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日米中関係と日本の戦略 日米中関係と日本の戦略 - The Stimson Center

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村 田 晃 嗣 ⏐ 135<br />

6<br />

日 米 中 関 係 と 日 本 の 戦 略<br />

村 田 晃 嗣<br />

はじめに<br />

冷 戦 の 終 焉 以 来 10 年 あまりの 間 に、 日 本 の 外 交 と 安 全 保 障 政 策<br />

(これを 戦 略 と 総 称 しよう)は 四 つの 試 練 に 直 面 してきた。 第 一 は、 冷<br />

戦 の 終 焉 それ 自 体 であり、これによって 日 本 はそれ 以 前 よりもはるかに<br />

複 雑 な 国 際 環 境 に 置 かれることになった。 第 二 は、 巨 大 な 隣 人 ・ 中 国 の<br />

急 速 な 経 済 成 長 と 軍 事 近 代 化 路 線 、そして 米 中 関 係 の 度 重 なる 摩 擦 であ<br />

る。 日 本 は 一 方 で 日 米 同 盟 の 強 化 が 中 国 を 刺 激 することを 危 惧 しながら、<br />

他 方 で 中 国 の 大 国 化 をも 憂 慮 しなければならなくなった。 第 三 は、「 失<br />

われた10 年 」と 称 せられる 日 本 の 長 期 的 な 経 済 的 混 迷 である。これに<br />

高 齢 化 社 会 の 到 来 や 社 会 秩 序 の 弛 緩 をも 考 慮 に 入 れる 時 、 日 本 人 は 日 本<br />

の 将 来 についてなにほどか 悲 観 的 にならざるをえない。 新 冷 戦 たけなわ<br />

の1980 年 代 とは 隔 世 の 感 がある。そして 第 四 は、 去 る9 月 11 日 に<br />

アメリカを(そして 文 明 社 会 全 体 を) 襲 った 同 時 多 発 テロである 1 。この 事<br />

件 を 受 けて、21 世 紀 の 安 全 保 障 の 概 念 は 大 幅 に 修 正 を 迫 られつつあるし、<br />

のちに 触 れるように、 日 米 同 盟 のありかたも 変 容 を 余 儀 なくされている。<br />

このような 試 練 に 直 面 しながら、 日 本 の 安 全 保 障 戦 略 はどのような<br />

変 遷 を 遂 げてきたのか。また、 日 本 は 日 米 中 関 係 にどのようなスタンス<br />

をとろうとしてきたのか。そして、それらはどう 評 価 されるべきなのか。<br />

こうした 問 いに 答 えることが、 本 稿 の 第 一 の 課 題 である。 本 稿 の 第 二 の<br />

課 題 は、この 間 に 生 じた 日 本 の 外 交 ・ 安 全 保 障 政 策 の 決 定 過 程 の 変 化 を<br />

考 察 することである。さらに、 以 上 の 作 業 を 経 て、 今 後 の 日 米 中 関 係 の<br />

中 での 日 本 のあるべき 戦 略 について、 若 干 の 政 策 提 言 をも 試 みたい。<br />

1<br />

同 時 多 発 テロについては、 筆 者 も 日 本 のメディアで 何 度 か 発 言 してきた。 例 えば、『 読 売 新 聞 』<br />

2001 年 9 月 、11 月 2 日 、『 朝 日 新 聞 』2001 年 9 月 21 日 、『 世 界 週 報 』2001 年 号 を 参 照 。<br />

また、 日 本 の 代 表 的 知 識 人 による 文 明 論 的 考 察 としては、 山 崎 正 和 「テロリズムは 犯 罪 でしかない」『 中<br />

央 公 論 』2001 年 11 月 号 、 五 百 旗 頭 真 「 狂 気 と 破 壊 を 超 えて」『 論 座 』2001 年 12 月 号 を 参 照 。


136 ⏐ 日 米 中 関 係 と 日 本 の 戦 略<br />

日 本 の 安 全 保 障 戦 略 ―— 冷 戦 後 の 史 的 変 遷<br />

1990—1991 年 の 湾 岸 危 機 ・ 戦 争 は、 日 本 にとってきわめて<br />

苦 い 経 験 となった。130 億 ドルという 大 金 を 拠 出 しながら、 日 本 はク<br />

ウェートからもアメリカからも 感 謝 されることはなかったのである。<br />

「 戦 争 か 平 和 か、 軍 国 主 義 復 活 か 民 主 主 義 か、 侵 略 か 自 衛 かといった、<br />

激 しくはあったが 観 念 的 な1950 年 代 の 二 分 法 の 議 論 に 国 民 の 安 全 保<br />

障 認 識 はとどまっていた」と、 五 百 旗 頭 真 は 言 う。 そこには 国 際 安 全<br />

保 障 という 認 識 が 欠 落 していた 2 。<br />

当 時 、 自 由 民 主 党 幹 事 長 を 務 めた 小 沢 一 郎 は、 興 味 深 いエピソード<br />

を 紹 介 している。 自 衛 隊 の 幹 部 が 米 軍 の 将 校 に 会 った 際 、「 日 本 は 多 国<br />

籍 軍 に 参 加 できなかったが、その 代 わりに 国 民 一 人 当 たり100ドルの<br />

資 金 援 助 をした」と 語 ったところ、 米 軍 将 校 は 財 布 から100ドル 札 を<br />

出 して「 君 にやるから、 俺 の 代 わりに 戦 ってくれ」と 答 えたという 3 。<br />

冷 戦 の 勝 者 かとも 思 われた 日 本 は、 冷 戦 後 の 安 全 保 障 戦 略 の 緒 戦 で、ま<br />

ずは 屈 辱 的 な 敗 北 を 喫 したのである。<br />

こうした 重 要 な 時 期 に、 総 理 大 臣 が 海 部 俊 樹 だったことも、 不 幸 で<br />

あった。 海 部 は 自 民 党 最 小 派 閥 の 河 本 派 に 属 し、 前 任 者 の 宇 野 宗 佑 の 失<br />

脚 で 暫 定 的 に 首 相 に 担 がれた 人 物 であった。クリーンなイメージから 国<br />

民 の 支 持 は 比 較 的 高 かったが、 派 閥 の 領 袖 でもない 上 に、ハト 派 と 目 さ<br />

れており、 安 全 保 障 ・ 外 交 問 題 の 知 見 には 乏 しかった。それでも、 海 部<br />

内 閣 は 天 安 門 事 件 以 降 国 際 的 に 孤 立 した 中 国 に 対 して、1990 年 の ヒ<br />

ューストン・サミットで 新 規 の 円 借 款 交 渉 に 入 ることを 表 明 した。 また、<br />

翌 年 夏 には、 海 部 は 先 進 国 の 首 脳 の 中 では 天 安 門 事 件 以 来 初 めての 訪 中<br />

を 果 たした。 人 権 問 題 に 関 して、アメリカやヨーロッパが 中 国 に 原 理 主<br />

義 的 になりがちであるのに 対 して、 日 本 は 地 理 的 ・ 文 化 的 近 接 性 からよ<br />

り 柔 軟 に 対 応 しようとしたのである。ハト 派 の 首 相 にとっても 意 に 沿 っ<br />

た 外 交 であった。この 対 中 関 与 政 策 は 海 部 内 閣 の 成 果 であり、 アメリカ<br />

の 対 中 政 策 の 補 完 ともなった。だが、 日 米 関 係 が 傷 ついたままでは、 日 米<br />

中 関 係 をトータルに 把 握 する 戦 略 を 確 立 することはできなかった。<br />

湾 岸 戦 争 で 国 際 的 な 評 価 を 落 とした 日 本 は、1996 年 6 月 に 宮 沢<br />

喜 一 内 閣 の 下 で、 湾 岸 危 機 以 来 の 懸 案 であった 国 連 平 和 維 持 協 力<br />

2<br />

五 百 旗 頭 真 編 『 戦 後 日 本 外 交 史 』( 有 斐 閣 、1999 年 ) 。<br />

3<br />

小 森 泰 一 郎 構 成 『 小 沢 一 郎 語 る』( 文 藝 春 秋 社 、1996 年 )、51―52ページ。


村 田 晃 嗣 ⏐ 137<br />

(PKO) 法 の 成 立 に 成 功 した。9 月 には 自 衛 隊 の 第 一 陣 がカンボジア<br />

でのPKO 参 加 に 向 かった。アジアの 大 国 日 本 としては、カンボジアで<br />

のPKO 参 加 の 機 会 を 逸 するのは 致 命 的 であった。こうして、 日 本 は 初<br />

めて 国 際 安 全 保 障 の 分 野 に 一 歩 を 踏 み 出 したのである。しかし、この 法<br />

律 では、 公 明 党 の 反 対 でPKOの 本 隊 業 務 への 参 加 が 凍 結 された 上 、 自<br />

衛 隊 の 武 器 使 用 にも 過 度 に 厳 しい 制 約 が 課 された。これらの 見 直 しは 目<br />

下 の 政 治 課 題 となっている。 安 全 保 障 政 策 の 範 囲 や 機 能 を 拡 大 する 時 に、<br />

予 め「 歯 止 め」を 設 定 するのが、 戦 後 日 本 の 一 貫 した 政 策 パターンである 4 。<br />

このPKO 法 成 立 の 背 景 にも、 日 中 関 係 が 影 響 を 及 ぼしている。 既<br />

述 のように、 天 安 門 事 件 以 降 、 日 本 は 先 進 国 の 中 で 最 も 積 極 的 に 中 国 の<br />

国 際 社 会 復 帰 を 促 してきた。 中 国 としても、 対 日 関 係 の 正 常 化 が 重 要 な<br />

外 交 課 題 であった。そうした 中 で、1992 年 が 日 中 国 交 正 常 化 20 周<br />

年 に 当 たることから、 中 国 政 府 は 天 皇 の 訪 中 をくり 返 し 求 めていたので<br />

ある。ところが、 日 本 国 内 には、 天 皇 訪 中 を 機 に 戦 争 責 任 問 題 が 再 び 噴<br />

出 して、 天 皇 が 政 争 の 具 に 用 いられるのではないかとの 危 惧 感 が 強 かっ<br />

た。こうした 事 情 から、 中 国 はPKO 法 の 成 立 に 抑 制 的 な 態 度 をとらざ<br />

るをえなかったのである 5 。1992 年 10 月 には、 歴 史 的 な 天 皇 訪 中 が 実<br />

現 し、 天 皇 は 日 本 が 中 国 に 対 して 過 去 に「 多 大 な 苦 難 を 与 えた」ことを 認 め、<br />

「 私 の 深 く 悲 しみとするところであります」という「お 言 葉 」を 伝 えた。<br />

1993 年 8 月 には、 非 自 民 連 立 政 権 が 成 立 し、 細 川 護 熙 が 首 相 に<br />

就 任 した。38 年 ぶりの 非 自 民 党 政 権 であり、 内 閣 支 持 率 は70パーセ<br />

ントを 超 えていた。 翌 年 3 月 に 細 川 は 訪 中 し、「われわれは 過 去 におい<br />

てわが 国 の 侵 略 行 為 と 植 民 地 支 配 がアジア 諸 国 人 民 に 耐 えがたい 苦 難 を<br />

もたらしたことに 対 して 深 い 反 省 とおわびを 表 明 する」という 歴 史 認 識<br />

を 語 った。 中 国 はこれを 高 く 評 価 した。<br />

ところが、ここにも 逆 説 があった。 非 自 民 党 政 権 を 率 いるリベラル<br />

派 の 細 川 首 相 は、 冷 戦 の 終 焉 を 受 けて、 日 本 の 防 衛 政 策 を 見 直 すべきだ<br />

と 考 えていた。そこで1994 年 2 月 に、 彼 は1976 年 に 策 定 されて<br />

いた「 防 衛 計 画 の 大 綱 」を 改 定 すべく、 私 的 諮 問 機 関 として「 防 衛 問 題<br />

懇 談 会 」を 発 足 させた。 座 長 は 樋 口 広 太 郎 (アサヒビール 会 長 = 当 時 )、<br />

他 の 主 要 なメンバーには 西 広 整 輝 ( 元 防 衛 事 務 次 官 )や 渡 辺 昭 夫 ( 青 山<br />

4 Joseph P. Keddell, Jr., <strong>The</strong> Politics of Defense in Japan: Managing Internal and External Pressures (NY:<br />

M.E. Sharpe, 1993), chapter 1.<br />

5<br />

田 中 明 彦 「 日 中 政 治 関 係 」 岡 部 達 味 編 『 中 国 をめぐる 国 際 環 境 』( 岩 波 書 店 、2001 年 )、<br />

70―71ページ。


138 ⏐ 日 米 中 関 係 と 日 本 の 戦 略<br />

学 院 大 学 教 授 = 当 時 )らがいた。だが、この 通 称 「 樋 口 委 員 会 」の 活 動<br />

と 報 告 は、 細 川 の 意 図 とは 異 なり、 日 米 安 保 再 定 義 へと 連 動 していく。<br />

「 樋 口 委 員 会 」の 報 告 書 、「 日 本 の 安 全 保 障 と 防 衛 力 のありかた―<br />

―21 世 紀 に 向 けての 展 望 」が 発 表 されたのは、1994 年 8 月 12 日<br />

であった。 首 相 のイニシアチブで 安 全 保 障 の 見 直 し 論 が 進 んだことから、<br />

世 論 の 関 心 は 高 かった。だが、その 内 容 には 防 衛 庁 の 意 向 が 強 く 反 映 さ<br />

れており、 細 川 は 期 待 を 裏 切 られたと 感 じたという 6 。<br />

因 みに、 細 川 は4 月 にすでに 辞 任 しており、 政 権 は 羽 田 孜 から 社 会 党 委<br />

員 長 の 村 山 富 市 へと 移 っていた。この 報 告 書 は、 国 連 平 和 維 持 軍 (PKF)<br />

への 積 極 参 加 を 提 唱 し、 東 アジアでの 多 角 的 安 全 保 障 を 重 視 していた。<br />

リベラル 派 の 首 相 が 提 唱 して 始 まった 委 員 会 が、 社 会 党 委 員 長 を 首<br />

班 とする 内 閣 で 報 告 書 をまとめ、 防 衛 力 の 合 理 化 や 東 アジアでの 多 角 的<br />

安 保 を 提 言 したことは、ワシントンの 日 米 安 保 専 門 家 に 動 揺 をもたらし<br />

た。 日 本 の 日 米 同 盟 関 係 軽 視 の 現 われではないかというわけである。そ<br />

れでなくとも、クリントン 政 権 下 で 日 米 同 盟 関 係 が 漂 流 しているという<br />

のが、 専 門 家 の 共 通 認 識 だったからである。しかも、「 樋 口 委 員 会 」が<br />

作 業 を 続 ける 中 で、1994 年 6 月 には 北 朝 鮮 の 核 開 発 疑 惑 が 頂 点 に 達<br />

し、アメリカは 大 規 模 軍 事 行 動 すら 想 定 していた。ところが、 日 本 側 に<br />

は 朝 鮮 半 島 有 事 の 際 の 対 米 協 力 のための 法 的 準 備 は、ほとんどできてい<br />

なかったのである( 幸 い、この 危 機 は 同 月 16 日 のジミー・カーター 元<br />

米 大 統 領 の 訪 朝 によって、とりあえず 終 息 した)。<br />

さて、こうした 中 で、パトリック・クローニンとマイケル・グリー<br />

ンという 若 い 二 人 の 安 全 保 障 専 門 家 が、 米 国 防 大 学 から『 米 日 同 盟 再 定<br />

義 』という 報 告 書 を 発 表 した。この 中 で 二 人 は、1976 年 10 月 に 策<br />

定 された「 防 衛 計 画 の 大 綱 」と1978 年 11 月 に 策 定 された「 日 米 防<br />

衛 協 力 のための 指 針 」(ガイドライン)を 改 定 し、 日 米 同 盟 を 強 化 すべ<br />

きだと 謳 っていた 7 。 彼 らを 支 えたのが、 国 家 情 報 会 議 ( 東 アジア 担<br />

当 )のエズラ・ボーゲルであり、やがて、これにボーゲルの 旧 友 ジョゼ<br />

フ・ナイ 国 防 次 官 補 が 加 わって、 彼 らの 構 想 はアメリカ 政 府 の 政 策 に 反<br />

映 されていく。<br />

6<br />

船 橋 洋 一 『 同 盟 漂 流 』( 岩 波 書 店 、1997 年 )、264ページ。<br />

7 Patrick M. Cronin and Michael J. Green, Redefining the U.S.-Japan Alliance: Tokyo’s National Defense<br />

Program (Washington, DC: National Defense University, 1994).


村 田 晃 嗣 ⏐ 139<br />

ナイの 下 で、 国 防 省 は1995 年 2 月 に「 東 アジア 戦 略 報 告 」(ナ<br />

イ・レポート)をまとめた。この 報 告 書 は、 安 全 保 障 を「 空 気 のような<br />

ものだ」と 表 現 し、アジア 太 平 洋 の 安 全 保 障 のために 日 米 二 国 間 同 盟 関<br />

係 の 強 化 を 唱 え、アメリカがこの 地 域 で10 万 人 のプレゼンスを 維 持 す<br />

ることも 明 記 した 8 。<br />

今 度 は 日 本 側 が 回 答 する 番 であった。 実 は、 中 期 防 衛 力 整 備 計 画 が<br />

1995 年 度 に 終 了 することもあって、 防 衛 庁 はかねてから「 防 衛 計 画<br />

の 大 綱 」の 改 定 を 意 図 していた。1995 年 11 月 28 日 に 策 定 された<br />

新 しい「 防 衛 計 画 の 大 綱 」は、 日 米 同 盟 の 積 極 的 価 値 を 強 調 して、「 日<br />

米 安 全 保 障 体 制 」という 表 現 を13 回 も 用 いている( 旧 「 大 綱 」ではわ<br />

ずか1 回 )。しかも、この 新 「 大 綱 」では「 我 が 国 周 辺 地 域 において 我<br />

が 国 の 平 和 と 安 全 に 重 要 な 影 響 を 与 えるような 事 態 」には「 日 米 安 全 保<br />

障 体 制 の 円 滑 かつ 効 果 的 な 運 用 を 図 る」とされており、これが 続 くガイ<br />

ドラインの 改 定 の 伏 線 になっているのである。「 大 綱 」の 改 定 も、 村 山<br />

内 閣 下 であった。アメリカ 側 の 危 惧 とは 逆 に、 社 会 党 が 与 党 になったこ<br />

とで、 左 派 勢 力 の 批 判 が 抑 えられ、 日 米 同 盟 強 化 のプロセスに 弾 みがつ<br />

いたのである(もとより、ワシントンの 日 本 専 門 家 たちが「 樋 口 委 員<br />

会 」 報 告 に 示 した 過 剰 な 反 応 には、クリントン 政 権 の 上 層 部 に 日 米 同 盟<br />

関 係 の 重 要 性 を 認 識 させるという 政 治 的 意 図 も 働 いていたであろう)。<br />

ところが、 間 もなく 日 米 同 盟 に 激 震 が 走 った。1995 年 9 月 4 日 、<br />

沖 縄 で3 人 のアメリカ 海 兵 隊 員 が12 歳 の 少 女 を 誘 拐 ・ 暴 行 したのであ<br />

る。ナイ 次 官 補 はこれを「 台 風 のようだった」と 回 想 している 9 。クリン<br />

トン 政 権 では 大 統 領 以 下 が 謝 罪 を 繰 り 返 したが、 沖 縄 県 民 の 怒 りは 高 ま<br />

るばかりであった。なにしろ、 沖 縄 一 県 で 在 日 米 軍 専 有 基 地 面 積 の 7<br />

5%を 占 めていた。しかも、 村 山 内 閣 の 対 応 は 遅 れ、 翌 年 1 月 には 政 権<br />

を 自 民 党 の 橋 本 龍 太 郎 に 譲 って 退 陣 した。 在 日 米 軍 基 地 の 安 定 した 提 供<br />

という 日 米 同 盟 の 根 底 が、 覆 りかねない 情 勢 であった。<br />

だが、ここでも 逆 説 が 働 いた。まず、 新 たに 首 相 となった 橋 本 は、<br />

自 民 党 最 大 派 閥 の 領 袖 であり、 村 山 よりも 大 きなリーダーシップが 期 待<br />

できた。しかも、 橋 本 自 身 が 沖 縄 問 題 の 解 決 に 強 い 思 い 入 れを 有 してい<br />

たのである。さらに、 事 態 の 深 刻 さから、アメリカでもクリントン 大 統<br />

領 をはじめ、 政 権 の 最 上 層 部 にも 日 米 同 盟 強 化 の 関 心 が 高 まった。<br />

8 <strong>The</strong> U.S. Department of Defense, United States Strategy for the East Asia Pacific Region, February 1996.<br />

9<br />

船 橋 、 前 掲 。


140 ⏐ 日 米 中 関 係 と 日 本 の 戦 略<br />

1996 年 2 月 23 日 、 二 人 の 指 導 者 の 間 で 初 の 日 米 首 脳 会 談 がサ<br />

ンタモニカで 開 催 された。ここで 沖 縄 にある 米 海 兵 隊 の 中 核 基 地 、 普 天<br />

間 飛 行 場 の 返 還 が 初 めて 議 題 になった。4 月 12 日 には、 橋 本 首 相 とウ<br />

ォルター・モンデール 駐 日 米 大 使 が 東 京 で 記 者 会 見 を 行 い、 普 天 間 飛 行<br />

場 を5―7 年 をめどに 全 面 返 還 すると 発 表 した。しかし、その 背 後 では<br />

米 軍 戦 力 の 維 持 が 条 件 になっており、 沖 縄 県 内 での 移 転 が 模 索 されるこ<br />

とになっていた。 沖 縄 県 政 の 混 乱 もあり、この 県 内 移 転 問 題 は 今 日 に 至<br />

るも 解 決 していない。<br />

普 天 間 返 還 が 決 まった 直 後 の4 月 17 日 、クリントン 大 統 領 が 訪 日<br />

して、 橋 本 首 相 との 間 で「 日 米 安 全 保 障 共 同 宣 言 ――21 世 紀 に 向 けて<br />

の 同 盟 」に 署 名 した。この 宣 言 は 冷 戦 後 の 日 米 同 盟 の 目 的 を「アジア 太<br />

平 洋 地 域 の 平 和 と 安 定 の 維 持 」と 規 定 した 10 。これは 日 米 両 国 首 脳 が、<br />

湾 岸 戦 争 から5 年 、 旧 ガイドラインからはほぼ20 年 ぶりに、 狭 義 の 日 本 防 衛<br />

を 超 えて、 日 米 同 盟 が 抱 える 問 題 点 を 解 決 しようとする 政 治 的 宣 言 であった。<br />

「 日 米 安 保 共 同 宣 言 」を 受 けて、6 月 7 日 には 早 くもガイドライン<br />

見 直 しに 関 する「 中 間 とりまとめ」が 発 表 された。この 報 告 では、 新 ガ<br />

イドラインの 内 容 を、「 平 素 から 行 う 協 力 」「 日 本 に 対 する 武 力 攻 撃 に<br />

際 しての 対 処 行 動 等 」「 周 辺 事 態 における 協 力 」に 大 別 した。だが、 早<br />

くも「 周 辺 事 態 」に 台 湾 が 含 まれるか 否 かが、 大 きな 争 点 になった。 自<br />

民 党 の 加 藤 紘 一 幹 事 長 は、 台 湾 海 峡 を 含 まないよう 明 言 すべきだと 主 張<br />

し、 中 曽 根 康 弘 元 首 相 や 梶 山 静 六 官 房 長 官 はこれに 反 論 した。さらに、<br />

中 国 の 李 鵬 首 相 が 梶 山 発 言 に「 中 国 はこれを 絶 対 に 容 認 できない」と 反<br />

発 した。9 月 に 訪 中 した 橋 本 首 相 は、「 周 辺 事 態 」について「 特 定 地 域<br />

を 議 論 して 行 っているものではない」と 理 解 を 求 めたが、 李 首 相 は 重 ね<br />

て 懸 念 を 表 明 した 11 。<br />

こうした 中 国 の 反 発 の 背 景 には、「 日 米 安 保 共 同 宣 言 」のタイミン<br />

グの 問 題 があった。 本 来 、この 宣 言 は1995 年 1 月 の 大 阪 APECの<br />

際 、クリントン 大 統 領 が 来 日 して 発 表 される 予 定 であった。ところが、<br />

クリントン 政 権 は 予 算 をめぐって 議 会 と 対 立 し、 来 日 を 延 期 せざるをえ<br />

なかった。そこで1996 年 4 月 の 発 表 となったのである。ところが、<br />

この 間 に 日 本 では 政 権 が 村 山 から 橋 本 に 替 わり、 中 国 は 日 本 政 府 の 保 守<br />

10<br />

東 アジア 戦 略 報 告 」と 同 様 に 約 10 万 人 の 米 軍 の 前 方 展 開 を 維 持 するとした 上 で、ガイドライン<br />

の 見 直 しに 着 手 することを 謳 っていた。<br />

11<br />

平 和 ・ 安 全 保 障 研 究 所 編 『アジアの 安 全 保 障 1998―1999』( 朝 雲 新 聞 社 、1999<br />

年 )175―176ページ。


村 田 晃 嗣 ⏐ 141<br />

化 に 危 惧 を 有 した。しかも、1995 年 6 月 には 台 湾 の 李 登 輝 総 統 の 訪<br />

米 があり、1996 年 3 月 には 台 湾 総 統 選 挙 を 前 に、 中 国 は 台 湾 沖 にミ<br />

サイルを 発 射 して 威 嚇 をおこなった。しかも、 中 国 の 核 実 験 再 開 で、 日<br />

本 の 対 中 世 論 も 悪 化 していた。 中 国 は 日 米 同 盟 強 化 の 動 きを、 台 湾 問 題<br />

を 睨 んだ 対 中 封 じ 込 め 政 策 と 解 したのである。<br />

日 本 政 府 は 新 ガイドラインの 実 効 性 を 確 保 するために、 国 内 立 法 の<br />

準 備 作 業 に 入 った。だが、1997 年 11 月 のアジア 通 貨 危 機 とその 後<br />

の 日 本 経 済 の 混 乱 から、この 作 業 は 遅 延 した。1998 年 6 月 にはクリ<br />

ントン 大 統 領 が 中 国 を 訪 問 して、 江 沢 民 国 家 主 席 と 共 に 日 本 の 経 済 政 策<br />

を 批 判 するという 出 来 事 もあった。この 折 、クリントンが 日 本 を 訪 問 し<br />

なかったことから、アメリカの 日 本 軽 視 ではないかという 批 判 も、 日 本<br />

国 内 で 生 じた。<br />

しかし、1998 年 8 月 に 北 朝 鮮 が 日 本 上 空 を 越 えるミサイルの 発<br />

射 実 験 をおこなったことが 追 い 風 となって、 翌 1999 年 5 月 24 日 に<br />

は 周 辺 事 態 法 が 成 立 した。この 間 、1998 年 の 参 議 院 選 挙 に 敗 北 して<br />

橋 本 は 退 任 し、 政 権 は 小 渕 恵 三 の 手 に 移 っていた。<br />

この 法 律 は「 周 辺 事 態 」を「そのまま 放 置 すれば 我 が 国 に 対 する 直<br />

接 の 武 力 攻 撃 に 至 るおそれのある 事 態 等 周 辺 の 地 域 における 我 が 国 の 平<br />

和 及 び 安 全 に 重 要 な 影 響 を 与 える 事 態 」と 定 義 している。この 新 法 によ<br />

って、「 周 辺 事 態 」では、 戦 闘 地 域 とは 一 線 を 画 した「 後 方 地 域 」で、<br />

武 器 弾 薬 以 外 の 輸 送 補 給 など、 自 衛 隊 が 一 定 の 米 軍 支 援 を 行 うことが 可<br />

能 となった。<br />

以 上 、 冷 戦 終 焉 から10 年 ほどの 日 本 の 安 全 保 障 戦 略 の 変 遷 を 瞥 見<br />

してきた。マクロに 言 えば、それは 日 米 同 盟 の 強 化 と 国 際 安 全 保 障 への<br />

役 割 拡 大 の 方 向 に、 確 実 に 向 ってきた。まずは、それを 高 く 評 価 したい。<br />

けれども、ミクロにみると、 日 本 の 安 全 保 障 戦 略 は 国 際 環 境 の 変 化 に 受<br />

動 的 であり、 国 内 政 治 事 情 の 妥 協 の 産 物 であった。そのため、 日 米 同 盟<br />

関 係 の 強 化 と 対 中 関 係 を 包 摂 ・ 統 合 するような 大 局 的 ・ 長 期 的 な 視 点 に<br />

欠 ける。また、 国 内 政 局 が 不 安 定 で、 政 権 交 代 が 頻 繁 に 起 こったことも、<br />

長 期 的 戦 略 の 確 立 を 阻 害 してきた。 集 団 的 自 衛 権 の 行 使 のような 根 本 的<br />

問 題 も 未 解 決 のままである。


142 ⏐ 日 米 中 関 係 と 日 本 の 戦 略<br />

政 策 決 定 過 程 の 変 化<br />

冷 戦 後 10 年 ほどの 間 に、 日 本 の 安 全 保 障 戦 略 は 漸 進 的 に 変 化 して<br />

きた。この 間 、 政 策 決 定 過 程 にも 変 化 がみられる。<br />

まずは、 外 務 省 と 防 衛 庁 との 関 係 である。 旧 来 、 前 者 は 日 米 安 全 保<br />

障 関 係 をはじめとする 外 交 ・ 安 全 保 障 政 策 の 立 案 にあたる 一 流 の「 政 策<br />

官 庁 」、 後 者 は 主 として 自 衛 隊 の 管 理 ・ 運 用 を 担 当 する 二 流 の「 管 理 官<br />

庁 」と 位 置 づけられてきた。 辛 辣 な 識 者 には、 防 衛 庁 を「 外 務 省 北 米 局<br />

日 米 安 全 保 障 条 約 課 付 属 防 衛 庁 」と 揶 揄 する 向 きもあった。ところが、<br />

ここ10 年 ほどの 間 に、 両 者 の 関 係 はそれまでの 垂 直 的 関 係 から( 完 全<br />

ではないにせよ)より 水 平 的 な 関 係 に 移 行 しつつある。 防 衛 庁 が「 政 策<br />

官 庁 」に 変 容 しつつあるのである。<br />

これには 国 際 的 な 理 由 と 国 内 的 な 理 由 があろう。 国 際 的 な 理 由 とは、<br />

クリントン 政 権 下 で 国 務 省 、 特 にその 地 域 担 当 部 局 ( 例 えば、 東 アジア<br />

太 平 洋 局 )の 影 響 力 が 低 下 したのに 対 して、 国 防 省 、 特 に 国 際 安 全 保 障<br />

問 題 局 の 役 割 が 活 発 化 したことである。ワシントンでの 官 僚 政 治 の 変 化<br />

が、 日 本 の 官 僚 政 治 にも 影 響 を 与 えたわけである。 国 内 的 な 理 由 は、 防<br />

衛 庁 幹 部 職 員 の 質 の 向 上 である。 長 らく、 防 衛 庁 は 事 務 次 官 をはじめと<br />

する 要 職 を 大 蔵 省 や 警 察 からの 出 向 職 員 に 抑 えられ、 自 前 の 優 秀 な 幹 部<br />

職 員 の 育 成 が 遅 れた。だが、 冷 戦 後 には、 留 学 経 験 の 豊 富 な 政 策 志 向 の<br />

防 衛 庁 職 員 が 課 長 級 など 中 堅 の 重 要 ポストを 占 めるようになってきた。<br />

防 衛 庁 が 積 極 的 に 職 員 の 留 学 を 進 めたことも 大 きい(1992 年 に、 防<br />

衛 庁 はワシントンの 国 防 大 学 に 中 堅 幹 部 の 派 遣 を 始 めた) 12 。<br />

次 に 防 衛 庁 内 局 と 自 衛 隊 制 服 組 の 関 係 である。これも 旧 来 は、 防 衛<br />

庁 内 局 が 自 衛 隊 の 予 算 と 幹 部 人 事 を 押 さえることこそ、「 文 官 統 制 」と<br />

みなされてきた。 防 衛 庁 内 局 にすれば、 外 務 省 や 大 蔵 省 のような 他 の 一<br />

流 官 庁 から 抑 圧 されていることに 対 する「 抑 圧 の 移 譲 」であったのかも<br />

しれない。だが、 先 述 のように、 一 方 で 防 衛 庁 幹 部 の 質 が 向 上 した。そ<br />

して 他 方 で、 自 衛 隊 幹 部 の 質 も 向 上 してきた。しかも、 日 米 防 衛 協 力 の<br />

内 容 がより 詳 細 で 実 務 的 になればなるほど、 実 務 専 門 家 としての 自 衛 隊<br />

幹 部 の 発 言 の 機 会 と 影 響 力 が 増 大 していったのである。 防 衛 庁 内 局 の 中<br />

には、こうした 変 化 を 積 極 的 に 受 け 入 れようとするグループと、 依 然 と<br />

12<br />

村 田 晃 嗣 「 変 容 する 日 米 安 保 政 策 コミュニティー」『This Is 読 売 』1997 年 1 月 号 。


村 田 晃 嗣 ⏐ 143<br />

して「 文 官 統 制 」にこだわる「シビコン 派 」(シビリアン・コントロー<br />

ルの 略 )が 存 在 するという 13 。<br />

さらに、 陸 海 空 三 自 衛 隊 の 関 係 である。 日 米 両 国 の 防 衛 協 力 を 推 進<br />

するには、 三 自 衛 隊 の 統 合 強 化 が 急 務 である。ここで 言 う 統 合 とは、 単<br />

に 統 合 幕 僚 会 議 事 務 局 ( 米 軍 の 統 合 参 謀 本 部 に 相 当 )の 強 化 ではなく、<br />

三 自 衛 隊 間 の 広 範 な 調 整 ・ 連 絡 のことである。この10 年 ほどの 間 に、<br />

こうした 統 合 作 業 も 緩 慢 ながらも 進 展 してきた。<br />

こうした 変 化 はいずれも、 日 米 同 盟 の 強 化 にとっては 肯 定 的 なもの<br />

だが、 負 の 側 面 も 存 在 する。 日 米 双 方 で、 同 盟 関 係 が 少 数 の 官 僚 と 専 門<br />

家 によって 運 営 されていることである。 船 橋 洋 一 はこれを「 事 務 方 同<br />

盟 」と 呼 んでいる 14 。そのため、 高 いレベルで 政 治 指 導 者 が、 恒 常 的 に<br />

同 盟 関 係 に 関 心 を 払 うことが 少 ない。クリントン 政 権 では、 国 防 省 のナ<br />

イ 次 官 補 ( 日 本 の 局 長 級 )、 次 いでカート・キャンベル 次 官 補 代 理<br />

( 日 本 の 局 審 議 官 相 当 )が 実 務 レベルで 日 米 同 盟 の 最 高 責 任 者 であった。<br />

ブッシュ 新 政 権 は 日 米 同 盟 の 強 化 を 外 交 の 目 玉 の 一 つにしているが、そ<br />

れでもリチャード・アーミテージ 国 務 副 長 官 ( 日 本 の 次 官 級 )が 事 実 上<br />

の 最 高 責 任 者 であろう(もとより、これは 大 きな 改 善 である)。 日 本 で<br />

も、 外 務 大 臣 や 防 衛 庁 長 官 ら 閣 僚 の 任 期 は 極 端 に 短 いし、 小 泉 内 閣 では、 田<br />

中 真 紀 子 外 相 と 官 僚 機 構 との 対 立 から、 外 務 省 は 深 刻 な 機 能 不 全 に 陥 ってい<br />

る。<br />

また、 連 立 政 権 時 代 となり、 官 僚 も 自 民 党 だけを 相 手 するわけには<br />

いかなくなった。 安 全 保 障 政 策 をめぐる 与 党 間 調 整 に、 官 僚 はより 多 く<br />

の 時 間 とエネルギーを 消 費 せざるをえない。しかも、 自 民 党 内 でも、 派<br />

閥 の 締 め 付 けが 弱 くなった 結 果 、 一 部 の 有 力 政 治 家 への 根 回 しだけでは<br />

すまなくなっている。 例 えば、 各 議 員 の 発 言 力 が 増 し、 彼 らの 利 権 が 錯<br />

綜 する 中 で、 自 民 党 政 調 会 は 以 前 のように 機 能 しなくなっている。<br />

さらに、 日 米 同 盟 関 係 に 関 する 世 論 の 関 心 も 低 い。アメリカでは<br />

日 米 同 盟 についての 世 論 の 関 心 はほとんど 皆 無 だし、 日 本 でも 安 全 保 障<br />

上 の 問 題 が 発 生 した 時 だけ 世 論 の 関 心 が 高 まり、やがてすぐに 退 潮 する。<br />

このため、 集 団 的 自 衛 権 の 行 使 問 題 のような 根 本 問 題 の 解 決 に 糸 口 がえ<br />

にくい 状 況 にある。 両 国 とも、 世 論 は 日 米 同 盟 に 消 極 的 ・ 受 動 的 な 支 持<br />

を 与 えているにとどまる。<br />

13<br />

船 橋 、 前 掲 。<br />

14<br />

船 橋 、 前 掲 。


144 ⏐ 日 米 中 関 係 と 日 本 の 戦 略<br />

日 米 同 盟 をめぐる 政 策 決 定 過 程 は、 実 務 レベルでは 両 国 の 緊 密 性 が<br />

高 まってはいるものの、 政 治 指 導 者 と 世 論 の 関 与 は 乏 しい。「 事 務 方 同<br />

盟 」を 超 えて、 政 治 指 導 者 と 世 論 の 関 与 を 高 めるには、 同 盟 運 営 の 透 明<br />

性 と 説 明 責 任 を 高 めることが 重 要 であろう。<br />

今 後 の 課 題<br />

冒 頭 でも 述 べたように、2001 年 9 月 11 日 の 同 時 多 発 テロは、<br />

日 米 同 盟 にも 大 きな 影 響 を 与 えた。テロ 以 後 の 日 米 同 盟 の 課 題 を、 対 中<br />

関 係 を 視 野 に 入 れつつ 検 討 してみたい。<br />

まず、 日 米 間 の 役 割 分 担 の 問 題 である。1951 年 の 旧 日 米 安 全 保<br />

障 条 約 締 結 時 の 日 本 側 の 実 務 責 任 者 であった 西 村 熊 雄 外 務 省 条 約 局 長 は、<br />

「 一 言 でいえば、 日 本 は 施 設 を 提 供 し、アメリカは 軍 隊 を 提 供 して 日 本<br />

の 防 衛 を 全 うしようとするものである。 物 と 人 との 協 力 である。 相 互 性<br />

は 保 持 されている」と 論 じている 15 。1990 年 代 の 日 米 同 盟 の 強 化 を<br />

受 けて、 日 本 は「 周 辺 事 態 」で「 物 と 人 との 協 力 」 以 上 の 役 割 を 分 担 す<br />

る 姿 勢 を 示 した。それでも 後 方 支 援 である。しかも、アメリカは 自 国 の<br />

本 土 を 日 本 に 守 ってもらうことなど、 期 待 していなかった。その 意 味 で、<br />

日 米 同 盟 は 完 全 に 相 互 的 ではなく、その 基 本 は 依 然 として「 物 と 人 との<br />

協 力 」であったと 言 えよう。<br />

しかし、 同 時 多 発 テロによって、 今 やアメリカ 本 土 も 武 力 攻 撃 の 対<br />

象 になりうることが 明 白 になった。そして、 次 は 東 京 かもしれない。こ<br />

うした 国 際 テロの 防 止 やテロへの 反 撃 のためには、 超 大 国 アメリカも 国<br />

際 的 な 協 力 を 必 要 とする。 国 際 テロのような 新 しい 深 刻 な 脅 威 に 直 面 し<br />

て、 日 米 同 盟 は「 物 と 人 との 協 力 」を 超 えた 相 互 性 を 模 索 する 必 要 があ<br />

るのである。<br />

次 に、 日 米 協 力 の 深 化 ・ 拡 大 の 必 要 性 である。 国 際 テロに 対 処 する<br />

には、 外 務 省 と 防 衛 庁 がアメリカの 国 務 省 ・ 国 防 省 と 協 力 するだけでは、<br />

まったく 不 十 分 である。すでに 周 辺 事 態 法 の 施 行 によって、 多 くの 中 央<br />

官 庁 や 地 方 公 共 団 体 の 協 力 が 必 要 となったが、こうした 広 範 な 協 力 体 制<br />

の 確 立 が、ますます 急 務 になっている。 警 察 、 税 関 、 厚 生 、 運 輸 、 金 融<br />

など 各 分 野 で、 実 に 宮 内 庁 以 外 のすべての 中 央 官 庁 がなんらかの 形 で 関<br />

15<br />

西 村 熊 雄 『 改 訂 版 ・ 日 米 安 全 保 障 条 約 論 』 時 事 通 信 社 、1960 年 、59ページ。


村 田 晃 嗣 ⏐ 145<br />

与 を 求 められよう。とりわけ、 情 報 面 での 日 米 協 力 は、 今 後 ますます 重<br />

要 性 を 増 すであろう。<br />

2001 年 10 月 に、 日 本 はテロ 対 策 特 別 措 置 法 という 時 限 立 法 を<br />

制 定 し 16 、 米 軍 への 後 方 支 援 のために、インド 洋 への 海 上 自 衛 隊 の 派 遣<br />

を 決 めた。PKOを 別 にすれば、 戦 後 初 の 自 衛 隊 の 海 外 派 遣 である。に<br />

もかかわらず、 中 国 はこれにほとんど 反 対 しなかった。1992 年 の P<br />

KO 法 の 際 も、 中 国 は 天 皇 訪 中 を 念 頭 に 入 れて 反 対 を 自 制 したが、 今 回<br />

も、 国 際 テロへの 対 応 という 高 い 正 当 性 とアメリカへの 配 慮 から、 中 国<br />

は 強 い 反 対 を 控 えたのである。<br />

これは 日 米 中 安 全 保 障 関 係 の 改 善 にとって、 一 つの 可 能 性 を 示 すも<br />

のである。 新 ガイドラインや 周 辺 事 態 法 の 制 定 で、 中 国 は 日 米 同 盟 が 対<br />

中 封 じ 込 めを 策 し、とりわけ 台 湾 を「 周 辺 事 態 」に 含 めるのではないか<br />

と 危 惧 し、また 日 米 によるミサイル 防 衛 構 想 の 共 同 研 究 にも 反 対 してき<br />

た。 日 米 両 国 は 同 盟 関 係 の 強 化 に 関 しては、 中 国 の 批 判 や 反 対 に 毅 然 と<br />

した 態 度 を 保 持 すべきである。1998 年 6 月 のクリントン 訪 中 でも、<br />

最 大 の 失 敗 はクリントンが 東 京 に 立 ち 寄 らなかったことではなく、 北 京<br />

で 日 米 同 盟 の 重 要 性 を 明 言 しなかったことである。<br />

日 米 同 盟 はアジア・ 太 平 洋 地 域 の 平 和 と 安 全 にとって 国 際 公 共 財 で<br />

あり、 台 湾 が「 周 辺 事 態 」に 含 まれるか 否 かは、 日 米 が 決 めることでは<br />

なく、 中 国 と 台 湾 の 去 就 によって 決 まることである。 台 湾 海 峡 は 国 際 海<br />

峡 であるし、 日 米 両 国 とも 台 湾 問 題 の 平 和 的 解 決 を 強 く 期 待 しているこ<br />

とを、くり 返 し 表 明 する 必 要 がある。ミサイル 防 衛 構 想 についても、 中<br />

国 は 核 兵 器 の 先 制 使 用 の 放 棄 を 宣 言 しているし、 日 本 は 核 保 有 国 ではな<br />

く、また、 米 ロ 間 とは 異 なり、 米 中 間 にはミサイル 防 衛 構 想 を 規 制 する<br />

条 約 は 存 在 しないから(アメリカはすでに 米 ロ 間 のABM 制 限 条 約 につい<br />

ても 離 脱 を 表 明 した)、 中 国 が 研 究 段 階 でこれに 反 対 する 論 拠 は 乏 しい。<br />

他 方 、 新 ガイドラインは 日 米 の 二 国 間 協 力 のみを 追 求 するものでは<br />

なく、 国 連 PKOへの 積 極 的 取 り 組 みや 多 国 間 安 全 保 障 対 話 の 促 進 、 国<br />

際 的 人 道 援 助 活 動 の 活 発 化 などをも 目 指 す 枠 組 みである。 国 際 テロ 対 策<br />

はまさにその 好 例 であるが、 日 米 同 盟 が 目 指 すこうした 国 際 的 ・ 多 角 的<br />

安 全 保 障 協 力 の 枠 組 みに、 中 国 を 積 極 的 に 誘 うことが 重 要 であろう。 国<br />

連 PKOのための 共 同 訓 練 なども 検 討 されてよいし、 海 難 事 故 や 海 賊 行<br />

為 への 共 同 対 処 も、さらに 促 進 すべきである。これらは 短 期 的 には 顕 著<br />

16 その 正 式 名 称 は100 文 字 を 超 え、 日 本 の 法 律 の 中 で 最 も 長 い 名 称 である。


146 ⏐ 日 米 中 関 係 と 日 本 の 戦 略<br />

な 効 果 を 発 揮 しないかもしれないが、 長 期 的 には 日 米 中 三 国 の 行 動 と 思<br />

考 のパターンにポジティブな 変 化 を 促 す 可 能 性 はある 17 。<br />

対 中 関 係 をも 睨 んだ 日 米 同 盟 強 化 の 長 期 的 な 戦 略 を 描 き、 国 内 で 包<br />

括 的 な 安 全 保 障 体 制 を 構 築 しながら、 世 論 の 理 解 と 支 持 を 確 保 するには、<br />

政 治 による 強 い(そして 安 定 した)リーダーシップと、それを 支 えるブ<br />

レーンやスタッフが 必 要 である。 幸 い、 小 泉 純 一 郎 首 相 の 支 持 率 は、す<br />

こぶる 高 い。 日 本 政 府 はついに「 安 全 保 障 基 本 法 」の 制 定 に 向 けて 動 き<br />

出 した 18 。これを 機 に、 長 期 戦 略 の 策 定 を 可 能 にする 官 邸 スタッフの 大<br />

幅 な 強 化 を 図 るべきであろう。また、 集 団 的 自 衛 権 行 使 に 関 するいびつな 解 釈<br />

を、 新 法 の 中 で 立 法 府 の 責 任 で 改 めることができれば、 大 きな 進 歩 である 19 。<br />

アメリカも 第 二 次 世 界 大 戦 までは、 十 分 な 安 全 保 障 体 制 を 構 築 して<br />

はいなかった。 統 合 参 謀 本 部 もイギリスとの 作 戦 協 力 の 必 要 上 設 置 され<br />

たし、 国 家 安 全 保 障 会 議 (NSC)や 中 央 情 報 局 (CIA)が 創 設 され<br />

たのは、1947 年 の 国 家 安 全 保 障 法 によってである。 同 盟 との 協 力 と<br />

国 際 環 境 の 激 変 への 構 造 的 対 応 を、 日 本 も 経 験 しなければならない。 日<br />

本 は 冷 戦 後 の10 年 間 、 経 済 的 な 停 滞 に 悩 まされながら、 国 際 的 な 危 機<br />

にその 都 度 対 応 してきたが、21 世 紀 を 迎 え、 陰 惨 なテロを 経 験 した 今<br />

こそ、 長 期 戦 略 を 可 能 にする 体 制 づくりに 本 格 的 に 取 り 組 むべきである。<br />

もとより、 安 全 保 障 は 国 の 政 治 ・ 外 交 ・ 経 済 と 独 立 して 存 在 するもので<br />

はない。その 意 味 で、 日 米 同 盟 のさらなる 強 化 と 日 米 中 関 係 の 安 定 のために<br />

も、 日 本 経 済 の 再 建 が 何 よりも 喫 緊 の 課 題 であることは、 言 うまでもない。<br />

17<br />

日 米 中 関 係 に 関 する 最 近 の 優 れた 論 考 として、Michael J. Green, “Defense or Security? <strong>The</strong> U.S.-<br />

Japan Defense Guidelines and China” in David M. Lampton, ed., Major Power Relations in Northeast Asia: Win-<br />

Win or Zero-Sum Game (Tokyo: Japan <strong>Center</strong> for International Exchange, 2001)。<br />

18 『 読 売 新 聞 』2002 年 1 月 1 日 。<br />

19<br />

集 団 的 自 衛 権 については、 佐 瀬 昌 盛 『 集 団 的 自 衛 権 』(PHP 新 書 、2000 年 )を 参 照 。また、<br />

「 安 全 保 障 基 本 法 」と 集 団 的 自 衛 権 の 関 係 については、 村 田 晃 嗣 「 若 い 世 代 の 改 憲 論 」『 中 央 公 論 』<br />

2000 年 6 月 号 を 参 照 。

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