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Guide "Anglais" - Le Puy-en-Velay

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歴 史 探 訪歴 史 探 訪観 光 案 内 事 務 所 - 2, Place du Clauzel - 43000 LE PUY-EN-VELAYTél. : 04 71 09 38 41 - Email : info@ot-lepuy<strong>en</strong>velay.fr - www.ot-lepuy<strong>en</strong>velay.fr


ピュイ アン ブレー 市 内 歴 史 探 訪ブルイユ 広 場 からブルイユ 大 通 りを 横 切り、ポルトエギエール 通 りを16 番 地 まで 下 ると、以 前 城 壁 に 使 用 された 壁 跡 が 目 に 入 ります。この壁 は13 世 紀 に 造 られ、1782 年 に 壊 されました。 現在 あるカルノ 大 通 り、サンルイ 大 通 り、ブルイユ大 通 り、マレシャルファイヨル 大 通 り、サンジャン 通 りは 以 前 の 城 壁 に 沿 っています。1 マルテューレ 広 場 (Place du Martouret)近 代 ラテン 語 の“martoretum”、つまり共 同 墓 地 と 言 う 語 に 由 来 しています。と 言 うのも、この 場 所 が 公 衆 の 処 刑 場 所 として 指 定 されていた 為 、 市 民 の 間 では“ 殉 難 者 の 広 場 ”と 言 う 様 にとらえられていきました。1794 年 6 月 8 日 、 同 じこの 広 場 で 昔 の、そして 後 のマリア 像 の 原 型 となった、 黒 いマリア 像 ( 現 存 するのは17 世 紀 の 作 成 )も焼 かれ、 壊 されました。フランス 革 命 時 代 には1793 年 3 月 30 日 以 来 、ずっとこの 広 場 にギロチン台 が 置 かれ、1795 年 1 月 までに41 名 の 処 刑 が 執 行されました。2 現 在 、 広 場 の 左 手 には、 市 庁 の 建 物 が 建 っています。この 建 物 は 飾 りのない、 地 味 な 正 面 をもつルイ15 世 様 式 で、 建 築 家 ポルタルが 設 計 し、1766 年 に 完 成 しました。 以 前 は 市 参 事 会( 現 在 の 市 会 議 員 にあたる)のあった 所 に 建 てられたもので、1653 年 、1817 年 、1964 年 と3 回 の 火 災によって 大 破 しました。4クルリ 通 り(Rue Courrerie)以 前 は 皮 革 製 造 の 店 が 並 ぶ 通 りとして 知 られていました。6 番 地 には、グロテスク 風 装 飾 ( 唐 草模 様 の 中 に 怪 奇 な 人 間 像 、 動 物 像 、 果 実 、 花 等 の形 象 を 絡 ませた 装 飾 様 式 )で 飾 られた3つのアーチがあるルネッサンス 様 式 の 家 が 通 りに 面 して 立 っています。 中 庭 と 小 塔 は1571 年 からのものです。8 番 地 の 建 物 の 正 面 は16 世 紀 のものです。5プロ 広 場 (Place du Plot)1548 年 、 市 参 事 議 会 はこの 広 場 に 晒 し 台 を 設置 し、 見 せしめとして 晒 された 大 酒 飲 み 達 は、ここを 通 る 市 民 達 の 嘲 笑 をかったと 言 うことです。“bidoire”として 知 られる 噴 水 は、ピュイ 市 の 中で 最 古 のもので、1246 年 に 設 置 されました。 噴 水 を飾 っているイルカや、 鷹 は15 世 紀 のものと 考 えられます。10 世 紀 から19 世 紀 初 頭 まで 広 場 の 東 手 には 聖ピエールdeモナスティエ 教 会 が 建 っていました。 毎土 曜 日 には、この 広 場 に、 地 元 農 産 物 の 朝 市 がたちます。この 市 で、artisonsと 呼 ばれる 微 生 物 が、いっぱい 付 いた 地 元 産 のチーズが 売 られていますが、この 微 生 物 のおかげでとても 美 味 しいチーズとなっています。ピュイアンブレー 産 のチーズは“チーズ辞 典 ”にも 載 っているくらいです。この 広 場 は、podi<strong>en</strong>sis 経 由 ( 自 然 遊 歩 道 №65)で 行 くサンチア7シャマルラン 通 り (Rue Chamarl<strong>en</strong>c)18 番 地 には、 昔 の Cornards 協 会 の 建 物 が残 っています。2つの 怪 人 面 に 注 目 して 下 さい。8シェーヌブトリ 通 り (Rue Ch<strong>en</strong>ebouterie)以 前 は 麻 繊 維 の 商 人 が 集 まっていた 通 りです。6 番 地 には、16 世 紀 には 香 辛 料 を 商 う 商 人 だった 人 の 家が 残 っています。 正 面 に 滑 稽 な、スカトロジックな(やや 卑 猥 な)彫 刻 がある 為 、“cagaire”( 滑 稽 なといった 意 味 )な 家として 知 られています。10 番 、12 番 、14 番 、そして17 番 地 の 建 物 も 大 いに 注目 するに 値 します。9 番 地の 建 物 は、1592 年 から 存 在するもので、ファイヨル 元 帥(1852~1928)の 生 家 です。 世 界第 一 次 大 戦 終 末 時 には 将 軍 として在 任 し、1917 年 にフランス 軍 を 率 いてイタリアに 遠 征 、1918 年 には 決 定 的 な 攻 撃 戦 の 中 、フランス 軍 第 一 部 隊 を 勝 利 に 導 くのに 貢 献 しました。このシェーヌブトリ 通 りから、 絵 の 様 に 美 しい 急 坂の 路 地 を 通 り、アニス 山 にそびえ 立 つ 聖 アリア 像 まで 行 く 巡 礼 は15 世 紀 以 来 ずっと 続 いています。 今 日でもこの 通 りは、 毎 年 8 月 14 日 、プロ 広 場 に 集 合 した信 者 や 巡 礼 者 達 が、 夜 8 時 45 分 に 始 める 感 動 的 な、松 明 行 列 の 出 発 地 点 となっています。9ラファエル 通 り(Rue Raphaël)3クローゼル 広 場 (Place du Clauzel)ラングドック(ラングドックル観 光 案 内 事 務 所シヨン/ 南 フランス 地 方 ) 方 言 によれば、Clauzelとは、 小 さな 中 庭 と 言 う 意 味 で、 昔 は 病 院 から 送られて 来 る 貧 困 者 の 埋 葬 墓 地 として 使 用 されていましたが、1654 年 に 廃 用 となり、 今 では 毎 週 土 曜日 の 朝 、ここに 蚤 の 市 がたちます。ゴコンポステーラ、スペイン 西 部 の 町 詣 での 発 地 点となっており、 又 、サンジル 通 りは 南 仏 ガール 県Saint Gilles 市 まで 行 く、”Regordance“ 詣 での 出 発 地 点 となっています。6パンサック 通 り (Rue Pannessac)以 前 は 穀 物 商 が 集 まっていた 通 りです。 今 日でも、15 世 紀 から18 世 紀 に 建 てられた 住 居 がかなり 残 っています。16 番 地 には、15 世 紀 建 立 の、 外にせり 出 した 塔 がフィリベール 通 りを 見 下 ろしています。以 前 は 有 産 階 級 や、 町 の 有 力 者 達 が 住 んでいた 所 です。38 番 地 には、 手 編 みレース 技 術 センターがあり、ここで 手 編 みレースについてのビデオを 見たり、 又 、18 世 紀 風 な 造 りの 展 示 場 では、アンチックレースや、 現 代 のレースが 見 られます。56 番 地 では、コリントス 式 小 円 柱 で 飾 られた 建 物 の 一 階 に、太 陽 と 月 を 表 した 怪 人 面 が 見 られます。10 ターブル 広 場 (Place des Tables)ブレマンド 家 。15~16 世 紀 の 建 造 物 。2 階 にある 窓 がゴシック 調 であるのに 対 し、3 階 、4 階 の 窓 はルネッサンス 調 になっているのがわかります。“choriste( 合 唱 隊 )”の 噴 水 。この 噴 水 は、クリスマス 時 にピュイ 市 のこの 地 域 で、 聖 歌 を 歌 った 若 い合 唱 隊 員 を 偲 んで、15 世 紀 に 献 呈 されました。1803年 までは、この 噴 水 は、 11 ファルジュ 通 り( 以 前 は 鍛 冶 屋 や、 蹄 鉄 工 が 集 まっていた 通 り)にありました。3


● ルピュイの 大 疫 病 (ペスト) (La peste au <strong>Puy</strong>)地 元 画 家 ジャンソルバンが 描 いた“le vœuxde la peste”(ペスト 撲 滅 の 為 にはどんな 事 でもしますと 言 った 誓 い)と 言 うタイトルの 絵 画 でもわかるように、1 万 人 の 犠 牲 者 が 出 ました。キリスト像 (14 世 紀 )、ピエールバノウ(1653~1694)の 手 による 木 製 彫 刻 も 是 非 ごらん 下 さい。 聖 母 被 昇 天 、聖 アンドレの 殉 教 等 の 絵 画 。 説 教 壇 、オルガンケース(17 世 紀 )。3 番 目 と、4 番 目 の 梁 間 のアーチを支 えている 丸 天 井 もお 見 逃 しなく。● リベラルアーツ (<strong>Le</strong>s Arts Libéraux)この 壁 画 は、1850 年 、“コロンバ”、そして“カルメン”の 著 者 であるプロスパーメリメによって、 聖 遺 物 の 残 る 礼 拝 堂 の 中 の、 何 層 にも 厚 く塗 装 された 外 壁 から 発 見 されました。 彼 はその 後も 政 府 の 要 請 を 受 け、 歴 史 的 建 造 物 の 調 査 に 携 わりました。この 壁 画 は15 世 紀 末 の 名 作 と 言 えます。フランダース 派 芸 術 に 大 きく 影 響 を 受 けています。又 、 文 法 、 論 法 (アリストテレス)、 修 辞 学 (キケロ)、そして 音 楽 も 影 響 を 与 えています。● 聖 具 安 置 所 (À la Sacristie)ここにはピエタ( 悲 しみの 聖 母 )とキリストの頭 部 (15 世 紀 )があります。 又 、Theodulfeの 手 による 聖 書 についての 写 真 付 き 文 書 がありますが、これはルピュイ 大 聖 堂 にとってきわめて 貴 重 な 品で、カロリンガ 王 朝 時 代 (751~987 年 間 のフランク王 朝 )からのとても 珍 しい 写 本 です。オルレアン 市のTheodulfe 司 教 (750~821)が 約 798 年 に 巡 礼 の 旅でルピュイ 市 を 訪 れた 際 、 大 聖 堂 に 寄 贈 したと 言われています。16悔 悛 者 の 礼 拝 堂(La Chapelle des Pénit<strong>en</strong>ts)この 礼 拝 堂 は、1584 年 に 改 装 されて 以 来 、ずっと 礼 拝 用 にオープンしています。すばらしい 絵 画 と、 彫刻 がある“ 小 さな 博 物 館 ”です。 中 央 に 聖 母 マリア 被 昇天 のモチーフが 付 いた、ルネッサンス 様 式 の 格 天 井 があります。 革 命 下 、 精 肉 組 合 がこの 礼 拝 堂 が 冒 涜 されるのを 守 った 事 から、 毎 年 、これを 記 念 して 聖 木 曜 日 (イースター 前 週 の 木 曜 日 )の 前 夜 、 白 衣 の 信 者 達 が 町 の 山 の手 街 でキリストの 受 難 を 再 現 して 見 せます。17回 廊 (<strong>Le</strong> Cloître)歴 史 的 建 造 物 として 指 定 され、 大 聖 堂(11~12 世 紀 )と 同 じ 時 期 に 建 てられました。ヨーロッパの 最 も 美 しい 建 造 物 のひとつです。ブレー 県 ホールは、 宗 教 芸 術 の 博 物 館 となっており、 又 教 会 参事 会 (13 世 紀 初 頭 )にはキリスト 磔 のフレスコ 画 がありますので、ご 覧 ください。 歴 史 家 でアカデミーフランセーズの 会 員 であるエミールマルは、 異 なった色 の 石 が 互 い 違 いに、 同 じスタイルで 並 べられていることから、この 回 廊 アーチがコルドバの 回 教 寺 院のアーチに 似 ていると 述 べています。18聖 ジャン 洗 礼 堂(<strong>Le</strong> Baptistère Saint-Jean)正 門 とライオンは、ロンバルディア(6 世 紀にイタリアを 征 服 したゲルマン 民 族 ) 芸 術 からのインスピレーションを 受 けています。サンジョルジュ 通 りまで 戻 り、 19 フォー 広 場 でちょっと 立 ち 止 まって 下 さい。ルピュイ 市 の 美 景 が 前方 下 に 見 えます。 右 手 には、 司 教 邸 の 正 門 と、透 かし 細 工 をほどこしたアーチのあるフォールのポーチ(12 世 紀 )、 又 、 柱 頭 や、 聖 母 マリアの聖 所 から 出 土 した 最 古 の 石 等 が 見 られます。“papale”のような( 法 王 を 連 想 させると 言 った意 味 )と 呼 ばれる 門 のタンパン( 出 入 り 口 上 部 の水 平 まぐさと、アーチが 作 る 三 角 小 間 )と、まぐさ 石 ( 入 口 、 窓 等 の 上 の 横 木 )は、 古 代 ローマ 風建 築 を 偲 ばせる 最 初 の 建 造 物 です。ルピュイの司 教 だったスクタリウスは、 後 、 列 聖 されました。 洗 礼 堂 内 には、 昔 の 異 教 徒 寺 院 から 運 ばれたまぐさ 石 があり、その 上 に 異 教 神 の 銘 があった 為 、アニス 山 で 礼 拝 がなされました。 又 、 古代 ローマ 人 に 神 として 崇 められた 皇 帝 、つまりアディドンや、アウグストスの 銘 もあります。サンジョルジュ 通 りまで 戻 り、 神 学 校 の 礼 拝 堂の 前 を 通 って 下 さい。ルピュイと、パリのサンスルピスにある 神 学 校 は、ぺブラック(オートロワール 県 内 )の 大 修 道 院 長 であったジャンジャックオリエ(1608~1657)によって 創 設 されましたが、その 背 景 には、ルピュイ 出 身 のアグネスガラン 修 道 院 長 (1602~1634)、 彼 女 は 神 秘 的 な 雰囲 気 をもったドミニカ 会 の 修 道 女 で、 神 学 校 創設 にあたっては 彼 女 の 精 神 的 支 援 が 大 いに 役 立ったと 言 われています。 彼 女 を 奉 る 寺 院 はランジャック(オートロワール 県 内 )にある、 聖 カトリーヌ 修 道 院 内 にあります。1994 年 11 月 20 日 、ローマ 法 王 ジャンポール2 世 により 列 福 ( 死 者 を天 福 を 受 けた 者 の 列 に 加 える)されました。20カルディナルde ポリニャック 通 り(Rue Cardinal de Polignac)アンマリーマルテル 学 校 の 礼 拝 堂 の 前 まで 来 ました。アンマリーマルテル(1644~1673)は、ルピュイ 生 まれ、1668 年 に“Dames de l'instruction”( 教 える 婦 人 たち)、 一 般 には“Béates”( 福 音 )と 言う 名 称 で 知 られた、 協 会 を 発 足 し、 病 人 を 助 け、 村々で 集 会 を 起 こし、 公 共 要 理 を 説 き、 手 編 みレース技 術 を 伝 播 しました。“couviges”(ラテン 語 で“cumvicinis”、 隣 人 たちと 共 に)ミーティングのおかげで、19 世 紀 中 頃 には、オートロワール 県 には、13 万 人 にものぼるレース 工 がいたと 言 われます。この 通 りの 偶 数 番 地 側 には、 山 手 街 の 中 でも 最 も 富 裕な 家 々が 並 んでいます。8 番 地 には、ポリニャック家 が1611 年 から、フランス 革 命 (1789 年 )まで 所 有 していた 大 邸 宅 があり、 中 庭 に 小 塔 があります。メルショーdeポリニャック 枢 機 卿 (ローマ 法 王 の 最 高 顧 問 。1661~1741)は、オーシュ 市 の 大 司 教 であり、 又 、ポーランド 駐 在 フランス 大 使 で、ローマとオランダに 派 遣 されていました。1713 年 、 同 枢 機 卿 は、フィリップ5 世 (ルイ14 世 の 孫 息 子 )にスペイン 王 位 継 承権 を 与 えるUtrecht 協 定 を 取 り 決 めました。 作 家 であり、 科 学 アカデミー 会 員 であり、 又 、 碑 文 、 文 芸アカデミー 会 員 である 同 枢 機 卿 は、アカデミーフランセーズの 中 で、Bossuetの 座 に 選 ばれました。21ロシュタイヤド 通 り (Rue Rochetaillade)岩 山 を 切 り 開 いて 造 られた 通 りです。7 番 地 に 見られる 建 物 は、ロマネスク 様 式 の 正 面 を 持 った、ルピュイ 市 内 で 一 番 旧 い 建 物 です(13 世 紀 )。ブイヨン 通 り (RUE DU BOUILLON)この 通 りの 名 前 は、 聖 ジャンフランソワレジスがルピュイ 市 で 慈 善 団 体 を 発 足 させ、 貧 困 者 救 済 を 目 的として、 彼 らに 食 事 を 施 した 事 から 来 ています。 今日 では、エマウス 協 会 が 夜 間 、 不 定 住 居 者 を 世 話 しています。22プラトリエール 広 場(Place de la Platrière)もとは 石 膏 採 石 場 でした。ここでは、 作家 ジュールバレスの 生 家 跡 や、1652 年 から1655年 にかけて 建 てられた、 昔 のvisitation 礼 拝 堂 ( 聖母 マリアご 訪 問 を 奉 っている)が 見 られます。この広 場 は、 又 、Jehu 党 員 達 が、 革 命 の 終 わりに 裁 判を 受 けた 所 です。Jehu 党 は1795 年 の1 月 から6 月 まで、リヨン 地 方 でジャコバン 党 員 狩 りを 実 行 しました。Jehu 党 員 の114 名 が 告 発 され、111 名 が 放 免となり、3 名 は1799 年 3 月 、 死 刑 の 宣 告 を 受 けましたが、 判 決 はまったく 実 施 されず、 被 告 人 達 は 地元 住 民 達 の 手 引 きで 脱 出 しました。5


Jules Valles ジュルバレス(1832~1885)は1871 年 、パリ 革 命 政 府 の 一 員 でした。 彼 はパリのペーラシェーズ 墓 地 で 最 後 のコミューン 派 が 銃 殺 された、“mur des fédérés”( 連 盟 兵 の 壁 ) 処 刑 から 無 事のがれ、ロンドンに 逃 亡 しました。1883 年 、 大 赦 を 受 け、パリに 戻 った 後 、“ 人 民 の声 ”という 新 聞 を 再 発 行 し、 自 叙 伝 三 部 作 “ジャックヴァントラス”( 幼 少 時 代 、 学 生 時 代 、 反 徒 時代 )を 完 成 させました。23ピエールカルディナルセンター(C<strong>en</strong>tre Pierre Cardinal)ジュルバレス 通 り(Rue Jules Vallès)ここの 建 造 物 は 驚 くほど 良 く 再 建 されています。 今 日 では 地 元 団 体 の 会 合 場 所 、カルチャーセンター、 会 議 センター、そしてユースホステル 等 が集 中 しています。18 世 紀 に 聖 母 マリア 修 道 会 の 建 物だったものは、1792 年 革 命 下 、 兵 舎 として 使 用 され、1820 年 から1851 年 までは 博 物 館 となりました。 同 建物 は;ムートンデュベルネと 名 付 けられ、1920 年 から1976 年 までは 学 校 として 使 われました。ムートンデュベルネ 将 軍 は、1770 年 ルピュイ 市 生 まれ、ナポレオン1 世 がエルバ 島 (イタリアの 小 島 。1814 年 ~1815 年 、ナポレオン1 世 が 流 された 所 )からフランスに 舞 い 戻 ることに 加 担 したとして、1816 年 、リヨンで 銃 殺 されました。 吟 遊 詩 人 のピエールカルディナル(1180~1278)はオック 語 (ラングドック、 南 フランスの 旧 地 方 名 ) 使 用 の 文 学 者 の 中 で 、すぐれた才 能 を 発 揮 した 文 学 者 の 一 人 です。 彼 は 批 判 的 なシルヴァント( 中 世 南 仏 の 風 刺 詩 )を 書 いた 事 で 有 名です。100 歳 近 くまで 長 生 きしました。24サンクレール 修 道 院(<strong>Le</strong> Monastère Sainte- Claire)この 修 道 院 は、 聖 フランソワ( 聖 クララ 会 )の宗 教 儀 式 を 本 来 の 姿 に 戻 した、コルビーの 聖 コレット(1381~1447)と、クローディアdeルシヨン(ポリニュアックの 子 爵 夫 人 )によって 創 設 されました。 礼 拝 堂 は 一 般 公 開 されています。 修 道 院 の高 い 壁 からは、 25 “pouzarot”(“puit de laroche” 岩 井 戸 の 指 小 辞 )として 知 られる、 絵 のように 美 しい 近 辺 界 隈 が 見 下 ろせます。ここはルピュイ 市 内 で 最 も 旧 い 区 域 のひとつです。 最 近 修 復工 事 がなされ、 独 特 な 風 格 を 保 持 しています。26学 寮 教 会 (L’Église du Collège)以 前 はイエズス 会 の 学 校 の 礼 拝 堂 で、1605 年 、イエズス 会 の 建 築 家 である、マルテランジュによって 建 てられました。バロック 建 築 の 美 しい 一 例で、フランスにおけるイエズス 会 の 最 初 の 教 会 です。 聖 歌 隊 席 には、 美 しい 装 飾 付 き 衝 立 が、 又 、 横に4つ 並 んだ 礼 拝 堂 や、 洗 礼 堂 もあります。 地 元アーティスト 達 が 古 来 ずっと、この 教 会 の 美 しさを 維 持 する 努 力 をして 来 ました。画 家 、ギィーフランソワは 聖 歌 隊 席 と、2つの礼 拝 堂 の 絵 画 の 責 任 者彫 刻 家 、ピエールバノウ(1653 年 ~1694)は説 教 壇 の 装 飾 責 任 者イエズス 会 神 父 、アンドレベスケは 聖 ジャンフランソワレジス 像 の 責 任 者 (1928 年 )彫 刻 家 、フィリップケップリンは、 近 代 的 な祭 壇 の 責 任 者 (1984 年 )St Jean François Regis 聖 ジャンフランソワレジス1640 年 、トュルーズ 議 会 は、レース 製 造 量 制 限 の為 に、レース 着 用 を 禁 止 すると 言 うルイ13 世 からの 布 告 を 受 けました。 当 時 レース 手 工 者 の 数 がかなり 増 えており、 女 性 の 召 使 が 払 底 していたからです。ブレー 地 方 や、ビバレー 地 方 で 伝 道 していたジャンフランソワレジスは、レース 手 工 者 の 行く 末 に 無 関 心 でいられず、 王 の 布 告 は 取 り 消 されるであろうと 予 言 して、レース 手 工 者 をなだめました。 彼 は 更 にイエズス 会 の 宣 教 者 達 に、 伝 道 の旅 に 出 た 際 、ルピュイ 産 のレースを 宣 伝 してくれるよう 頼 んでいました。 海 外 で 評 判 になる 事 を 疑っていなかったのです。 彼 は 未 だレース 手 工 業 者には 尊 ばれており、1737 年 、 聖 人 の 列 に 加 えられると、 彼 らにとっての 聖 なる 保 護 者 となりました。今 日 では、 彼 の 苗 字 “Régis”はキリスト 教 のファーストネームとして 使 われています。 学 寮 教 会 はルピュイ 市 からLouvescまでの 遊 歩 道 、“sur lespas de St Régis”( 聖 レジスの 道 )の 出 発 地 点となっています。を 引 き 渡 してくれるよう、 懇 願 しました。その 目的 は、ルピュイ 教 区 が 以 前から 願 っていた、 大 聖 堂 へ奉 納 する 聖 母 像 を 作 る 為 でした。ジャンマリーボナシューの 手 による 彫 刻 で、セバストポールから 捕 獲 した213の大 砲 を 溶 かし、その 鋳 鉄 で造 られており、1860 年 9 月 12 日 、12 万 の 信 者 を 前 に 公 開 されました。 高 さ16メートル( 台 座 も 入 れると22、7メートル)、 重 量 835トン( 像 は110トン、 石 製台 座 は680トン、 鉄 製塗 料 が45トン)。28エギィエ、 岩 山 と 聖 ミカエル 礼 拝 堂(Aiguilhe, le Rocheret la Chapelle Saint-Michel)高 さ82メートルあるエギィエ 岩 山 は、19 世 紀には“dyke”( 岩 脈 )と 呼 ばれていた、 休 火 山 の噴 気 孔 です。 頂 上 に 立 つ 礼 拝 堂 は、10 世 紀 までさかのぼります。 始 めは 聖 ミカエルに 奉 献 され、 後 、サンチアゴコンポステーラ 巡 礼 に 出 た、 初 のフランス 人 であるGothescalk 司 教 のアドバイスを 受 け、10 世 紀 に 岩 山 頂 上 に 建 立 されました。1955 年 、 祭壇 改 修 工 事 が 行 われた 際 、いろいろな 遺 物 が 発 見され、その 中 でも、キリストをモチーフした、オリーブ 木 製 の 聖 遺 物 箱 (10 世 紀 )はすばらしいものです。 最 近 、 礼 拝 堂 の 壁 洗 浄 が 行 われ、 一 連 のフレスコ 画 が 発 見 されました。627フランスの 聖 母 マリア 像(Statue Notre-Dame de France)1855 年 9 月 8 日 、 聖 母 マリアの 誕 生 祭 の 折 、ペリシェ 将 軍 がセバストポールの 攻 囲 戦 で、クリミヤ 戦 争 に 勝 利 しました。その 勝 利 に 感謝 して、ペリシェ 将 軍 はモルロン 大 司 教 を 通し、ナポレオン3 世 に、 敵 から 奪 い 取 った 大 砲


28続 エギィエ、 聖 クレール 礼 拝 堂(Aiguilhe, la chapelle Saint-Clair)エギィエ 岩 山 に 近 接 している 同 礼 拝 堂 は、12 世 紀 に 建 立 されました。17 世 紀 に 入 り、 聖 クレールに 奉 献 され、1887 年 には 歴 史 的 建 造 物 に 格 付けされました。 建 立 当 初 から、この 礼 拝 堂 は 大 聖堂 に 巡 礼 にやって 来 た 信 者 達 を 収 容 していた、 聖ニコラ 病 院 と 何 らかのつながりがありました。 長い 間 、この 礼 拝 堂 は 何 の 為 の 礼 拝 堂 なのか、よく議 論 され、 今 でも“Temple de Diane”(ダイアナの 寺 院 )と 呼 ばれる 事 もしばしばです。 礼 拝 用 の調 度 は、 彫 刻 家 ドミニクカップリンの 作 品 です。太 陽 と 月 の 装 飾 のあるまぐさ 石 や、ダイヤカットされたモザイク 付 きの、れっきょう(アーケイドのようなもの)に 注 目 下 さい。29クロザティエ 美 術 館(<strong>Le</strong> Musée Crozatier)アンリヴィネ 公 園 (その 地 形 から“ 蹄 鉄 ”と呼 ばれている”) 内 にあります。この 美 術 館 は、19 世 紀 中 頃 、 建 築 家 アントワンマルタンにより 建造 されました。それには、パリのアーティスト 達の 為 に 石 膏 模 型 像 を 造 っていた、シャルルクロザティエ(1795~1855)からの 財 産 寄 与 が 大 いに 役立 ちました。5つのギャラリーに 多 様 な 美 術 品 が 展 示 されています :一 階 には、19 世 紀 に 発 掘 されたガロ、ロマン 時 代の 遺 跡 物 が 陳 列 されています。もっとも 目 を 引 くのは、 大 聖 堂 の 周 辺 から 発 掘 されたものや、 旧 家跡 からの 出 土 品 です。 石 類 や、 彫 刻 は 主 に 中 世 のものが 占 めており、 特 にロマネスク 様 式 の 彫 刻 は豊 富 にそろえてあります。これらロマネスク 様 式の 彫 刻 の 殆 どが 大 聖 堂 、 又 、19 世 紀 に 破 壊 された宗 教 的 建 造 物 や、 一 般 市 民 の 住 居 跡 から 出 土 しています。 小 さい 彫 刻 品 や、エナメル 細 工 も 含 め、中 世 及 びルネッサンス 時 代 の 高 度 な 美 術 品 が 出 品されています。 科 学 技 術 に 関 するコレクションは、パリのエンジニア、アレクサンドルクレールからの 寄 贈 によるもので、 彼 は 第 2 次 フランス 帝 国 下 、縮 尺 模 型 の 教 材 作 りに 秀 でていました。 時 計 のしくみや、 又 、1877 年 、ルピュイのエミールレノーが 発 明 した、“proxinoscope”(プラクシノスコープ)を 使 っての 元 祖 アニメーションコレクションを 見 るのも 楽 しいものです。 二 階 では、ルピュイ、ブレー 地 方 の 職 人 技 能 に 関 するコレクションが 中 心 となっており、 青 銅 工 芸 、ガラス 製 造 、 印刷 技 術 、 修 道 院 内 でのルーティンワーク、そして勿 論 、 手 編 みレース 工 芸 に 関 するコレクションが見 られます。 三 階 には、 名 品 絵 画 が 展 示 されており、16 世 紀 から18 世 紀 にかけての 北 欧 派 絵 画 が 有名 です。フランソワ 兄 弟 や、17 世 紀 に 活 躍 した 地元 画 家 達 の 作 品 が 一 室 特 別 に 与 えられ、 出 品 されています。19 世 紀 の 絵 画 は、 地 理 的 にとらえられた 風 景 画 や、フランス 国 から 贈 られた 大 型 絵 画 に代 表 されます。 四 階 には、 動 物 学 、 鉱 物 学 、そして 地 質 学 といった 自 然 科 学 に 関 する、 主 に19 世 紀のものを 中 心 としたコレクションがあります。 古生 物 学 のコレクションでは、オートロワール 県 から 出 土 した 化 石 が 見 られます。30パンサック 塔 (Tour Pannessac)以 前 は 街 (14 世 紀 )の 入 り 口 に 立 つ 王 家 の 玄関 口 でしたが、1850 年 、 街 中 に 続 く 通 路 を 広 げる工 事 の 為 、 一 部 取 り 壊 されました。 現 在 、 取 り 壊された 所 は、 石 で 舗 装 されています。 過 去 、シャルルマーニュ 大 帝 、そして13 人 のフランス 王 達 がルピュイまでの 巡 礼 を 実 行 しました。1254 年 、ルイ9 世 は 十 字 軍 遠 征 から 戻 ると、ルピュイの 町 に 対し、 今 までの 町 の 紋 章 ( 銀 色 で 描 かれた 鷹 )に、青 色 下 地 の 上 に 金 色 のいちはつ 形 の 紋 章 を 加 える事 を 許 可 、こうして 今 日 見 られる 町 の 紋 章 が 完 成しました。 最 後 にルピュイに 巡 礼 に 来 た 王 は、1533年 のフランシス1 世 で、1525 年 、パヴィアの 戦 いに 負 けた 後 、カール5 世 の 捕 虜 となって、マドリッドに 幽 閉 されていました。その 時 誓 いをたてましたが、その 誓 いを果 たす 為に 来 たものでした。30続 ラファイエット 将 軍 像(Statue du Général Lafayette)ラファイエット 将 軍 (1757~1834)。 彼 はシャヴイニャック 城 生 まれ、アメリカ 独 立 戦 争 の 英雄 で、フランス 革 命 の 大 立 者 でした。31聖 ローラン 教 会(Église Saint-Laur<strong>en</strong>t)1221 年 来 、この 教 会 は 聖 ドミニク(1170~1221)によって 創 設 された、ドミニク 会 の 支 配 下 にありました。 聖 ドミニクはおそらく 亡 くなる 間 際 にルピュイに 来 たと 思 われます。 聖 歌 隊 席 の 右 手 には、ベルトランdeゲスリン 元 帥 の 横 臥 肖 像 画 があります。 彼 は、1380 年 7 月 13 日 、シャトーヌフdeランドンの 攻 囲 戦 で 亡 くなりました。 彼 の 体 はルピュイ 市 でミイラ 化 され、 彼 の 内 臓 は 聖 ローラン 教 会に 埋 葬 されました。この 教 会 は、14 世 紀 に 拡 張 工事 がなされ、ルピュイ 地 方 の 中 でも、ゴシック 建築 の 貴 重 な 一 例 となっています。1525 年 、 屋 根 がつぶれ、 美 しい 塔 は1526 年 、ユグノー 達 ( 旧 教 徒が 新 教 徒 を 卑 しめて 呼 んだ 呼 び 名 )によって 壊 され、 屋 根 は 再 度 1644 年 につぶれました。1750 年 、建 物 の 外 側 に 控 え 壁 が 加 えられました。1966 年 、建 物 に 隙 間 が 開 かないように、 柱 と 柱 の 間 にケーブルを 引 きました。1971 年 8 月 24 日 、 一 般 公 開 をストップしました:建 物 強 化 や、 修 理 工 事 には 長 い 年 月 がかかるからです。 再 オープンしたのは、1988 年 のクリスマス礼 拝 の 時 だけです。 外 観 の 美 しさに 加 え、 完 璧 に修 復 された19 世 紀 製 造 のステンドグラス、 最 近 出来 た 建 造 物 ( 聖 サクラメント 礼 拝 堂 や、 正 面 のばらのモチーフ 窓 )、そして 美 しい 指 物 細 工 ( 説 教壇 、 聖 職 者 席 など)もお 気 に 召 す 事 と 思 います。かのすばらしい“doubting St Thomas”( 不 安 なトーマス)も 含 めた、ギィーフランソワの 絵 画 や、教 会 の 隅 から 隅 まで 敷 かれている、 奇 抜 な 舗 装 も見 逃 せません。7


徒 歩 による 観 光 コース普 通 一 般 コース所 要 時 間 :2 時 間欲 張 りコース所 要 時 間 :3 時 間夜 間 コース所 要 時 間 :2 時 間Docum<strong>en</strong>t édité par l’Office de Tourisme de l’Agglomération du <strong>Puy</strong>-<strong>en</strong>-<strong>Velay</strong> - 12/07 - Photos : Office de Tourisme - Musée Crozatier - G. Cavaillès - L. Olivier - B. Galland

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