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「ジャン=リュック・ナンシー――ハイデガーとの 終 わりなき 対 話 」<br />

澤 田 直 ( 立 教 大 学 )<br />

はじめに<br />

現 在 フランスを 代 表 するジャン=リュック・ナンシーの 思 想 形 成 において、ハイデガーはきわめて 重 要 な 位 置<br />

を 占 めている。 実 際 、 初 期 の 著 作 から、ハイデガーは、カント、ヘーゲル、バタイユ、ブランショ、デリダと<br />

ともに 主 要 な 源 泉 、ないしは 対 話 者 のひとりであった。とはいえ、ハイデガー 思 想 が 前 景 に 現 れてくるのは、<br />

80 年 代 後 半 以 降 のことで、とりわけ、『 自 由 の 経 験 』(1988)、『イメージの 奥 底 で』(2003)である。 近 年 でも、<br />

『 黒 ノート』の 公 刊 を 受 けて、『ハイデガーの 凡 庸 さ』(2014)を 刊 行 するなど、ナンシーは 止 むことなくハイ<br />

デガーとの 対 話 を 続 けきたと 言 える。<br />

本 発 表 では、 共 存 在 ( 共 同 体 )、 自 由 、イメージという3つの 主 題 を 取 り 上 げ、それらのテーマにおけるナン<br />

シーのハイデガー 理 解 と 批 判 の 論 点 を 整 理 する 形 で、 両 思 想 家 の 接 点 を 検 討 することにしたい。ナンシーには<br />

ハイデガーを 正 面 切 って 扱 う 論 考 がいくつかあるが、それらは、 辞 書 の 項 目 として 執 筆 されたものや、 雑 誌 の<br />

ハイデガー 特 集 号 のために 書 かれたものであり、ナンシー 自 身 の 思 想 との 直 接 対 決 を 見 るためには、 必 ずしも<br />

適 さないため、 今 回 はそれらを 主 題 的 には 扱 わないことにする 1 。むしろ、ナンシーが 自 身 の 見 解 を 展 開 する 際<br />

に、 引 用 されたり、コメントされたりする、 断 片 的 な 言 及 をもとにすることで、 彼 の 立 ち 位 置 が 明 瞭 に 浮 かび<br />

上 がると 思 うからである。<br />

結 論 を 先 取 りする 形 にはなるが、ナンシーがハイデガーを 援 用 するときに 特 徴 的 な 身 振 りを 述 べておこう。そ<br />

れは、ある 問 題 構 成 に 関 して、その 最 も 適 切 な 考 察 の 例 として、ハイデガーの 文 章 を 引 用 した 上 で、それにも<br />

かかわらず、その 考 察 から 帰 結 するいくつかの 内 容 には 留 保 をつけるという 仕 方 である。たとえば、『 有 限 な<br />

思 想 』 所 収 の「 終 わる 思 考 」において、 有 限 性 の 意 味 を 問 う 際 に、ナンシーはハイデガーの『カントと 形 而 上<br />

学 の 問 題 』を 引 用 しながら、 次 のように 書 く。<br />

あるひとつの 必 然 性 を 最 初 に 肯 定 することによって 以 外 の 仕 方 では、 直 接 的 に 答 えようと 努 めることはでき<br />

ない。「 有 限 性 の 最 も 内 密 な 本 質 の 錬 成 は、それ 自 体 が 常 に、 第 一 義 的 な 仕 方 で 有 限 でなければならない」 2 。<br />

だが、その 出 典 を 掲 げる 注 の 部 分 で、 以 下 のような 留 保 というか、 批 判 がなされる 3 。ハイデガーは、「 有 限 な<br />

1<br />

主 なものを 以 下 に 挙 げておく。<br />

« L’ "éthique originaire" de Heidegger », La pensée dérobée, Paris, Galilée, 2001.「ハイデガーの「 根 源 的 倫 理 」」 合 田 正 人 訳 、『みすず』<br />

488,489,491 号 ,2001,2002 年 。もともとは 以 下 の 倫 理 学 事 典 の 項 目 として 執 筆 されたものに 加 筆 されたもの。Dictionnaire<br />

d’éthique et de philosophie morale, Paris, PUF, 1996. 最 終 節 にはハイデをどのように 再 読 解 することができるか、その 可 能 性 が 示 唆<br />

されているが、その 内 容 は 他 のナンシーの 著 作 で 述 べられていることの 要 約 と 言 える。<br />

« La décision d’existence », in Une pensée finie, 初 出 は 共 著 « Etre et temps » de Martin Heidegger, Marseille, Sud, 1989.<br />

"L'amour en éclats", Une pensée finie 初 出 は、Alea n° 7, 1986<br />

2 『 有 限 な 思 想 』( 合 田 正 人 訳 、 法 政 大 学 出 版 局 、2011 年 )、p. 6 。Une Pensée finie, Galilée, 1990, p. 13<br />

On ne cherche pas à répondre directement, sinon par l’affirmation liminaire d’une nécessité : « L’élaboration de l’essence la plus intime de la<br />

finitude doit toujours elle-même, de manière principielle, être finie. »<br />

3 「この 文 の 直 接 文 脈 が 示 されたとしても、この 文 が 正 当 化 されるわけではない。そこでハイデガーは、「 有 限 な 思 考 」の 結 局 は 相 対<br />

主 義 的 な 考 え 方 に 捕 らわれており、この 考 え 方 は、 有 限 性 の「 真 理 そのもの」を 認 識 すると 強 く 主 張 することができずに、 数 ある 可<br />

能 性 のなかの「ひとつの 可 能 性 」にずっととどまるだろう。このことは 解 明 されることを 少 なくとも 求 めている。 有 限 性 「それ 自 体 」は<br />

認 識 されないが、それは 遠 近 法 主 義 の 効 果 のせいではない。それは 有 限 性 「それ 自 体 」が 存 在 しないからなのだ。 問 われている<br />

-1-


思 考 」の 相 対 主 義 的 に 留 まっているために、 有 限 性 の「 真 理 そのもの」の 認 識 について 語 りながら、それを「 可<br />

能 性 のひとつ」とするある 種 のレトリックの 罠 に 捕 らわれたままなのだ、と。<br />

これはけっして 特 別 な 例 ではない。それどころから、ほとんど 多 くの 場 合 、ナンシーはハイデガーを 引 用 しつ<br />

つ、その 命 題 の 内 容 そのものではないとしても、その 含 意 に 疑 義 を 呈 し、 新 たな 解 釈 の 余 地 を 示 唆 するのであ<br />

る 4 。 今 回 、とりあげる 3 つの 主 題 の 場 合 もまさにこの 形 で 論 は 展 開 される。 以 下 、ひとつずつ 検 討 することに<br />

しよう。<br />

1 共 存 在 ( 共 同 体 )<br />

まずは、 共 同 体 = 共 同 性 である。ナンシーの 出 世 作 として 知 られる『 無 為 の 共 同 体 』(1986)は、 一 連 の 論 考<br />

からなるが、 同 じタイトルの 最 初 の 論 文 は 1983 年 に 雑 誌 『アレア』に 発 表 され、その 後 、 同 じ 主 題 を 扱 った<br />

二 つの 論 考 (「 途 絶 し た 神 話 」「〈 文 学 的 共 産 主 義 〉」 を 収 録 する 形 で 単 行 本 化 され、さらには 第 2 版 で、 新 たに<br />

いくつかの 論 考 (「〈 共 同 で の 存 在 〉 に つ い て 」「 有 限 な 歴 史 」) が 追 加 された。その 意 味 で、ナンシー 思 想 の 出<br />

発 点 であると 同 時 に、80 年 代 半 ばの 彼 の 思 想 を 反 映 している 5 。<br />

一 連 の 論 考 は、なによりもジョルジュ・バタイユ、そして、モーリス・ブランショの 思 想 に 導 かれながら、 新<br />

たな 共 同 体 あるいは 共 同 性 について 考 察 したものであるが、 数 か 所 でハイデガー(とりわけ『 存 在 と 時 間 』へ<br />

の 重 要 な 言 及 が 見 られる。ただ、それは 全 面 的 な 肯 定 というよりは、 多 くの 留 保 つきのものである。 焦 点 とな<br />

るのは、 共 存 在 Mitsein、そして 現 存 在 が「 死 への 存 在 」Sein zum Tode であるということの 意 味 である。<br />

ナンシーによれば、ハイデガーは『 存 在 と 時 間 』において、 現 存 在 が 本 質 上 おのずから Mitsein であることを<br />

明 らかにしつつも、それを 十 分 に 発 展 させることはなかった 6 。 死 の 分 析 論 において、 現 存 在 はなによりも「 死<br />

への 存 在 」という 側 面 が 強 調 されることで、 共 存 在 というモチーフが 背 景 にしりぞいてしまうからである 7 。そ<br />

れはなぜかといえば、 死 への 先 駆 によって 現 存 在 は 単 独 化 し、「 他 者 との 共 存 在 は 何 の 役 にも 立 たなくなる」 8 と<br />

考 えるからである。つまり、ハイデガーは 残 念 なことに、 別 の 部 分 で 自 ら 明 らかにした 共 同 存 在 と「 死 」の 問<br />

のはこのことであって、 思 考 の 謙 譲 についてのひとつのレトリックではない。ここでハイデガーはこのレトリックの 罠 に 捕 らわれたま<br />

まである。『 有 限 な 思 想 』 p.7<br />

Le contexte immédiat de cette phrase ne lui rend pas justice. Heidegger semble y rester pris dans une conception en somme relativiste de la<br />

« pensée finie», sui resterait toujours seulement « une possibilité parmi d’autres, ne pouvant prétendre à connaître la « vérité en soi » de la<br />

finitude. Cela demande au moins à être éclairci. On ne connaît pas finitude « en soi » : mais ce n’est pas par l’effet d’un perspectivisme, c’est<br />

parce qu’il n’y pas de finitude « en soi ». C’est de cela qu’il doit s’agir, et non d’une rhétorique de modestie de la pensée, dans laquelle<br />

Heidegger reste ici piégé. p. 13-14.<br />

4<br />

同 書 から 別 の 例 を 引 いておこう。こちらは、 意 味 の 可 能 性 に 関 するもので、 先 の 引 用 の 少 し 後 に『 存 在 と 時 間 』に 関 して、またも<br />

注 の 形 で 記 される。「この 書 物 [『 存 在 と 時 間 』は、 存 在 の 意 味 であるかぎりでの 意 味 の「 脱 構 築 」の 原 理 を 定 義 しているのだが、そ<br />

れにも 係 わらず、そこでのハイデガーはやはり、 意 味 の 呈 示 についての 古 典 的 な 二 つの 体 勢 に 従 属 したままである。これら 二 つ<br />

の 体 勢 とは、「 了 解 」としての 体 制 であり、もう 一 度 は「 感 じること」ないし「 感 情 としての 体 制 である。ハイデガーは、これら 二 つの 体<br />

制 は 不 可 分 でありつつも、 二 つは 二 つであり 続 けるだろうと 繰 り 返 し 言 っているが、この 二 元 性 を 明 確 には 問 いただしていない。<br />

10−11。 « On notera au passage que bien que ce livre [Sein und Zeit] définisse le principe d’une « déconstruction » du sens, en tant que<br />

sens de l’être, Heidegger n’y reste pas moins tributaire d’un double régime, classique, de la présentation du sens : une fois comme<br />

« compréhension », une autre fois comme « sentir » ou « sentiment » (Befindlichkeit). Il répète que les deux sont indissocialbes, mais les deux<br />

restent deux, et Heidegger n’interroge pas explicitement cette dualité. p. 16<br />

5 『 無 為 の 共 同 体 』( 西 谷 修 ・ 安 原 伸 一 朗 訳 、 以 文 社 、2001 年 )。Jean-Luc Nancy, La communauté désoeuvré, Christian Bourgois, 1986.<br />

以 下 、CD と 略 記 し、 邦 訳 / 原 著 の 頁 数 を 記 す。<br />

6 さらには、Mitsein なり Mid-da-sein と 名 づけて 考 察 されたものは、ハイデガーの 思 想 のうちではいまだしかるべき 根 源 性 も 決 定 も<br />

与 えられていなかった(CD 159/203)と 考 える 。<br />

7 その 一 方 で、 現 存 在 が「 死 への 存 在 」であるということをめぐるハイデガーの 考 察 は、「 私 なるものが 一 個 の 主 体 とは 別 のもので<br />

あること」を 端 的 に 示 している、と 述 べて、 評 価 もしている。<br />

8 SZ, S. 263.<br />

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題 とをリンクさせることがなかった。この 点 がナンシーの 批 判 の 中 心 となる。というのも、ナンシーによれば、<br />

むしろ 死 のうちにこそ「 共 同 性 」の 開 示 の 可 能 性 を 見 いださなければならないからである。<br />

共 同 体 は 他 人 の 死 のうちに 開 示 される。そうしてつねに 他 人 へと 開 示 されている。 共 同 体 とは、つねに 他<br />

人 によって 他 人 のために 生 起 されるものである。それは 複 数 の「 自 我 」(…)の 空 間 でなく、つねに 他 人 で<br />

ある 複 数 の 私 [たち]の 空 間 である。( CD28/42)<br />

ここで 共 同 体 は、 諸 々の 自 我 が 融 合 した 上 位 の「われわれ」や「 主 体 」だとはされていないことに 注 意 する 必<br />

要 がある。 主 体 としての 共 同 存 在 などないのであり、まさにこの 不 可 能 性 こそが 共 同 体 に 刻 みこまれている。<br />

共 同 体 とは 生 産 や 活 動 のための 企 てでもない。 無 為 の 共 同 体 と 名 づけられる 所 以 である。 他 方 で、 共 同 体 とは<br />

個 々の 有 限 性 を 補 うようなものでもない。「 有 限 性 は 共 出 現 する、つまり 曝 し 出 される、それが 共 同 体 の 本 質<br />

なのである」(CD 53/73)とされる。<br />

とはいえ、『 無 為 の 共 同 体 』ではハイデガーの 明 示 的 な 言 及 はごく 限 られているから、 同 じ 問 題 系 を 再 び 論 じ<br />

る『 複 数 にして 単 数 の 存 在 』(1966)を 参 照 することにしよう 9 。ナンシーはそこに 所 収 された 論 考 で、「われわ<br />

れ」の 問 題 を 哲 学 - 政 治 的 地 平 において 考 察 しようとするが、その 際 に、「 第 一 哲 学 」である 存 在 論 に 立 ち 戻 る<br />

ことが 必 要 であるとした 上 で、「 最 後 の「 第 一 哲 学 」はハイデガーの 基 礎 的 存 在 論 によって、われわれに 手 渡<br />

されている」(ESP68/46)と 述 べる。<br />

つづいて、ナンシーが Etre-avec( 共 に- 存 在 )と 呼 ぶものが、ハイデガーによって、Mitsein, Miteinandersein,<br />

Mitdasein という 形 できわめて 明 瞭 に、Dasein に 本 質 的 であると 明 言 されていることが 確 認 される。その 上 で、<br />

現 存 在 は、 主 体 でないのと 同 じく、 孤 立 した「 一 者 」でもなく、「と 共 に」というあり 方 こそが、 共 - 根 源 的 な<br />

次 元 としてあると 指 摘 しつつ、ハイデガーにおいては、この 側 面 が 結 局 は 十 分 に 展 開 されなかったとして、 実<br />

存 論 的 分 析 論 を「 最 初 期 化 」しなければならないと 主 張 するのである 10 。<br />

断 固 として、 諸 根 源 の 複 数 で 単 数 のものから、つまり 共 存 在 から、 基 礎 的 存 在 論 を 作 りなおさねばなら<br />

ない(そしてこれは、 実 存 論 的 分 析 論 にも、 存 在 の 歴 史 にも、 性 起 Ereignis の 思 考 にも、 同 様 に 当 てはまる。)<br />

(ESP68/46)<br />

つまり、ナンシーは、ハイデガーのうちで 萌 芽 状 態 にとどまった 問 題 構 成 を 発 展 させようというのである。そ<br />

の 先 にあるのは 何 か。それはコミュニケーションと 結 びつくコミュニティ( 共 同 体 = 共 同 性 )の 問 題 に 他 なら<br />

ない。<br />

ハイデガー 自 身 がこう 書 いている。「 現 存 在 の 存 在 理 解 のうちに、すでに…… 他 者 たちの 理 解 がある」<br />

(SZ, S.123)と。しかし、おそらくそれでは 未 だあまりに 言 い 足 りない。 存 在 の 理 解 は 他 者 たちの 理 解 に<br />

他 ならないのであり、それはつまり、すべての 意 味 において、「 私 」による 他 者 たちの 理 解 であるとともに、<br />

他 者 たちによる「 私 」の 理 解 であり、 相 互 の 理 解 に 他 ならない。 端 的 に、 存 在 とはコミュニケーションであ<br />

る、と 言 えるだろう。まだ、「コミュニケーション」とは 何 であるか、 知 る 必 要 が 残 るだろうが」(ESP 71/47)<br />

9 『 複 数 にして 単 数 の 存 在 』( 加 藤 恵 介 訳 、 松 籟 社 、2005 年 )Etre singulier pluriel, Galilée, 1996. 以 下 ESP と 略 記 。<br />

10<br />

同 じ 指 摘 がこの 本 の 中 でしばしば 繰 り 返 される。それでも、「Mitsein の 分 析 論 は、Mitsein という 特 徴 線 が Dasein に 共 - 本 質 的 な<br />

ものとして 与 えられているにもかかわらず、 素 描 のまま、 従 属 的 なままに 留 まっている」(ESP185/117)。<br />

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ナンシーが 問 題 にしようとするのは、 同 一 者 たちの 合 一 であるようなコミュニオンではなく、 他 者 性 が 解 消 さ<br />

れることのないコミュニケーションである。「コミュニケーションとは、まず 何 よりも、この 有 限 性 の 分 有 と<br />

その 共 - 出 現 からなる。つまり、〈 共 同 での 存 在 〉を----まさしくそれが 一 つの 共 同 存 在 でないという 限 りで----<br />

成 り 立 たさせるものとして 開 示 される 脱 - 臼 と 問 い 質 しからなるのである」とナンシーは 書 く 11 。<br />

一 方 、 死 の 問 題 についても、 死 とは、ハイデガーが 正 当 に 指 摘 したように、 各 自 固 有 の 死 であり、 私 が 他 者 の<br />

代 わりに 死 ぬことができない、ということを 確 認 する。だが、それを 別 の 方 向 へと 発 展 させる。 一 方 、 他 者 は<br />

彼 が 私 とともにある 限 りで 死 ぬ。われわれは 互 いが 互 いへと 生 まれ、 死 ぬ。 相 互 に 露 呈 し、 根 源 の 露 呈 不 可 能<br />

な 特 異 性 を 露 呈 するのだ、と。それゆえ、 死 は「 主 体 に 対 して」 生 起 するのではなく、ただその 表 象 だけが「 主<br />

体 に 対 して」 生 起 する。しかし、それゆえにまた、「 私 の 死 」は「 私 」と 共 に 単 なる 消 失 のうちに 呑 み 込 まれ<br />

るのではない。 死 は 実 存 の 究 極 の 可 能 性 であるが 故 に、 実 存 そのものを 露 呈 させる。したがって、 死 は 本 質 的<br />

に 言 語 として 生 起 し、 言 語 は 常 に 死 について 語 る。<br />

このように、ナンシーの 身 振 りはハイデガーに 従 いつつも、そこから 離 れるものである。<br />

ハイデガーに 従 って、 自 分 の 固 有 な 死 への 関 係 が、「その 最 も 固 有 の 存 在 を、 自 己 自 身 から 引 き 受 ける」(SZ,<br />

S.263)ことにあるとしても、この 引 き 受 けは、ハイデガー 自 身 の 断 定 に 反 して、「 一 切 の 共 - 存 在 の 妥 当 性 を<br />

止 める」ことを 含 意 しない 12 。ESP179/114<br />

なぜなら、「 私 の 死 とは、 他 の 実 存 者 たちの 固 有 の 可 能 性 の「 最 も 固 有 の」 共 - 可 能 性 」だとナンシーは 考 える<br />

からである。とはいえ、ここで 問 題 になっているのは、 私 と 他 者 の 同 質 性 や 同 一 性 ではない。むしろ、 共 - 存<br />

在 は、 同 一 性 (mêmeté)に 帰 着 しない 他 者 を 指 し 示 す、つまり、 諸 根 源 の 複 数 性 を 指 し 示 す。〈 共 に〉の 正 確 な 尺<br />

度 mesure は、dis-position( 離 散 - 措 定 )そのものの 尺 度 であり、ある 根 源 から 他 の 根 源 への 隔 たりの 尺 度 であ<br />

る。ナンシーは、まさにこの 尺 度 をハイデガーが 認 めなかったとして 批 判 する。<br />

ハイデガーは、 彼 の Mitsein の 分 析 論 において、いまだにこの 尺 度 に 権 利 を 認 めていない。「 単 なる 隣 接 の<br />

無 関 心 」と、 本 来 的 な「 他 人 の 理 解 」( 略 )との 間 で、「 実 存 論 的 疎 隔 性 (Abständigkeit)」という 主 題 は、ただ<br />

ちに 競 合 と 支 配 へと 送 り 返 し、「ひと」の 無 差 別 な 支 配 へと 開 いている。「ひと」は、 全 員 の 全 員 に 対 する 一<br />

般 的 な 疎 遠 性 の 平 均 化 する 転 換 としてしか 生 み 出 されない。」(ESP 163/105)<br />

つまり、これは、ハイデガーの「ひと」に 対 する 否 定 的 評 価 に 対 する 批 判 なのである。「ハイデガーの「ひと」<br />

は、 実 存 的 な「 日 常 性 」の 原 初 的 な 把 握 としては 不 十 分 である。それは、 日 常 的 なものを、いまだ 差 異 化 され<br />

ないもの、 匿 名 的 なもの、 統 計 と 混 同 させる」(ESP39/27) 。 後 に 見 るように、この 日 常 性 の 否 定 的 評 価 は、『 存<br />

在 と 時 間 』の 構 造 と 無 縁 ではない、とナンシーは 考 える。そして、この 不 完 全 性 が、ハイデガーの 分 析 の 開 放<br />

性 にもかかわらず、 閉 塞 の 原 理 を 内 包 し、「 共 - 存 在 」を「 民 族 」や「 運 命 」で 満 たし、それらに 閉 じ 込 めるこ<br />

との 原 因 になったと 批 判 している 13 。<br />

11 ここでも、ナンシーは 注 に 次 のように 記 す。「この 意 味 で、 個 々の 特 異 存 在 の 共 - 出 現 com-parution は、ハイデガーが 前 言 語 的 な<br />

「 解 釈 [Auslegung]として 理 解 している 言 語 の 前 提 条 件 に 先 行 するものでさえある」(CD 53/73)<br />

12 […] si le rapport à la mort propre consiste, selon Heidgger, à « assumer de soi-même son être le plus propre », cette assomption n’implique<br />

pourtant pas, contrairement à l’assertion du même Heidegger, que « cesse la pertinence de tout être-avec ».<br />

13 とはいうものの、 同 時 に 注 において、『 哲 学 への 寄 与 論 考 』の 読 解 によって、 再 解 釈 が 可 能 であると 示 唆 している。「『 存 在 と 時 間 』<br />

を 書 き 直 さねばならない。それは 馬 鹿 げた 野 望 でもなければ、「 私 のもの」でもなく、われわれのものである 限 りでの、 重 要 作 品 の<br />

必 然 性 である」(ESP 185/118)<br />

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ナンシーの 方 はといえば、 根 源 的 な 経 験 のうちにむしろ、「 分 有 」partage というテーマを 見 出 す。 共 通 の 根 源<br />

をもちはしないが、それでも、 根 源 的 に 共 同 で 存 在 する、 共 に 存 在 すること。ナンシーにとって、「 共 に」と<br />

はどのようなものか。「「 共 に 」 は 、 各 々、そのつど、その 場 所 に 留 まるものの 置 換 である。「 共 に」とは、 他<br />

者 なき 置 換 である。」(ESP 186/118)とされる。だが、ここでいう「 共 に」はなんらかの 他 者 の 現 存 を 問 題 にす<br />

ることではない。むしろ、「 他 者 」については、 陥 穽 もあることが 指 摘 される。なぜなら、 他 者 とはつねに 媒<br />

介 者 だからである(そのプロトタイプがキリストだ)。むしろ、 媒 介 者 なき 媒 介 こそが 問 題 にされねばならな<br />

いというのだ。 媒 介 者 なき 媒 介 、これこそが、ナンシーの 考 える、 中 間 - 場 milieu であり、 分 有 partage と 移 行<br />

passage の 場 ということになる。<br />

以 上 見 てきたように、ナンシーにおける「 共 存 在 」は、「われわれ」を 要 請 する。ただ、それはけっして 既<br />

存 の 共 同 体 には 還 元 されるものではない。 構 成 員 を 死 へと 駆 り 立 てる 共 同 体 ( 国 家 、 民 族 など)とはまったく<br />

違 うのだ。「それは 自 らの 作 品 に 向 けて 構 制 されているというときのように 死 に 向 けて 構 制 されているのでは<br />

ない。 共 同 体 は 作 品 でもなければ、 死 の 営 みを 果 たすことでもない」(CD 28/41)と 述 べるナンシーにとって<br />

事 態 はむしろ、まったく 逆 であり、ここで 問 題 となる 共 同 体 とは、 極 言 すれば、どこにもない 何 かである。<br />

言 い 換 えれば、ナンシーの 共 同 体 論 は、ヘーゲルからハイデガーにいたるまで 構 想 されてきたような、 企 てと<br />

しての 集 団 でも、 集 団 的 な 企 てとしての「 民 族 の 精 神 」とも 根 本 的 に 異 なるものである 14 。 言 い 換 えれば、 共<br />

同 体 の 機 能 は、その「 成 員 」に、 死 すべきものだという 真 実 を 呈 示 すること 以 外 の 何 ものでもない。そして、<br />

この 立 論 にはバタイユの 思 想 が 援 用 されているのだが、ここでは、それを 指 摘 するに 留 め、 次 のテーマ、「 自<br />

由 」に 移 りたい。<br />

2 自 由<br />

最 初 にも 述 べたように、ナンシーがハイデガーを 全 面 的 に 参 照 すると 同 時 に 対 決 することになるのは、 彼 の 主<br />

著 の 一 つ『 自 由 の 経 験 』(1988)においてである 15 。『 自 由 の 経 験 』は、〈 意 志 の 自 由 〉あるいは libre arbitre を 中<br />

心 とした 従 来 の 自 由 論 の 系 譜 に 終 止 符 を 打 つために 構 想 されたものであり、その 出 発 点 となるのがほかならぬ<br />

ハイデガーの 自 由 論 なのだ。カント、シェリング、ヘーゲルを 読 解 するハイデガーに 導 かれながら、ナンシー<br />

は 自 由 という 主 題 を 問 うことの 必 要 性 、それが 遭 遇 する 困 難 、 自 由 と 哲 学 の 関 係 などについて 議 論 を 進 めるが、<br />

後 半 に 入 ると、ハイデガーに 抗 しながら、 共 同 体 、 平 等 、 悪 、 決 断 などのモチーフが 独 自 の 視 点 から 論 じられ<br />

ることになる。<br />

ナンシーが 展 開 するきわめて 精 緻 な 議 論 と、 複 雑 な 問 題 をかなり 単 純 化 して、レジュメすることになるが、お<br />

許 し 願 いたい。 本 書 はいわゆる 序 論 、 本 論 、 結 論 という 形 式 を 取 っていないが、 最 初 の3 章 (1「 自 由 という<br />

主 題 テーマの 必 然 性 。 混 然 とした 前 提 と 結 論 」、 2 「 自 由 の 問 題 の 不 可 能 性 。 混 在 する 事 実 と 権 利 」3「 我 々<br />

は 自 由 について 自 由 に 語 り 得 るか」) がいわば 導 入 部 となっている。ナンシーによれば、 自 由 は 証 明 されるべ<br />

きものであるよりは、むしろ 試 練 épreuve あるいは 経 験 = 実 験 expérience の 次 元 で 現 われる。つまり、 自 由 の<br />

証 拠 preuve はその 実 存 のうちにある。そして、この 証 拠 あるいはこの 経 験 が 何 を 提 示 しているかといえば、<br />

それは、「 自 己 固 有 の 本 質 としての 実 存 は 存 在 の 自 由 以 外 の 何 ものでもない」(EL34/29)ということである。<br />

14 ナンシーは、「 同 じハイデガーが、 民 族 そして 運 命 という、 少 なくとも 部 分 的 は 主 体 考 えられたもののヴィジョンのうちに 踏 み 迷 っ<br />

てしまう」CD27 と 言 って 批 判 する。<br />

15 『 自 由 の 経 験 』( 澤 田 直 訳 、 未 來 社 、2000 年 )。L’expérience de la liberté Galilée, 1988. EL と 略 記 。<br />

-5-


その 意 味 で、 自 由 と 実 存 とは 等 価 である。しかし、それは、 自 由 の 問 題 を 問 うことの 困 難 さも 同 時 に 示 してい<br />

る。 事 実 問 題 と 権 利 問 題 が 混 じり 合 っているからだ。 別 の 観 点 からすると、 自 由 は、 問 いの 対 象 となることは<br />

できず、ただ 自 己 の 肯 定 の 賭 け 金 なのだと 言 うこともできる。ところが、カントは 自 由 を「 因 果 性 の 特 殊 な 種<br />

類 」と 捉 えたために、「 自 由 は 因 果 性 の 一 種 ではない」という 事 実 を 取 り 逃 がしてしまった。このあたりの 事<br />

情 を 見 事 に 指 摘 したのがハイデガー(『 人 間 的 自 由 の 本 質 に つ い て 』) だとナンシーは 指 摘 する。<br />

ナンシーによれば、ハイデガーは、 自 由 の〈 事 実 〉の 規 定 に 関 してカントとは 別 の 方 向 に 向 かうことで、 因 果<br />

性 に 対 する 自 由 の 関 係 を 逆 転 し、 自 由 の 問 題 を 優 れて 存 在 論 的 な 問 題 の 位 置 へと 昇 格 させた。つまり、ハイデ<br />

ガーはカントの 考 察 から 出 発 し、それを 再 検 討 し、 自 由 の 実 在 性 の 究 明 を〈 実 践 〉の 特 有 な「 実 在 性 の 様 態 」<br />

のパースペクティヴへと 置 いたのだ。<br />

ところで、ハイデガーのこの 挙 措 は 何 をもたらしたのだろうか。まずは、 理 性 の 実 践 がもつ 固 有 の 事 実 性 の 発<br />

見 である。そして、それによって、 理 性 は 意 志 と、さらには 意 欲 および 義 務 と 結 びつけられることになる。と<br />

いうのも、「この 事 実 性 は、 意 志 が 自 分 自 身 に 対 してもつ 義 務 的 関 係 と 無 縁 ではない」(EL 41/33)からであり、<br />

と 同 時 に、「この 意 志 の 義 務 的 関 係 自 体 は、 義 務 が 自 分 自 身 に 対 してもつ 意 志 的 関 係 でもある」(EL 41-42/34)<br />

からでもある(そうはいっても、ここで 問 題 となっているのが、 主 体 ( 自 我 )の 意 志 や 意 欲 でないことには 十 分<br />

な 注 意 が 必 要 である)<br />

このように 事 実 問 題 と 権 利 問 題 が 織 りなす 錯 綜 とした 関 係 を 指 摘 しながらナンシーは、 自 由 とは、 自 己 が 自<br />

己 へと 向 けて 超 越 することだと 明 言 する。ここで 言 う 超 越 とは、 限 界 へと 赴 くこと、 限 界 において 露 呈 exposé<br />

されていることを 意 味 する。つまり、つねに 外 へと 向 かうという 意 味 での 実 存 = 外 存 existence というありか<br />

ただ。したがって、 自 由 は 実 存 の 本 質 なのである 。<br />

哲 学 者 はひとつの「 自 由 」の 原 理 の 自 明 性 と 根 拠 としてのこの 同 じ 自 由 の 終 局 的 なアポリアとの 間 で 板 挟 みに<br />

なっている」(EL 59/47)が、それは 自 由 に 関 する 思 考 を 諦 め、 放 棄 することではない。このような 事 態 にも<br />

かかわらず、 哲 学 は 自 由 についての 思 考 を 続 けざるをえない。なぜなら、 思 考 とは、 自 由 へと 向 けられた 自 由<br />

のことにほかならないからだ。それでは、どうすれば、このアポリアから 抜 け 出 すことができるのだろうか。<br />

その 突 破 口 がハイデガーの 所 作 のうちに 見 いだされる。<br />

こうして、 第 四 章 からナンシーはハイデガーの 自 由 論 の 変 遷 をていねいに 追 う 作 業 を 始 める。『 存 在 と 時 間 』<br />

(1927)、『 論 理 学 の 形 而 上 学 的 始 原 根 拠 』 (1928)、『 根 拠 の 本 質 』(1929)、『 人 間 的 自 由 の 本 質 に つ い て 』 (1930)<br />

から『シェリング 講 義 』(1936)へといたるハイデガー 思 想 における 自 由 問 題 の 変 遷 を 追 うことで、ナンシーは<br />

1934 年 にひとつの 断 絶 を 見 出 す。そこを 境 に 自 由 の 探 求 が 打 ち 切 られたのだ。 当 初 、スピノザ、カント、シ<br />

ェリング、ヘーゲルにも 比 肩 するあり 方 で 自 由 を 問 題 にしてきたハイデガーにいったい 何 が 起 こったのだろう<br />

か。 自 由 を「 存 在 の 問 いが 根 をもつような、 哲 学 の 根 本 的 な 問 い 16 」としてきたハイデガーが、なぜその 分 析<br />

するのをやめ、〈 自 由 な 開 けた 空 間 〉(das Frei)のモチーフへと 移 っていたのだろうか。このような 問 いを 立<br />

てたナンシーは 以 下 のように 答 える。それは、シェリングの 自 由 論 を 読 解 するうちに、その 長 所 とともに 限 界<br />

をも 理 解 したためだ、つまり、「 必 然 としての 自 由 と、 善 と 悪 の 相 関 的 な 可 能 性 とのもとにある 始 源 的 な 統 一<br />

を、シェリングがラディカルに 考 えるにいたらなかった」ことに 気 づいたためなのだ。その 結 果 、シェリング<br />

の 自 由 が 参 照 項 として 放 棄 されるだけでなく、 自 由 の 観 念 までも 形 而 上 学 的 なものとして 放 棄 されることにな<br />

る。<br />

ところで、ハイデガーの「 自 由 」の 放 棄 は、 他 のより 本 来 的 な「 自 由 」の 名 のもとに 行 なわれている。つまり、<br />

人 間 の 自 由 ないしは 主 体 の 自 由 は、 存 在 の 自 由 のために 放 棄 されたとナンシーは 分 析 する。このことは 1943<br />

16 『 人 間 的 自 由 の 本 質 について』『ハイデガー 全 集 』 第 31 巻 、p. 296。<br />

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年 の「 演 習 ノート」からだけでなく、 同 時 代 の『 真 理 の 本 質 について』から 読 み 取 ることができる。 言 表 との<br />

一 致 として 解 された 真 理 が、 自 由 と 関 係 づけられことになるのだ。こうして、 自 由 とは 存 在 者 の「 開 在 性 」を<br />

指 し 示 すものになる。ハイデガーは、 自 由 は「 自 由 意 志 の 気 まぐれでも、 必 然 性 を 受 け 入 れる 用 意 ができてい<br />

ることでもない 17 」と 明 言 するにいたるのだ。このように、ナンシーは、ハイデガーの 思 索 の 長 い 道 のりを 辿<br />

りながら、『 存 在 と 時 間 』の 哲 学 者 が 最 終 的 に、 特 質 = 固 有 性 propriété なり 力 pouvoir としての 自 由 から、「 自<br />

由 な 開 けた 場 所 」という 特 有 な 境 位 へと 移 行 したことを 確 認 する。<br />

詳 細 の 分 析 を 経 て、ナンシーが 得 た 結 論 は 何 だろうか。それはハイデガー 思 想 の 彼 方 に 垣 間 見 える、 存 在 の 退<br />

- 隠 と 自 由 の 特 異 な 事 実 性 との 相 関 関 係 である。これこそが 明 らかにされるべき 問 題 である。つまり、「ハイデ<br />

ガーによって 自 由 なままに 残 された 空 間 」のうちで、 自 由 についての 新 たな 考 察 が 展 開 されなければならない 、<br />

とナンシーは 断 言 する。<br />

哲 学 は 伝 統 的 につねに 自 由 をオリジンとして、エレメントとして、さらには 思 考 の 最 終 的 な 内 容 として 考 える<br />

ことによって、 了 解 可 能 なものとして 捉 えてきた。だからこそ、カント 以 降 ヘーゲル、ニーチェ、さらにはハ<br />

イデガーにいたるまで、 自 由 の 思 考 はいわば 自 由 という「 必 然 の 必 然 」を 了 解 する 方 向 へと 進 むことになる。<br />

ところが、そうなると、 逆 説 的 にも、 自 由 は 取 り 逃 がされてしまうことになる、とナンシーは 批 判 する。むし<br />

ろ 了 解 不 可 能 なものとして 現 れる 自 由 を 了 解 するべきであり、この 思 考 の 限 界 に 挑 むべきなのである。ハイデ<br />

ガーは「 我 々が 了 解 できることは、 自 由 が 了 解 不 可 能 だということだけだ」と 述 べたが、 了 解 不 可 能 性 を 了 解<br />

するとはどういうことなのかが 問 われねばならない。<br />

以 上 の 分 析 からナンシーは、 自 由 と 思 考 の 共 属 性 を 導 き 出 す。つまり、 自 由 とは 何 よりも〈 贈 与 性 〉だと 考 え<br />

られるべきだが、その 自 由 が 与 えるものが、ほかならぬ 思 考 そのものだという 循 環 構 造 が 見 られるのである。<br />

だが、このあたりから、ナンシーはハイデガーから 少 しずつ 離 れていくことになる。 例 えば、ハイデガーが 考<br />

えたのとは 異 なり、 跳 躍 は 思 考 の 自 由 な 決 断 ではない、とナンシーは 断 じる。むしろ 自 由 こそが 跳 躍 するので<br />

あり、 自 由 が 思 考 を 与 えるのだ、と 18 。このように、『 自 由 の 経 験 』はハイデガーとの 全 面 的 な 対 話 によって 成<br />

立 しているが、 共 同 体 という 主 題 の 場 合 と 同 様 、ナンシーは、たとえば、アレントなどを 援 用 することで、 意<br />

図 的 に 距 離 を 取 ろうとしていることが 随 所 に 見 て 取 れる。<br />

3 イメージ・ 像<br />

第 三 のテーマ、イメージに 移 ることにしよう。ナンシーは 1990 年 代 から 多 くの 芸 術 論 、 絵 画 論 を 発 表 するよ<br />

うになる 19 。おそらく 一 連 の 論 考 の 先 駆 けとなったのは、1984 年 発 表 の「 崇 高 の 贈 り 物 」であろう。カントの<br />

〈 図 式 〉が 再 解 釈 されるこの 論 考 での 対 話 相 手 がカント、そしてヘーゲルであることは 当 然 だろう。ただし、<br />

ハイデガーの 読 解 に 関 する 明 示 的 な 言 及 はない 20 。「 崇 高 の 贈 り 物 」で 素 描 されたイメージ 論 が 新 たに 展 開 され、<br />

ハイデガーが 重 要 な 参 照 項 として 論 じられるには、2002 年 に 発 表 された 論 考 「 仮 面 の 想 像 力 」を 俟 たねばなら<br />

17 『 真 理 の 本 質 について』 全 集 9 巻 p. 189。<br />

18<br />

決 断 に 関 しては、「 実 存 の 決 断 」と 題 する 論 考 において、『 存 在 と 時 間 』の 精 読 という 形 でより 精 緻 な 考 察 を 行 っているが、そこ<br />

にはナンシー 自 身 の 自 由 論 の 主 張 がこだましている。« La décision d’existence », in « Etre et temps » de Martin Heidegger, collectif,<br />

Marseille, Sud, 1989.<br />

19 『 女 神 たち』(1994)『 肖 像 の 眼 差 し』(2000)『 訪 問 ----イメージと 記 憶 をめぐって』(2001)『 映 画 の 明 らかさ』(2001)、『イメージの 奥<br />

底 で』(2003)、『 私 に 触 れるな----ノリ・メ・タンゲレ』(2003) 等 。<br />

20 そこで、 他 の 思 想 家 の 引 用 を 連 ねるのだが、ベンヤミン(「ゲーテの『 親 和 力 』」)、アドルノ(『 美 の 理 論 』)、バタイユ、ブランショ<br />

(「 文 学 と 死 への 権 利 」)と 並 んで、ハイデガーの「 芸 術 作 品 の 起 源 」も 引 用 されている。<br />

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ない。アウシュヴィッツにおける 表 象 ( 不 可 能 性 )の 問 題 を 扱 った 論 考 などを 含 む『イメージの 奥 底 で』 21 に<br />

所 収 されたこの 論 考 は、 論 集 の 理 論 的 中 核 をなすものだが、ハイデガーの『カントと 形 而 上 学 の 問 題 』の 19<br />

節 から 23 節 (だが、とりわけ 20 節 )、「 根 拠 づ け の 第 四 段 階 オントロギッシュな 認 識 の 内 的 可 能 性 の 根 拠 」<br />

の 精 読 である。Bild という 語 のカントによる 三 つの 意 味 ないしは 用 法 をめぐるハイデガーの 考 察 を 再 検 討 する<br />

ことによって、イメージの 本 質 を 理 論 的 に 解 明 しようと 努 めるナンシーは、 次 のような 引 用 からはじめる。<br />

「 像 」(Bild)とはさしあたり、 眼 前 にあるもの(Vorhandenes)として 顕 わ(offenbar)であるかりぎにおける 一 定 の<br />

存 在 者 の 提 供 する 光 景 = 眺 め(Anbick)である。(AFDI 186/155)<br />

D’ordinaire on appelle « image » (Bild) la vue (Aublick) qu’offre un étant déterminé en tant qu’il est manifesté (offenbar)<br />

comme présent (Vorhanden) 22 .<br />

この 後 につづくくだり 23 をほぼハイデガーの 言 葉 通 りに 敷 衍 した 後 、ナンシーは、「それゆえ、 我 々の 前 には<br />

まず 直 接 的 外 観 であるイメージがあり、ついで 肖 像 - 再 現 - 模 範 {モデル}というミメーシス 的 三 重 性 があるが、<br />

ハイデガーはそこにさらに「 眺 望 一 般 」というきわめて 広 い 意 味 をつけ 加 えるのである」(AFDI 186/155)、 と<br />

パラフレーズした 上 で、ここでのハイデガーの 狙 いを 問 う。<br />

ナンシーによれば、ハイデガーはカントが 明 確 に 区 別 しなかった 以 上 の 三 つの 意 味 の 区 別 を 明 示 化 し、これら<br />

を 区 別 することで 図 式 機 能 を 解 明 しようしている。つまり、 第 三 の 意 味 である「 眺 望 のうちに 捉 えること 一 般<br />

の 可 能 性 の 産 出 」が、 第 二 の 意 味 である「あらゆる 種 類 のミメーシス 的 なイメージ」を 経 由 し、そこから 遡 行<br />

して、 第 一 の 意 味 である「 自 らを 見 せる 外 観 としての 像 Bild」の 根 源 的 価 値 へといかに 送 り 返 されるのかを 示<br />

そうとしているという。<br />

ナンシーによれば、このことは、ハイデガーが、ミメーシスをめぐる 諸 価 値 をいわば 転 倒 させて、 派 生 的 像<br />

Abbild は 直 接 的 に 像 として 自 己 を 示 すものの 模 写 つまりコピーでしかないが、しかしコピーは 事 物 をコピーす<br />

るとともに、 事 物 が〈 自 己 を 示 す〉そのありようをもコピーすると 考 えるということである。ナンシーがここ<br />

で 注 目 するのは、Abbild( 模 写 、 複 写 、 肖 像 )、Nachbild( 複 製 、 模 造 )、Vorbild( 手 本 、 模 範 )が、つねに、 像<br />

を 示 しながら、〈 自 己 を 示 す〉ものとしての 自 己 自 身 を 示 すという 点 である。イメージというものが 常 に、 自<br />

己 以 外 の 何 かに 送 り 届 けるものであると 言 うこと、 不 在 における 現 前 であるという 一 般 的 な 了 解 事 項 を 不 編 め<br />

た 上 で、ナンシーはここでこの 現 前 の 意 味 を、ハイデガーを 通 して 考 察 しようとするのだ。<br />

ハイデガーの 意 図 は 明 白 だ、とナンシーはコメントする。「それはイメージの 第 一 義 、つまり、あらゆる 事<br />

物 がみずからを 見 るべきものとして 与 え、みずからの 眺 めを 提 供 し、〜のように 見 え aussehen、〈 自 己 を 示 す こ<br />

とによって 外 見 をもつ〉という、この 作 用 である。このとき 事 物 は、 同 時 に「あたかもそれが 我 々を 見 つめて<br />

いるかのような」ものとして 理 解 される。こうしたイメージの 第 一 義 が、あらゆる 複 製 の 根 底 において 保 管 さ<br />

れるイメージの 根 源 的 で 固 有 な 価 値 をなしている」(AFDI 188-189/157)<br />

こうして、ナンシーはイメージの 発 生 に 見 られる 一 種 のキアスムあるいは 巻 き 込 みに 注 目 する。というのも、<br />

21 『イメージの 奥 底 で』( 西 山 達 也 ・ 大 道 寺 怜 央 訳 、 以 文 社 、2006 年 )。Au Fond des images, Galilée, 2003. 以 下 、AFDI と 略 記 。<br />

22 フランス 語 訳 は、Alphonse de Waelens と Walter Biemel によるもので、ドイツ 語 はナンシーが 追 加 したもの。<br />

23 こうした 意 味 から 派 生 して、 像 はさらに 次 のものを 言 うことができる。 眼 前 にあるものの 写 像 的 光 景 abbildender Anblick、ならびに<br />

もはやないものの 模 造 的 光 景 nachbildender Anblick、あるいはこれから 新 たに 作 り 出 されるべき 何 かの 予 像 的 光 景 vorbildender<br />

Anblick である。<br />

しかし〈 像 〉はさらに 光 景 一 般 についてまったく 広 い 意 味 も 持 ちうる。この 場 合 、このような 光 景 において 直 観 可 能 [ 可 視 的 ]になる<br />

のが 存 在 者 なのか 非 存 在 者 なのかどうかは 明 示 されない。(S.92-93)<br />

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ハイデガーの 論 を 進 めていけば、Bild の 奥 底 には、 私 たちへと 向 けられた 眼 差 しとして〈 自 己 を 示 す〉ところ<br />

の〈 自 己 を 示 すこと〉としての、 像 それ 自 体 の 写 像 Abbild があることになるからだ。その 意 味 で、「 最 初 のイ<br />

メージは、 我 々へと 向 けられた 眼 差 しとして〈 自 己 を 示 す〉。 イ メ ー ジ は 、 あ る 眼 差 し に 似 る こ と で イ メ ー ジ<br />

を 喚 起 する」(AFDI 190/158)とナンシーは 分 析 した 後 に、テクストを 次 のように 評 釈 する。<br />

あたかもハイデガーは 言 っているかのようである。 最 初 のイメージとは、つねに、あるイメージ( 示 し)<br />

のイメージ( 類 似 )である、と。じつのところ[ 奥 底 には]、イメージを 発 生 させるキアスムもしくは 巻<br />

き 込 みが 作 動 しているのである。イメージは、 見 ることに 類 似 することで 自 らを 見 るべきものとして 与 え、<br />

可 視 的 なものは、それ 自 身 が 見 ることをもつことで 自 己 を 呈 示 する。 最 初 のイメージはつねにひとつの 眼<br />

差 しのようでもある」(AFDI 190-191/158-159)<br />

このようにハイデガーの 論 に 立 脚 しつつ、ナンシーは、 私 たちがイメージを 見 るという 常 識 を 転 倒 させ、イメ<br />

ージが 成 立 するとすれば、それはイメージが 眼 差 されるからだけでなく、それ 自 体 が 眼 差 しに 似 ることで 自 ら<br />

を 示 すからだと 主 張 する。じっさい、イメージにイメージが 先 行 しているからこそ、カントの 図 式 は 機 能 する<br />

のだし、 想 像 力 とはこのような「みずからが 我 々に 呈 示 する 眺 めを、そしてそのおかげで 我 々が 表 象 をなしう<br />

るようになるところの 眺 めを、 自 分 自 身 に 先 んじて、 自 分 自 身 の 外 において 眺 める」(AFDI 194-195/162)こ<br />

とに 他 ならない。<br />

イメージの 自 らへの 先 行 性 がある、イメージの 自 らをイメージ 化 する 到 来 ないしは 出 来 がある、つまり<br />

イメージの 想 像 力 imagination があるのだ。この 想 像 力 こそが、 自 らの 前 かつ 外 で 眺 めを 見 るのであり、こ<br />

の 眺 めが 私 たちに 呈 示 され、この 眺 めのおかげで 私 たちは 自 らを 表 象 しうるのである。(AFDI 195/162)<br />

ここで 問 題 となっていることは、イメージの 発 生 の 根 源 にある、 自 己 呈 示 ( 現 前 )présentation の 問 題 である<br />

が、もう 一 つの 重 要 な 要 素 は、またもや「 死 」である。イメージの 問 題 は 死 と 結 びつく。その 点 で、ハイデガ<br />

ーが 写 像 的 光 景 Abbild とその 模 造 的 光 景 Nachbild の 関 係 を 説 明 するに 際 して、デスマスクとデスマスクの 写 真<br />

をもち 出 した 24 ことは 興 味 深 いとナンシーはコメントする。ナンシーは、なぜハイデガーがこのような 例 を、<br />

ほとんど 無 自 覚 的 に 持 ち 出 したのかについて、 経 験 的 理 由 と 超 越 論 的 理 由 の 二 点 から 推 察 する。 一 方 で 伝 記 的<br />

事 実 を 参 照 し、もう 一 方 で、ハイデガーにおける 隠 された 問 題 へと 迫 ろうとするナンシーの 所 作 はきわめて 刺<br />

激 的 だが、ここでは 詳 細 に 立 ち 入 る 余 裕 はない。デスマスクという 死 者 の 眼 差 しに 誘 われて、 見 る 者 が 見 るこ<br />

とのない 者 の 眼 差 しの 背 後 に 忍 び 込 み、その 眺 めを 眺 めのうちへと 置 くという 行 為 のうちにナンシーが 絵 画 と<br />

哲 学 の 共 通 点 を 見 ていることを 指 摘 するにとどめよう。<br />

4 キリスト 教 の 脱 構 築<br />

ここまで 三 つのテーマを 瞥 見 してきたのだが、それらはけっしてばらばらの 問 題 ではなく、ナンシー 思 想 の 屋<br />

台 骨 とも 言 うべき、〈キリスト 教 の 脱 構 築 〉という 問 題 設 定 のうちにある。そもそもデリダが 展 開 した「 脱 構<br />

築 」という 言 葉 の 淵 源 がハイデガーにあることからも 明 らかなように、ナンシーが、デリダを 経 由 しつつハイ<br />

24 (S.93)。<br />

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デガーの 系 譜 に 連 なることは 明 らかである 25 。だが、その 一 方 で、ナンシーはあくまでもキリスト 教 という 枠<br />

組 みを 自 らの 思 考 の 問 題 構 成 として 堅 持 している 点 も 忘 れてはなるまい。<br />

すでに 1987 年 「 神 的 な 様 々の 場 」 26 の 第 4 断 章 において、ナンシーは、ハイデガーの「 最 後 の 神 」(『 哲 学 へ<br />

の 寄 与 論 稿 』 所 収 )に 言 及 しながら、「 最 後 の 神 」とは、 時 系 列 に 最 後 に 位 置 し、 他 の 神 々の 系 譜 を 閉 じる 神<br />

ではない、とし、 到 来 すべき、あるいは 消 滅 すべき、 最 後 の 神 が 依 然 として 存 在 するということだ、と 指 摘 し<br />

た 上 で Wink に 着 目 して 考 察 を 展 開 している(DLD 23)。51 の 断 章 からなるこのテクストは、レヴィナスをハ<br />

イデガーと 結 びつけて 考 察 するくだりなどによっても、たいへん 興 味 深 いのだが、ここではハイデガーへの 言<br />

及 にのみ 絞 ることにする。<br />

Wink はフランス 語 には 適 切 な 訳 語 が 見 つからない 語 であるが、ナンシーはこれを faire signe(サインを 送 る、<br />

仕 草 をする、 記 号 をする)とパラフレーズする 27 。 到 来 するのであれ、 退 去 するのであれ、 神 の 通 過 、 束 の 間<br />

の 現 前 がシーニュをなす、とした 上 で、 次 のようにコメントする。<br />

神 はその 本 質 的 存 在 様 態 をウインクの 中 に 持 つ、 言 い 換 えれば、「サインを 送 り」、 呼 びかけ、 招 き、 導 き<br />

寄 せ、あるいは 誘 うためになされる 仕 草 の 中 、 目 配 せ、 手 振 りの 中 にある。DLD 24<br />

さらに 第 14 断 章 では、「 神 とは 何 か」という 問 いが、 祈 りを 欠 いた 人 間 、 神 的 な 名 を 欠 いた、さらに 言 えば、<br />

神 を 欠 いた 人 間 の 問 いであり、それこそがヘルダーリンの 問 いであり、ハイデガーはこの 詩 人 の 問 いを 省 察 し<br />

ようと 試 みた 上 で、それを 参 照 しつつ 述 べる 28 。<br />

ハイデガーはこう 書 いている「〈 不 可 視 なもの〉は、 自 らがそうである 未 知 のもののままに 留 まるために 贈<br />

り 与 えられる」と。 神 とは 何 か。 未 知 のままに 留 まろうとする 者 。 神 とは、「 我 々の 傍 らにあろうとする」<br />

ヘーゲル 的 な〈 絶 対 者 〉ではない。DLD45<br />

この 二 つの 例 にも 端 的 に 示 されるように、「キリスト 教 の 脱 構 築 」という 問 題 構 成 においてもハイデガーは 随<br />

所 で 参 照 されている。とりわけ、 神 なき 世 界 を 単 に 人 間 化 しようとする 思 想 への 反 論 としても、ハイデガーは<br />

召 喚 される。 人 間 中 心 主 義 は 存 在 -( 無 )- 神 論 の 構 築 をなんら 変 えなかったし、 人 間 性 という 原 理 にふさわし<br />

い 位 置 に 自 らを 高 めることもなかったと、ハイデガーを 援 用 しながら 断 じるのである 29 。<br />

もちろん、ここでも 全 面 的 な 賛 同 という 訳 ではなく、たとえば、 悪 や 罪 に 関 してはいくつもの 留 保 が 付 けられ<br />

る。たとえば、ナンシーによれば、 罪 に 関 する 条 件 の 真 理 は、 単 なる 過 失 の 償 いではなく、 贖 罪 rachat へと 通<br />

じる。 神 は 救 済 によって、 人 間 が 罪 と 共 に 負 ってきた 負 債 を 帳 消 しにするのだが、この 負 債 とは 自 己 それ 自 体<br />

の 負 債 に 他 ならない。その 意 味 で「 罪 とは、 実 存 そのものが 負 債 を 負 っていることだ」とナンシーはまとめ、<br />

25 ナンシー 自 身 の 次 のような 説 明 を 参 照 。「「 脱 構 築 」はその 起 源 を、この 語 が 登 場 する『 存 在 と 時 間 』のテクストのなかにもってい<br />

ることを 改 めて 考 慮 に 入 れるならば、「 脱 構 築 」には 次 のような 特 殊 な 点 があります、つまり、それは 伝 統 の 最 終 状 態 なのです---- 伝<br />

統 全 体 を 我 々へと、またわれわれを 介 して、あらためて 伝 達 することとしての 最 終 状 態 なのです。『 脱 閉 域 キリスト 教 の 脱 構 築 1』<br />

( 大 西 雅 一 郎 訳 、 現 代 企 画 室 、2009 年 ), p. 293. La Déclosion (Déconstruction du christianisme, 1), Galilée, 2005,p. 215. 以 下 DDC と 略<br />

記 。<br />

26 『 神 的 な 様 々の 場 』( 大 西 雅 一 郎 訳 、ちくま 学 芸 文 庫 、2008 年 )Des lieux divins, Mauvezin, TER, 1997. 以 下 、DLD と 略 記 。<br />

27 ナンシーは 同 じ 問 題 を「 神 的 なウインクについて」 « D’un Wink divin »(『 脱 閉 域 キリスト 教 の 脱 構 築 1』 所 収 )で 再 び 取 り 上 げて<br />

いる。<br />

28 ヘルダーリンを 論 じた「 詩 人 の 計 算 」では、ハイデガーによる 解 釈 にはあえて 触 れられない。その 理 由 をナンシーは 注 の 形 で<br />

記 している。『 神 的 な 様 々の 場 』( 大 西 雅 一 郎 訳 、ちくま 学 芸 文 庫 、2008 年 )p. 247 。<br />

29 「 無 神 論 と 一 神 教 」(『 脱 閉 域 キリスト 教 の 脱 構 築 1』 所 収 )DDC 41。<br />

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現 存 在 の 有 責 性 Schuldigkeit を 論 じたハイデガーを 援 用 するが、そこに 留 保 をつける。ハイデガーが 過 失 ないし<br />

は 負 債 のカテゴリーから 実 存 論 的 な 負 い 目 を 切 り 離 そうとするのに 対 して、ナンシーは、むしろ 負 い 目 こそ、<br />

実 存 の 負 債 状 態 としていの 罪 の 本 質 を 体 現 しているのではないかと 考 えるのである。<br />

ハイデガーは、 実 存 的 な Schuldigkeit を「 過 失 」のカテゴリーないし「 負 債 」のカテゴリー(この 用 語 の<br />

存 在 者 的 な ontique 意 味 での)から 切 り 離 そうとする。それに 対 して、 私 はこの Schuldigkeit が 実 存 の 負 債 状<br />

態 としての 罪 の 本 質 を 体 現 しているのではないかと 思 うのです。---- 実 存 の 負 債 状 態 は 一 挙 に 以 下 のことを<br />

意 味 します。つまり、 実 存 自 身 が 負 債 を 追 っていることであり、また、 実 存 が 何 を 負 債 として 負 っているか<br />

といえばそれは 紛 れもなく、 実 存 自 身 、 自 己 なるもの、 実 存 の 自 己 性 ipséité についての 負 債 であると 言 うこ<br />

とです。(DDC307/225)<br />

このくだりからも、ナンシーが、 実 存 をあらゆる 形 で 自 律 と 規 定 するような 考 えに 抗 して、 共 同 性 という 補 助<br />

線 を 引 きつつ 考 察 しようとしていることが 見 てとれよう。<br />

まとめにかえて<br />

ここまで 駈 け 足 で、ナンシーが 行 ってきたハイデガーとの 対 話 の 跡 を 追 ってきた。その 特 徴 は、 最 初 にも 述 べ<br />

たように、 思 考 の 出 発 点 としてのハイデガー 思 想 の 重 要 性 を 認 めつつ、それを 全 面 的 に 認 めるのではなく、 批<br />

判 的 に 再 読 解 すること、そして、そこから 自 分 なりの 新 たな 問 題 構 成 を 練 り 上 げることにある。ところで、こ<br />

のようなナンシーの 所 作 は、 彼 自 身 が 指 摘 したハイデガーのカントに 対 する 身 振 りに 似 ているように 思 う。<br />

その 上 で、ナンシーがハイデガー 思 想 の 何 を 受 け 取 り、 何 を 斥 けるのかを 確 認 することで 本 発 表 を 閉 じたい。<br />

共 存 在 、 自 由 、イメージ 論 に 共 通 するものは 何 か。おそらく、それは、 自 律 的 な 主 体 に 先 立 つ 実 存 の 経 験 = 体<br />

験 expérience、ナンシーの 表 現 を 用 いれば、 有 限 性 への 露 呈 exposition ということになろう。そして、また 時 間<br />

性 と 空 間 性 のうちに、 他 者 と 共 に 投 げ 入 れられてあるという、いわば 絶 対 的 な 受 動 性 、 有 限 性 の 契 機 である。<br />

ただ、その 際 に、ナンシーは 特 異 でありながら 普 遍 的 な、 単 独 でありながら 複 数 的 な、 無 数 の 存 在 者 たちと〈 共<br />

に〉あるという 仕 方 でのみ 存 在 するという 点 をとりわけ 強 調 する。そして、まさにこの〈 共 に-ある〉être-avec<br />

こそが、ナンシーとハイデガーの 分 水 嶺 でもある。<br />

それは、ハイデガー 本 人 の 政 治 的 振 る 舞 いに 対 する 批 判 とも 関 係 するが 30 、とりわけ、ハイデガーの 言 語 ・ 思<br />

考 観 との 関 係 で 言 えば、 特 定 の 言 語 や 民 族 に 思 考 が 根 ざすという 考 えを 斥 ける 点 は 明 瞭 である。つまり、 存 在<br />

史 において 特 定 の 言 語 や 民 族 に 特 権 性 を 与 えることをナンシーは 断 固 として 拒 否 する。<br />

このあたりの 経 緯 については、『 哲 学 的 クロニクル』において 明 瞭 に 語 られている 31 。ハイデガーは、 日 常 性<br />

との 差 異 を 際 立 たせることで、 歴 史 への 要 請 を 打 ち 立 てた。つまり、 日 常 性 が 非 本 来 的 であり、 非 固 有 である<br />

のに 対 して、 歴 史 を 受 容 する 能 力 のある 民 族 の「 本 来 性 」authenticité なり「 固 有 性 」propriété を 対 峙 させた。<br />

ところが、この 日 常 性 は、 一 方 では 存 在 論 的 経 験 の 地 盤 、つまり 実 存 することの 前 - 存 在 論 的 地 盤 であるとも<br />

されていたのである(ナンシーがハイデガーに 見 出 した 重 要 なトポスがこの 地 盤 であることはすでに 繰 り 返 し<br />

30 ナンシーは、ハイデガーとナチスに 関 する 一 連 の 論 争 においては、つねに 冷 静 で 距 離 を 保 った 姿 勢 を 貫 いている。ナンシー<br />

が 問 うべきだとする 根 本 問 題 は、ハイデガーほどの 一 級 の 哲 学 者 が、 政 治 的 な 次 元 でこれほど 踏 み 誤 ったことの「 理 論 的 かつ 歴<br />

史 的 な 可 能 性 の 条 件 」である。『 哲 学 的 クロニクル』( 大 西 雅 一 郎 訳 、 現 代 企 画 室 、2005 年 )、p. 48。Chroniques philosophiques,<br />

Galilée, 2004, p. 39.<br />

31<br />

以 下 は、『 哲 学 的 クロニクル』の 7 章 以 降 のパラフレーズである。<br />

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て 述 べた)。ナンシーは、ここに 大 きな 矛 盾 ないしは 変 更 を 見 てとる。つまり、この 地 盤 を 立 ち 去 り、 日 常 的<br />

な 共 実 存 coexistence の 複 数 性 から、「 死 への 存 在 」の 単 独 性 へと 方 向 転 換 し、ついでこの 単 独 性 を、 民 族 の 歴<br />

史 的 = 歴 運 的 な 共 同 性 のうちで 乗 り 越 えようとするという 流 れが『 存 在 と 時 間 』のうちに 読 み 取 れる、と 言 う<br />

のである。<br />

2014 年 刊 行 の『ハイデガーの 凡 庸 さ』については 触 れることができなかったが、いわゆる『 黒 ノート』の 内<br />

容 は、ナンシーにとって 衝 撃 ではなかった。デリダ(「ハイデガーの 手 」)を 始 め、 数 々の 真 摯 な 論 考 が 示 す 様<br />

に、ハイデガーにおける 反 ユダヤ 主 義 的 傾 向 は 疑 いようのないことだったからである。とはいえ、ナンシーは<br />

ハイデガーの 伝 記 的 事 実 と 思 想 とを 截 然 と 区 別 し、それで 事 足 れりとするのでは 全 くない。また、 単 純 にナチ<br />

ス 党 員 であったという 事 実 や 反 ユダヤ 主 義 的 発 言 をしたという 事 実 をもって、 糾 弾 スするのでもない。 重 要 な<br />

のは、こういった 伝 記 的 事 実 と 思 考 との 関 係 を 逐 一 検 討 し、 両 者 の 間 に 切 り 結 ばれる 根 本 的 な 問 題 を 考 察 する<br />

ことである、とナンシーは 考 える。それ 以 外 にも 問 わねばならない 問 題 はいくつかある。たとえば、ペーター・<br />

トラヴニーがきわめて 的 確 に「 存 在 史 的 反 ユダヤ 主 義 」と 呼 ぶものが、なぜ 公 刊 されたテクストから 排 除 しさ<br />

れたのかという 点 。ハイデガーのこの 所 作 は 何 を 意 味 するのか。また、「 私 た ち 」 と ハ イ デ ガ ー の 関 係 も 問 わ<br />

れねばならない。 私 たちは、ハイデガーをどのように 読 み 続 くべきなのか、という 開 かれた 問 いが 残 るのだ。<br />

そして、この 問 いは 閉 じられることなく、おそらく、 今 後 もナンシーが 問 い 続 けていくものだと 思 われる。<br />

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