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1今 月 の 内 容2 面 南 スーダン 派 遣 施 設 隊部 隊 スキー 指 導 官 養 成 訓 練部 隊 格 闘 指 導 官 養 成 訓 練平 成 25 年 度 航 空 科 職 種 合 同 訓 練3 面 52 組 のカップル 誕 生3Dレディー( 第 3 後 方 支 援 連 隊 )新 婚 さんスウィートライフ( 第 3 音 楽 隊 )一 隅 を 照 らす( 第 36 普 通 科 連 隊 )4 面 部 隊 長 随 想 ( 第 3 特 科 隊 )最 先 任 上 級 曹 長 随 想 ( 第 3 飛 行 隊 )時 事 解 説 ニュースの 眼平 成 26 年 3 月 号 ( 第 <strong>56</strong> 号 )の夢~陸上自衛隊のた奏された。「勇者たち恋の歌」などの曲が演のトビラ」「束の間の隊のために~」「勇気者たちの夢~陸上自衛構成されており、「勇者が作曲した曲により第1部は日本人作曲期演奏会となった。となり熱気あふれる定発 行第 3 師 団 司 令 部 広 報 班住 所 :664-0014 兵 庫 県 伊 丹 市 広 畑 1-1電 話 :072-781-0021 内 線 3290/3291/3292演奏者と聴衆者が一体聴衆で埋め尽くされ、会場は約850人の奏会を行っ第3師団第た。 44 回定期演みホール」において、丹市立文化会師団は2月館「 15 日い 、た 伊プ ロ グ ラ ム第 1 部勇 者 達 の 夢 ~ 陸 上 自 衛 隊 のために~ 真 島 俊 夫盛り上がりを見せた。が一体となり、最高の手拍子と音楽隊の演奏を演奏した。来場者の兵衛」のメインテーマK大河ドラマ「軍師官して現在放送中のNHたえ、アンコール曲と鳴りやまない拍手にこ演奏会の最後では、盛り上げた。る演奏は会場を大いにンドならではの迫力あれた。アメリカンサウ景」などの曲が演奏さーストコーストの風カウボーイ序曲」「イで構成されており、「カ」をテーマにした曲第2部は、「アメリあり観客を楽しませた。楽とコラボする場面がロディーが流れ、吹奏る「消灯らっぱ」のメ自衛隊で使用されていめに~」では現在陸上2014 年 度 全 日 本 吹 奏 楽 コンクール 課 題 曲Ⅳ コンサートマーチ「 青 葉 の 街 で」Ⅱ 行 進 曲 「 勇 気 のトビラ」小 林高 橋武 夫宏 樹森 の 贈 り 物束 の 間 の 恋 の 歌カウボーイ 序 曲With Heart and Voiceイーストコーストの 風 景シェルター 島キャッツキル 山 地ニューヨーク第 2 部酒 井井 澗格昌 樹ジョン・ウィリアムズデイヴィッド・ギリングハムナイジェル・ヘス


2 3 師 団 だ よ り 第 <strong>56</strong> 号 2014 年 ( 平 成 26 年 ) 3 月滑 走 訓 練スキー 行 進 訓 練対 異 種 訓 練訓 練 銃 を 使 った 格 闘 訓 練師 団 格 闘 集 合 訓 練夜 間 飛 行 訓 練 (ホイスト)給 水 活 動施 設 構 築 作 業医 療 支 援師団は、昨年12 月16 日から2月28 日までの間、福知山駐屯地及び長田野演習場において平成25 年度師団格闘集合訓練を行った。参加者に対し、準備訓練の後、特級検定を行い、検定を合格した者を対象として指導官養成訓練が行われた。格闘指導官を目標に厳しい訓練を乗り越えてきた訓練参加者は、指導官養成訓練の最後の難関である認定試験に挑み、新たに32 名の格闘指導官が誕生した。師団は、1月27 日から2月21 日までの間、兵庫県豊岡市日高町太田アップ神鍋スキー場及び神鍋高原ゴルフ場において平成25 年度部隊スキー指導官集合訓練を行った。スキーでの滑走及び行進等の練成訓練合格者第7普通科連隊井本2曹中村3曹松浦3曹永井3曹三加茂3曹平瀬3曹第36 普通科連隊長谷川2曹松村3曹桝井2曹橋本3曹髙瀬3曹渡瀬3曹矢野3曹第37 普通科連隊安尾2曹中島3曹空本3曹橋本3曹三嶋3曹を実施した後、部隊スキー指導官認定試験を行い、その練度を評価・判定した。10 名の隊員が認定試験に挑み、厳しい評価基準を突破した4名の隊員が見事合格し、スキー指導官として認定された。部 隊 スキー 指 導 官 集 合 訓 練合格者第7普通科連隊天田3曹土屋3曹第3後方支援連隊安田3曹第3戦車大隊田中2曹なお第7普通科連隊天田3曹は第3師団で初めて女性隊員としてスキー指導官に認定された。南スーダン派遣施設隊は、昨年12月16 日に生起した政府軍と反政府軍の衝突の影響でジュバ市内の国連施設に避難した現地住民に対する各種支援を行っている。隊は、UNMISS本部の指示により、避難民に対して、給水・医療支援、トイレ構築支援及び、UNハウスにおけるPOC(民間人保護)エリアの敷地造成、防護壁の構築等の支援を行っている。給水支援においては、これまで1000トンを越える給水を実施した。医療支援においては、UNハウス内の病院で、軽度の風邪や銃創等の外傷の治療など様々な疾患の患者を診療している。訓 練 前 の 認 識 統 一航 空 輸 送 ( 吊 り 下 げ)本訓練は、師団・旅団飛行隊及び普通科連隊等が共同して空中機動訓練及び空中機動掩護訓練を行い、ヘリボン作戦の練度向上を図った。2月24 日から26 日までの間、八尾駐屯地、青野ヶ原演習場、日本原演習場及び同周辺空域において、平成25 年度航空科職種合同訓練が実施され、第37 普通科連隊及び第3飛行隊が参加した。巽3曹新田3曹和田3曹第3後方支援連隊安部3曹瀬戸3曹森脇3曹第3特科隊松井3曹山下3曹西尾3曹第3高射特科大隊西川2曹第3施設大隊戸澤2曹第3師団司令部付隊井上3曹第3特殊武器防護隊楠3曹方面情報隊壺井2曹


近畿ブロック防衛協会青年部会(会長鷺岡和徳氏)は、2月1日千僧駐屯地体育館において、「婚活大作戦千僧駐屯地」を開催した。婚活パーティーは昨年の1月にも行われ、今回で2回目となった。パーティーには、近畿2府4県から女性約180名と陸・海・空自衛官約250名が参加した。災害派遣等で活躍する自衛官を目にする機会が増え、女性から自衛官に対する人気が高まっており、キャンセル待ちが出るほど応募が殺到した。初めて自衛隊の駐屯地に入る女性が大半で、初めて接する自衛官への期待が高まるなかパーティーが開始された。女性参加者が会場に入場すると、隊員は敬礼をし、拍手で出迎えた。会長挨拶の後、フリートークが開始され、当初はぎこちない雰囲気で会話をしていた参加者も、時間が進むにつれて会話が弾み、2人で会話をする姿が目立つようになった。最後の告白タイムでは、見事52 組のカップルが成立し、パーティーは大いに盛り上がった。3 3 師 団 だ よ り 第 <strong>56</strong> 号 2014 年 ( 平 成 26 年 ) 3 月今回は、第3音楽隊で勤務し、ユーフォニアムを担当する正義感の強く負けず嫌いの木下利信3等陸曹とホルンを担当する真面目でかわいい田隯彩陸士長(3月31 日入籍予定)へのインタビューです。入隊の動機は?国際貢献をし、一社会人として社会に貢献したかったからです。趣味は?バイクに乗ること。(気分転換程度に)特技は?5歳から始めたピアノ演奏です。ベートーヴェンの「月光」などが弾けます。好きな食べ物は?野菜。特にプチトマトが好き。好きなタイプは?自分を持っている人。ぶれない人。尊敬する人は?上杉鷹山です。米沢藩第9代藩主であり、彼の改革により、藩の財政再生や天明の大飢饉の際、1人の餓死者も出さずにすませたことがすごいと思ったからです。心に残る経験は?天国に一番近い国「ニューカレドニア」へ行ったこと。海がとてもきれいで、料理(フランス料理)も美味しく、魅力的な国でした。今後の目標は?海外進出(旅行等)です。医療先進国であるアメリカやカナダで最新医療の技術や知識を学びたいですし、海外旅行することで視野が広がり、グローバルな見方をすることができるからです。最近ハマってること医療の勉強をすること。最後に一言もっと自分を磨く。救急救命士という資格に誇りを持つとともに、その資格に恥じないように知識や技能を練磨していきます。第3後方支援連隊2等陸曹杉田真弥博識多彩仲間と汗を流しています。また部外の柔道クラブにも所属し、高校・一般の部の要員として自らも練成に励みながら、地域の子供たちに対し熱心に指導しています。一方家庭では2児のやさしいパパです。迫田3曹は、部隊・駐屯地のため、また地域のため黙々と任務に取り組んでいます。( 第36 普通科連隊第5中隊先任上級曹長)第36 普通科連隊第5中隊3等陸曹迫田崇志今回は第36 普通科連隊第5中隊の迫田崇志(さこだたかゆき)3曹を紹介します。迫田3曹は、1月1日付で3等陸曹に昇任した若手陸曹のホープで、中隊では機関銃手として勤務しています。持ち前の体力を活かし、日々後輩隊員を誘っては体力練成を実施する等後輩隊員の育成にも意欲的に励んでおります。課業外においては駐屯地柔道部の部長という一面を持ち、毎週駐屯地体育館で柔道部の柔道を通じて部隊・地域に貢献妻華やかと言うよりも、温かい式にしたいと思っています。どんな家庭を築きたい?夫大家族(子供が好きです。)妻笑顔の溢れる家庭を築きたいと思います。お互いに一言夫「田隯(タジマ)」は難しくて読めませんし、いまだに書けません。私の名前「木下(キノシタ)」に変えて簡単にしましょう。妻身体に気をつけて健康第一で行きましょう。お酒もほどほどにして、宴会も2次会を断って早く帰ってきてね。になり「結婚するんだなぁ~!」と思いました。妻特になし、あえて言うのであれば、付き合うときに「結婚を前提に考えている。」と言われました。お互いのどこに惹かれたの?夫価値観が近いので、話していてとても楽しいところです。妻気持ちが若く、やさしいところです。子供は何人欲しい?夫100人!妻一人か二人どんな結婚式にしたい?夫楽しく平和な結婚式にしたいと思います。笑顔が溢れ、子供は100人今回は、第3後方支援連隊に所属する杉田真弥2等陸曹へのインタビューです。杉田2曹は、平成23 年3月第3後方支援連隊衛生隊に配置された第3師団唯一の女性救急救命士です。現在は、救急車小隊勤務だけでなく、第125期(85 期WAC)陸曹候補生等履修前教育助教としても日々頑張っています。出会い、なれそめは?夫同じ部隊なので、職場のみんなでよく遊びに行っていました。そして、「付き合おう。」と告白しました。妻職場で出会い、同期を含めよく遊んだことがきっかけです。初デートの思い出は?夫ちょうど、同じ映画(きいろいゾウ)が見たかったので映画館に行きました。妻映画を見た後、ひたすらゲームをしていました。プロポーズの言葉は?夫残念ながら特に有りません。(本当に)二人で話しているときに、自然と将来の話第3音楽隊3等陸曹木下利信陸士長田隯彩in婚 活 パーティー 会 場女 性 参 加 者 入 場 風 景カップル 成 立たじま


主な任務であり、その任務達成のため日夜訓練に励んでいます。そして、創隊以来、その時代に応じてその訓練内容や重視事項には移り変わりが有るものの、その任務の本質自体は何一つ変わっていません。これを別の言葉で言えば我々第3飛行隊では創隊当時の隊員から今年配属された新隊員まで皆、同一の目的意識の中で任務を遂行してきたといえます。では、その任務遂行のために変化したものはなかったのかというと、答えは違います。保有する航空機の機種や編成の変当たりにされており、この経験から名城は残さなければならないとの思いに至ったのかもしれない。功績を称え、姫路市は中村大佐を姫路城の恩人として、昭和19 年に中村大佐顕彰碑を城内に設置した。我々姫路駐屯地の各部隊も、毎年、お城祭りや姫路城クリーン作戦等多くの行事の支援を通じて地域の方々と融和し、連携を強化させていただいているが、それも姫路城あってのことである。更に、偶々であるが、小官の先祖は幕末の姫路城主酒井氏に押目付としてお支えしており、その先祖の導きにより、縁あってこうして姫路で勤務することとなり、姫路城を拝50 銭で落札した。神戸氏は姫路城の瓦や釘を再利用するつもりだったが、やがて、大きすぎる瓦等は一般家屋にうまく使えないことが分かり権利を放棄した。ここで当時陸軍省の第四局長代理であった中村大佐が登場することとなる。貴重な名城は後世に残すべきと考えた大佐は、明治11 年12 月26 日、陸軍卿山県有朋にこの旨の建白書を提出、これを受けて陸軍省は翌12 年(1879年)1月29 日、軍の費用で城の修理を決定、危なく廃棄を免れることとなった。ちなみに同大佐は、名古屋城についても同様に残すための働きかけを行い、名古屋城も廃棄を免れた。中村重遠(なかむら・しげとう)(通称進一郎)大佐は、天保11 年(1840年)12 月2日、高知県宿毛村で小野弥源次義為の二男として生まれ、後に中村儀平の養子となった。戊辰戦争には機勢隊を率いて北陸路を進軍し功をあげた。明治4年(1871年)兵部省に出仕、同6年の征韓論では反対の立場に立ち、板垣退助らと訣別した。同年熊本鎮台参謀長心得に転じ、佐賀の乱に出征。西南の役では別働第2旅団参謀長として活躍した。明治17 年(1884年)2月22日、病気のため45 歳の若さで逝去。西南戦争において自分が勤めていた熊本城の天守が燃えるのを目の4 3 師 団 だ よ り 第 <strong>56</strong> 号 2014 年 ( 平 成 26 年 ) 3 月第3特科隊長1等陸佐中村博篤姫路城の恩人「新庁舎」第 3 飛 行 隊陸 曹 長 平 江 直 也創 隊 20 周 年 を 迎 えて~“ 伝 統 ”とはなにか?~今年、我が第3飛行隊は創隊20 周年という節目を迎えます。正確に言えば、師団に隷属してから20 周年であり、師団隷属以前を含めると52 周年になります。このため、飛行隊は今、創隊記念行事準備の真っ最中であり、私も実行委員の一人として多忙な毎日を送っております。その中で感じることとしては実に半世紀以上の長きに亘る飛行隊の歴史の中で、自衛隊を取り巻く環境や国民の自衛隊に対する意識が足早に移り変わっていく一方、歴代の飛行隊長をはじめとする諸先輩方の変わらぬ努力のおかげで現在の飛行隊が今、ここにこうやって存在しているのだということです。またそのことに思いを致すと先人に対する感謝の念と、その偉業を引き継ぐためには更に努力していかねばならないという決意で心が一杯になっていきます。さて、今回の随想ではこの20 周年を機に「伝統」というものについて私なりの考えを述べたいと思います。我が飛行隊はその名の通り航空機を運用して師団の全般支援を実施し、作戦部隊の任務達成に寄与することが開催支援に参加した記念として万博協会から寄贈されたパビリオンは万博記念館の愛称で親しまれ約40 年間、会議場や各種行事などで使用されてきました。今でも日露戦争の戦勝を記念し植えられた月桂樹などの樹木や昔を思い出す木造隊舎などが数多く残っていますが、昭和45 年に建てられた第3師団司令部庁舎は、耐震構造や現代のニーズに応えた建築構造へと改築されました。改築工事に伴う道路の再舗装では甲山の砕石が数多く出土し、万博記念館は取り壊され、その跡地は新庁舎の一部として生まれ変わりました。3月10 日には安全祈願が行われ、17 日は司令部庁舎運用開始行事を行いました。その後、業務に必要な器材が無事に搬入され庁舎移転も終わり新庁舎での勤務となりました。諸先輩が築き上げられた実績を継承し、現役隊員が任務を遂行しつつ、我々自身で新たな歴史を刻み、積み上げて未来に向かいたいと思います。(記事・第2部情報班)化、各種装備品の技術的進歩に伴い、教育訓練や部隊運用等の面で創意工夫と革新をこれでもかこれでもかと繰り返しながら今に至っていると私は感じます。ただこのように変化し続けているという中においても変わらないものが我が部隊には存在します。それは「航空安全」に対する意識です。「航空安全」を確保するためには決められたことや手順を堅実に守る、いわゆる基本・基礎が大切であり、それには各隊員の任務への「責任感」が最も重要であると思います。そして、その責任感第3特科隊長兼ねて姫路駐屯地司令を拝命して、早や7ヶ月。姫路城をはじめとする深い歴史と文化の薫る落ち着いた町並みの中で、協力団体は勿論のこと、地域の方々の駐屯地に対する熱い声援と深い理解に支えられ、逞しく直向な頼もしい隊員とともに勤務できることは、本当に有難いことだと思う。姫路といえば「姫路城」である。別名は「白鷺城(はくろじょう)」であり、1993年には日本で初めて、法隆寺とともに世界文化遺産に指定された美しい名城である。城北小学校という校名のように、地域の羅針盤、ランドマークであり、高校の校歌では「朝な夕なに白鷺の」と歌われ、朝夕には城の周辺を散歩をする多くの人々を見かけ、城は姫路市民に親しまれ、心の拠り所となっている。また、本年は姫路城で誕生した小寺(黒田)官兵衛の生涯を描く、大河ドラマ「軍師官兵衛」も放映され、現在行われている姫路城「平成の大修理」も完了が近づき、姫路をはじめとする播州地域は盛り上がっているところである。姫路城が現在も美しく保存されているのは、これまで、修復、保存に携わってこられた全ての方々のご努力によるものであるが、特に中村重遠大佐の功績は大きい。姫路城は、明治2年(1869年)の廃藩置県により陸軍省(当時は兵部省)に管轄が引き継がれたが、保存に巨額の費用がかかるため廃棄される運命となり、明治7年には陸軍歩兵第10 連隊の城内への設置に伴い、姫路城の櫓や門などが取り壊され、天守も取り壊されかけていた。しかし、解体のための費用も莫大にかかることから、競売にかけられ、市民の金物商の神戸清一郎氏が23 円荒 廃 していた当 時 の 姫 路 城中 村 重 遠 大 佐中 村 大 佐 顕 彰 碑の任務や航空安全の確保に対する“ 弩”がつくほどの「愚直さ」、「真面目さ」が我らの心のより処であり、我々が創隊以来、今に至るまで持ち続けている“ 伝統”であることを改めて自覚し、今後も曹士一同、その伝統を守るべく日々精進していきたいと思います。の現れである任務に対する「愚直な姿勢」や「真面目さ」こそ、この20 年間「航空安全」を確保し続けてきた我が部隊の伝統であると私は断言できます。決して華やかさはないかもしれない、競技会で常勝軍団とはいかないかもしれない、しかし、こ戦後間もない昭和27 年、千僧駐屯地が創設されて以来、駐屯地内や周辺環境は大きく変化しました。国道171号線を挟むように南北にわかれる駐屯地の北側地域には、かつて墓地と養鶏場、南側地域にも墓地と「かご池」と呼ばれた沼地がありました。周りは田畑が広がり、建物も少なく阪急伊丹駅から駐屯地にあった煙突が肉眼で見通せるほどでした。駐屯地内の道路は地質が軟弱で雨が降ると泥濘化し、車両の運行が困難だったため、当時、訓練場として使用していた西宮市甲山のふもとから隊員が砕石を運搬し、道路の舗装をしたこともあったようです。第3師団が創立された昭和37 年頃、南北駐屯地の中央を通る171号線は新西国街道とも呼ばれ、自動車の通行量は一日数十台程でした。高度経済成長による交通量の増加と昭和45 年の大阪万博の開催に伴い片側一車線から二車線に拡張され、一日約5万台が通る京都と阪神間を結ぶ主要道路となりました。大阪万博のむことができたと思う。様々な意味で中村大佐に感謝しつつ、我々も後世に、我が国の領域とすばらしい文化や財産を確実に残せるよう、微力ながら将来に向かう歴史の一場面の守りの一端を担い、勤めを果たす所存である。余談であるが、先述した大佐の顕彰碑に「大佐ハ質実剛介ニシテ信義ヲ重ジ經史ニ通ジ文武兼備ノ典型的武人ナリ」とある。同じ苗字の個人としても、目指すべき姿なのかもしれない。

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