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思 考 」の 相 対 主 義 的 に 留 まっているために、 有 限 性 の「 真 理 そのもの」の 認 識 について 語 りながら、それを「 可<br />

能 性 のひとつ」とするある 種 のレトリックの 罠 に 捕 らわれたままなのだ、と。<br />

これはけっして 特 別 な 例 ではない。それどころから、ほとんど 多 くの 場 合 、ナンシーはハイデガーを 引 用 しつ<br />

つ、その 命 題 の 内 容 そのものではないとしても、その 含 意 に 疑 義 を 呈 し、 新 たな 解 釈 の 余 地 を 示 唆 するのであ<br />

る 4 。 今 回 、とりあげる 3 つの 主 題 の 場 合 もまさにこの 形 で 論 は 展 開 される。 以 下 、ひとつずつ 検 討 することに<br />

しよう。<br />

1 共 存 在 ( 共 同 体 )<br />

まずは、 共 同 体 = 共 同 性 である。ナンシーの 出 世 作 として 知 られる『 無 為 の 共 同 体 』(1986)は、 一 連 の 論 考<br />

からなるが、 同 じタイトルの 最 初 の 論 文 は 1983 年 に 雑 誌 『アレア』に 発 表 され、その 後 、 同 じ 主 題 を 扱 った<br />

二 つの 論 考 (「 途 絶 し た 神 話 」「〈 文 学 的 共 産 主 義 〉」 を 収 録 する 形 で 単 行 本 化 され、さらには 第 2 版 で、 新 たに<br />

いくつかの 論 考 (「〈 共 同 で の 存 在 〉 に つ い て 」「 有 限 な 歴 史 」) が 追 加 された。その 意 味 で、ナンシー 思 想 の 出<br />

発 点 であると 同 時 に、80 年 代 半 ばの 彼 の 思 想 を 反 映 している 5 。<br />

一 連 の 論 考 は、なによりもジョルジュ・バタイユ、そして、モーリス・ブランショの 思 想 に 導 かれながら、 新<br />

たな 共 同 体 あるいは 共 同 性 について 考 察 したものであるが、 数 か 所 でハイデガー(とりわけ『 存 在 と 時 間 』へ<br />

の 重 要 な 言 及 が 見 られる。ただ、それは 全 面 的 な 肯 定 というよりは、 多 くの 留 保 つきのものである。 焦 点 とな<br />

るのは、 共 存 在 Mitsein、そして 現 存 在 が「 死 への 存 在 」Sein zum Tode であるということの 意 味 である。<br />

ナンシーによれば、ハイデガーは『 存 在 と 時 間 』において、 現 存 在 が 本 質 上 おのずから Mitsein であることを<br />

明 らかにしつつも、それを 十 分 に 発 展 させることはなかった 6 。 死 の 分 析 論 において、 現 存 在 はなによりも「 死<br />

への 存 在 」という 側 面 が 強 調 されることで、 共 存 在 というモチーフが 背 景 にしりぞいてしまうからである 7 。そ<br />

れはなぜかといえば、 死 への 先 駆 によって 現 存 在 は 単 独 化 し、「 他 者 との 共 存 在 は 何 の 役 にも 立 たなくなる」 8 と<br />

考 えるからである。つまり、ハイデガーは 残 念 なことに、 別 の 部 分 で 自 ら 明 らかにした 共 同 存 在 と「 死 」の 問<br />

のはこのことであって、 思 考 の 謙 譲 についてのひとつのレトリックではない。ここでハイデガーはこのレトリックの 罠 に 捕 らわれたま<br />

まである。『 有 限 な 思 想 』 p.7<br />

Le contexte immédiat de cette phrase ne lui rend pas justice. Heidegger semble y rester pris dans une conception en somme relativiste de la<br />

« pensée finie», sui resterait toujours seulement « une possibilité parmi d’autres, ne pouvant prétendre à connaître la « vérité en soi » de la<br />

finitude. Cela demande au moins à être éclairci. On ne connaît pas finitude « en soi » : mais ce n’est pas par l’effet d’un perspectivisme, c’est<br />

parce qu’il n’y pas de finitude « en soi ». C’est de cela qu’il doit s’agir, et non d’une rhétorique de modestie de la pensée, dans laquelle<br />

Heidegger reste ici piégé. p. 13-14.<br />

4<br />

同 書 から 別 の 例 を 引 いておこう。こちらは、 意 味 の 可 能 性 に 関 するもので、 先 の 引 用 の 少 し 後 に『 存 在 と 時 間 』に 関 して、またも<br />

注 の 形 で 記 される。「この 書 物 [『 存 在 と 時 間 』は、 存 在 の 意 味 であるかぎりでの 意 味 の「 脱 構 築 」の 原 理 を 定 義 しているのだが、そ<br />

れにも 係 わらず、そこでのハイデガーはやはり、 意 味 の 呈 示 についての 古 典 的 な 二 つの 体 勢 に 従 属 したままである。これら 二 つ<br />

の 体 勢 とは、「 了 解 」としての 体 制 であり、もう 一 度 は「 感 じること」ないし「 感 情 としての 体 制 である。ハイデガーは、これら 二 つの 体<br />

制 は 不 可 分 でありつつも、 二 つは 二 つであり 続 けるだろうと 繰 り 返 し 言 っているが、この 二 元 性 を 明 確 には 問 いただしていない。<br />

10−11。 « On notera au passage que bien que ce livre [Sein und Zeit] définisse le principe d’une « déconstruction » du sens, en tant que<br />

sens de l’être, Heidegger n’y reste pas moins tributaire d’un double régime, classique, de la présentation du sens : une fois comme<br />

« compréhension », une autre fois comme « sentir » ou « sentiment » (Befindlichkeit). Il répète que les deux sont indissocialbes, mais les deux<br />

restent deux, et Heidegger n’interroge pas explicitement cette dualité. p. 16<br />

5 『 無 為 の 共 同 体 』( 西 谷 修 ・ 安 原 伸 一 朗 訳 、 以 文 社 、2001 年 )。Jean-Luc Nancy, La communauté désoeuvré, Christian Bourgois, 1986.<br />

以 下 、CD と 略 記 し、 邦 訳 / 原 著 の 頁 数 を 記 す。<br />

6 さらには、Mitsein なり Mid-da-sein と 名 づけて 考 察 されたものは、ハイデガーの 思 想 のうちではいまだしかるべき 根 源 性 も 決 定 も<br />

与 えられていなかった(CD 159/203)と 考 える 。<br />

7 その 一 方 で、 現 存 在 が「 死 への 存 在 」であるということをめぐるハイデガーの 考 察 は、「 私 なるものが 一 個 の 主 体 とは 別 のもので<br />

あること」を 端 的 に 示 している、と 述 べて、 評 価 もしている。<br />

8 SZ, S. 263.<br />

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