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ナンシーが 問 題 にしようとするのは、 同 一 者 たちの 合 一 であるようなコミュニオンではなく、 他 者 性 が 解 消 さ<br />

れることのないコミュニケーションである。「コミュニケーションとは、まず 何 よりも、この 有 限 性 の 分 有 と<br />

その 共 - 出 現 からなる。つまり、〈 共 同 での 存 在 〉を----まさしくそれが 一 つの 共 同 存 在 でないという 限 りで----<br />

成 り 立 たさせるものとして 開 示 される 脱 - 臼 と 問 い 質 しからなるのである」とナンシーは 書 く 11 。<br />

一 方 、 死 の 問 題 についても、 死 とは、ハイデガーが 正 当 に 指 摘 したように、 各 自 固 有 の 死 であり、 私 が 他 者 の<br />

代 わりに 死 ぬことができない、ということを 確 認 する。だが、それを 別 の 方 向 へと 発 展 させる。 一 方 、 他 者 は<br />

彼 が 私 とともにある 限 りで 死 ぬ。われわれは 互 いが 互 いへと 生 まれ、 死 ぬ。 相 互 に 露 呈 し、 根 源 の 露 呈 不 可 能<br />

な 特 異 性 を 露 呈 するのだ、と。それゆえ、 死 は「 主 体 に 対 して」 生 起 するのではなく、ただその 表 象 だけが「 主<br />

体 に 対 して」 生 起 する。しかし、それゆえにまた、「 私 の 死 」は「 私 」と 共 に 単 なる 消 失 のうちに 呑 み 込 まれ<br />

るのではない。 死 は 実 存 の 究 極 の 可 能 性 であるが 故 に、 実 存 そのものを 露 呈 させる。したがって、 死 は 本 質 的<br />

に 言 語 として 生 起 し、 言 語 は 常 に 死 について 語 る。<br />

このように、ナンシーの 身 振 りはハイデガーに 従 いつつも、そこから 離 れるものである。<br />

ハイデガーに 従 って、 自 分 の 固 有 な 死 への 関 係 が、「その 最 も 固 有 の 存 在 を、 自 己 自 身 から 引 き 受 ける」(SZ,<br />

S.263)ことにあるとしても、この 引 き 受 けは、ハイデガー 自 身 の 断 定 に 反 して、「 一 切 の 共 - 存 在 の 妥 当 性 を<br />

止 める」ことを 含 意 しない 12 。ESP179/114<br />

なぜなら、「 私 の 死 とは、 他 の 実 存 者 たちの 固 有 の 可 能 性 の「 最 も 固 有 の」 共 - 可 能 性 」だとナンシーは 考 える<br />

からである。とはいえ、ここで 問 題 になっているのは、 私 と 他 者 の 同 質 性 や 同 一 性 ではない。むしろ、 共 - 存<br />

在 は、 同 一 性 (mêmeté)に 帰 着 しない 他 者 を 指 し 示 す、つまり、 諸 根 源 の 複 数 性 を 指 し 示 す。〈 共 に〉の 正 確 な 尺<br />

度 mesure は、dis-position( 離 散 - 措 定 )そのものの 尺 度 であり、ある 根 源 から 他 の 根 源 への 隔 たりの 尺 度 であ<br />

る。ナンシーは、まさにこの 尺 度 をハイデガーが 認 めなかったとして 批 判 する。<br />

ハイデガーは、 彼 の Mitsein の 分 析 論 において、いまだにこの 尺 度 に 権 利 を 認 めていない。「 単 なる 隣 接 の<br />

無 関 心 」と、 本 来 的 な「 他 人 の 理 解 」( 略 )との 間 で、「 実 存 論 的 疎 隔 性 (Abständigkeit)」という 主 題 は、ただ<br />

ちに 競 合 と 支 配 へと 送 り 返 し、「ひと」の 無 差 別 な 支 配 へと 開 いている。「ひと」は、 全 員 の 全 員 に 対 する 一<br />

般 的 な 疎 遠 性 の 平 均 化 する 転 換 としてしか 生 み 出 されない。」(ESP 163/105)<br />

つまり、これは、ハイデガーの「ひと」に 対 する 否 定 的 評 価 に 対 する 批 判 なのである。「ハイデガーの「ひと」<br />

は、 実 存 的 な「 日 常 性 」の 原 初 的 な 把 握 としては 不 十 分 である。それは、 日 常 的 なものを、いまだ 差 異 化 され<br />

ないもの、 匿 名 的 なもの、 統 計 と 混 同 させる」(ESP39/27) 。 後 に 見 るように、この 日 常 性 の 否 定 的 評 価 は、『 存<br />

在 と 時 間 』の 構 造 と 無 縁 ではない、とナンシーは 考 える。そして、この 不 完 全 性 が、ハイデガーの 分 析 の 開 放<br />

性 にもかかわらず、 閉 塞 の 原 理 を 内 包 し、「 共 - 存 在 」を「 民 族 」や「 運 命 」で 満 たし、それらに 閉 じ 込 めるこ<br />

との 原 因 になったと 批 判 している 13 。<br />

11 ここでも、ナンシーは 注 に 次 のように 記 す。「この 意 味 で、 個 々の 特 異 存 在 の 共 - 出 現 com-parution は、ハイデガーが 前 言 語 的 な<br />

「 解 釈 [Auslegung]として 理 解 している 言 語 の 前 提 条 件 に 先 行 するものでさえある」(CD 53/73)<br />

12 […] si le rapport à la mort propre consiste, selon Heidgger, à « assumer de soi-même son être le plus propre », cette assomption n’implique<br />

pourtant pas, contrairement à l’assertion du même Heidegger, que « cesse la pertinence de tout être-avec ».<br />

13 とはいうものの、 同 時 に 注 において、『 哲 学 への 寄 与 論 考 』の 読 解 によって、 再 解 釈 が 可 能 であると 示 唆 している。「『 存 在 と 時 間 』<br />

を 書 き 直 さねばならない。それは 馬 鹿 げた 野 望 でもなければ、「 私 のもの」でもなく、われわれのものである 限 りでの、 重 要 作 品 の<br />

必 然 性 である」(ESP 185/118)<br />

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