自 身 』1979 年 1 月 1 日 号 )。(23) 東 亜 キネマ 重 役 として、マキノとの 合 併 に 一 役買 った 人 物 。 後 に 阪 東 妻 三 郎 と 共 に 阪 妻 立 花 ユニバーサル 連 合 映 画 の 設 立 や、 帝 キネの 長 瀬撮 影 所 の 所 長 も 務 めた。マキノ 御 室 倒 産 後 も 正映 マキノ 設 立 などに 関 与 した。(24)タイトル 部 時 代 の 二 川 文 太 郎 が 考 案 したマキノの 商 標 。(25) 瀬 川 輿 志 『マキノプロダクション・ 事 始 』( 白 川 書院 、1977 年 、172-173 頁 )。(26) 岡 島 艶 子 + 新 藤 兼 人 「 女 優 一 代 」(『 講 座 日 本映 画 2』、 岩 波 書 店 、1986 年 、202 頁 )。(27) 当 時 「 萩 原 陣 太 郎 」の 記 名 でマキノ 誌 に 執 筆 している。シャドウ(28) 山 中 貞 雄 は「 形 がつくまでは 影 のような 存 在でいる」という 意 味 で“ 社 堂 沙 汰 夫 ”と 名 乗 り、 周囲 は 彼 を“シャダやん”と 呼 んだ。(29)「 好 漢 ! 沙 堂 ヤンは 俗 にロング・ロング・アゴーで 有 名 でした。( 中 略 ) 当 時 の 沙 堂 ヤンはむつゝり 家 で 交 際 の 下 手 な 処 なんか 私 と 好 一 対 で、 右門 捕 物 帖 の 主 人 公 を 地 で 行 く 彼 だったのです」( 嵐 寛 寿 郎 『 映 画 ファン』1938 年 12 月 号 )。(30) 前 掲 『 評 伝 山 中 貞 雄 』、116 頁 。(31)1934 年 に 鳴 滝 に 住 む 山 中 貞 雄 が 近 隣 に 住 む仲 間 に 呼 びかけて 結 成 し、 梶 原 金 八 の 筆 名 で時 代 劇 映 画 シナリオを 執 筆 。メンバーは 稲 垣 浩 、三 村 伸 太 郎 、 藤 井 滋 司 、 八 尋 不 二 、 土 肥 正 幹( 鈴 木 桃 作 )。(32)マキノ 光 雄 「 時 代 映 画 の 三 十 年 」1(『キネマ 旬報 』1957 年 4 月 上 旬 号 、69 頁 )。(33)「ドモ 清 と 呼 ばれていていた 小 道 具 係 のおっさんがいた。( 中 略 ) 私 が 生 まれる 前 からの 父 の 子分 で、 私 を 非 常 に 可 愛 がってくれたものだが、どんなに 偉 い 俳 優 でも、この 男 がどもると、 頭 が 上がらなかった」( 前 掲 『 映 画 渡 世 ・ 天 の 巻 』、80 頁 )。(34) 柏 木 隆 法 『 千 本 組 始 末 記 』( 海 燕 書 房 、1992)参 照 。269


アート・リサーチ Vol.3(35) 川 浪 良 太 「 御 室 スタディオ 二 四 時 間 」(『マキノプロダクション』1929 年 4 月 号 、45 頁 )。へと 向 かわせ、さらにマキノトーキー 設 立 へと 繋がるのである。(36) 例 えば、 都 賀 家 。 父 ・ 都 賀 清 司 は 俳 優 として 母・ 都 賀 かつは 結 髪 としてマキノ 御 室 に 在 籍 。 子 の都 賀 静 子 と 都 賀 一 司 も 俳 優 となった。 他 にも 嵐冠 三 郎 と 北 岡 よし 江 父 子 のような 例 もある。(37) 高 橋 治 『 純 情 無 頼 小 説 阪 東 妻 三 郎 』( 文 藝 春秋 、2002 年 ) 参 照 。(38) 前 掲 「 御 室 スタディオ 二 四 時 間 」、44 頁 。(39) 根 岸 東 一 郎 「 特 集 ・ 俳 優 の 見 た 監 督 / 温 顔ママ童 心 そして 自 働 車 」(『マキノプロダクション』1929年 2 月 号 、95 頁 )。(40) 前 掲 「 御 室 スタディオ 二 四 時 間 」、44 頁 。(41) 日 活 は 千 本 組 から 材 木 運 送 用 のトラックを 借 り入 れ、 代 わりに 千 本 組 は 必 要 な 材 木 の 納 入 を 一手 にひきうけた( 柏 木 隆 法 『 千 本 組 始 末 記 』[ 海燕 書 房 、1992] 参 照 )。【 聞 き 取 り 調 査 】・ 第 1 回 2002 年 10 月 19 日 10:00-14:00於 管 家 氏 宅聞 き 手 ─ 冨 田 美 香 、 紙 屋 牧 子 、 大 矢 敦子 、 岡 美 里・ 第 2 回 2002 年 11 月 11 日 14:00-18:00於 管 家 氏 宅聞 き 手 ─ 冨 田 美 香 、 紙 屋 牧 子 、 大 矢 敦子 、 矢 野 維 之・ 第 3 回 2002 年 12 月 19 日 14:00-17:00於 管 家 氏 宅聞 き 手 ─冨 田 美 香(42)なお、 金 森 万 象 によれば 自 動 車 を 用 いて 移 動撮 影 をしたのは1919 年 、 日 活 京 都 で「 松 之 助 の『 忠 臣 蔵 』」で、「オープンの 自 動 車 のステップに 座布 団 を 置 いて、 直 にキャメラを 置 い」て 撮 影 したのが 最 初 ( 前 掲 「マキノ 映 画 とともに」『INTERVIEW映 画 の 青 春 』、10-11 頁 )。(43) 龍 田 三 四 郎 「マキノ 人 分 布 図 ─ 読 者 課 題 回 答【 執 筆 担 当 】編 ・ 解 説 : 冨 田 美 香テープ 起 こし : 紙 屋 牧 子 + 大 矢 敦 子談 話 ・ 注 ・ 解 題 作 成 :Ⅰ-Ⅲ 大 矢 敦 子 + 冨 田 美 香─」(『マキノ 映 画 』1929 年 5 月 号 、58 頁 )。Ⅳ-Ⅵ紙 屋 牧 子(44) 撮 影 所 開 設 と 嵐 山 電 車 との 密 接 な 連 動 性 につ資 料 協 力 : 板 倉 史 明いては「 洛 西 地 域 映 画 史 聴 き 取 り 調 査 報 告 Ⅱ小 林 昌 典 氏 談 話 」(『アート・リサーチ』vol.2、2002 年 )を 参 照 されたい。(45) 前 掲 「マキノ 人 分 布 図 ─ 読 者 課 題 回 答 ─」 参 照 。(46) 更 二 生 「 嵯 峨 ・ 御 室 /ところどころ」(『マキノプロダクション』1927 年 9 月 号 、62 頁 )。(47) 宮 川 一 夫 「 映 画 史 を 支 えた 撮 影 美 学 」( 前 掲『INTERVIEW 映 画 の 青 春 』、162 頁 )。(48)「 岡 本 健 一 」(『 個 人 別 領 域 別 談 話 集 録 による映 画 史 体 系 (その 八 )』 日 本 大 学 芸 術 学 部 映 画学 科 、74 頁 )。(49)マキノ 省 三 原 案 によるディスク 式 トーキー『 戻橋 』の 出 来 は 芳 しくなく 省 三 の 意 気 を 消 沈 させた。このときの 失 敗 がのちにマキノ 正 博 を 録 音 修 行270

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