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戦争と石油(5) - JOGMEC 石油・天然ガス資源情報

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戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-にリバウ 港 を 出 航 した。ジブラルタル 沖 で 喜 望 峰 を 回 る 本 隊 と、 地 中 海 、スエズ 運 河 を 通 過 する 支 隊 とに 分 かれた。 戦 艦 群 は 積 載 量 ギリギリまで搭 載 された 砲 弾 、 燃 料 、 食 糧 などの戦 闘 と 航 海 の 必 需 品 で 喫 水 が 下 がり、スエズ 運 河 を 通 航 することができなかったのである。また、 当 時 、 運 河の 水 深 が 浅 く 通 過 船 舶 は 排 水 量 1 万 トン 程 度 が 限 度 であった。 分 離 した 艦隊 はインド 洋 のマダガスカル 島 ( 当 時フランス 領 )で 再 び 合 流 した。この 太平 洋 第 二 艦 隊 はフランス 領 インドシナ( 現 在 のベトナム)のヴァン・フォン 湾 で 後 を 追 いかけてきた 太 平 洋 第三 艦 隊 と 合 流 しバルチック 艦 隊 は 一つとなった。この 航 海 の 途 上 、 第 二 艦 隊 主 力 はマダガスカル 島 で66 日 、ヴァン・フォン 湾 で 約 31 日 の 日 数 を 浪 費 してしまった。 理 由 は 後 続 した 第 三 艦 隊 との 合 流 と 石 炭 の 補 給 であった。 石 炭の 補 給 は 艦 隊 に 随 行 したドイツのハンブルク・アメリカ 汽 船 会 社 が 請 け負 っていた。しかし、 給 炭 船 の 積 載分 だけでは 石 炭 が 足 りず、 艦 隊 は 途上 の 寄 港 地 で 調 達 する 必 要 があった。当 時 、 英 国 はアジアで 勢 力 を 伸 ばそうとするロシアに 対 して 日 本 と 日英 同 盟 (1902 年 締 結 )を 結 んでそれを阻 止 しようとした。 日 本 を 盾 としてロシアに 当 たらせる 戦 略 であった。そのため、 英 国 は 執 拗 にロシア 側 を妨 害 した。さらに、 英 国 はロシアに協 力 的 なフランスを 中 立 国 違 反 として 強 く 非 難 したため、フランスもロシアに 非 協 力 的 な 対 応 を 取 らざるを得 なかった。このことが、バルチック 艦 隊 に 時 間 を 浪 費 させ、 兵 員 の 士気 を 低 下 させた。バルチック 艦 隊 の 最 後 の 補 給 地ヴァン・フォン 湾 では、ドイツの 給炭 船 がサイゴンに 備 蓄 していた 石 炭をピストン 輸 送 して 各 艦 を 満 載 状 態にした。この 時 、 艦 隊 の 戦 艦 には 石炭 庫 、 上 甲 板 、 士 官 室 、 浴 室 、 食 器室 はもちろんのこと、 艦 長 室 まで 石炭 袋 が 山 積 みにされた。戦 艦 「オリヨール」に 水 兵 として 乗船 し、 幸 運 にも 生 還 することができたノビコフ・プリボイはその 著 書 『ツシマ』のなかでこの 石 炭 の 積 み 込 みについて 次 のように 描 写 している。「 石炭 搭 載 の 時 はいつもそうだが、 士 官も 加 わって 総 員 がかりで 作 業 に 従 った。この 石 炭 搭 載 というやつは、 実に 原 始 的 な 方 法 でやった。 一 部 の 者が 石 炭 船 の 船 倉 にいて 石 炭 を 袋 に 詰め 込 む。 他 の 者 がそれをボートに 積み 込 んで、 本 艦 なり 他 艦 なりへ 運 ぶ。まきあげきそれから 捲 揚 機 で 石 炭 袋 を 捲 き 揚 げる 者 あり、 船 倉 口 から 石 炭 倉 へ 石 炭を 入 れる 者 もあるといった 調 子 で、1時 間 おきに 搭 載 量 を 信 号 で 司 令 官 に報 告 しなければならない。 他 艦 に 遅れたりするといけないのだ。 実 際 、戦 艦 オリヨール1 隻 だけでも3,000 袋以 上 積 み 込 んだ。この 石 炭 の 搭 載 作業 という 奴 が、 一 番 、 艦 隊 の 力 を 浪そう しゅ費 させた。 帆 走 戦 艦 の 奴 隷 漕 手 の 方が、われわれより 楽 だったかもしれほこりない。 何 しろ 石 炭 の 埃 を 吸 い 込 んで肺 は 粉 だらけになり、 口 の 中 はざらざらで、 何 か 食 う 時 は 粉 といっしょくたで、 身 体 中 の 毛 穴 まで 粉 が 食 い込 んでいる 始 末 だった。 兵 員 室 まで石 炭 が 堆 積 されて、その 上 に 寝 ることになっていた」バルチック 艦 隊 は、5 月 14 日 、ウラジオストクに 向 けて 出 航 した。18日 、 艦 隊 は 香 港 とルソン 島 の 間 、 南シナ 海 上 に 停 止 して 石 炭 の 積 み 込 みを 行 った。この 停 船 は 艦 隊 の 進 行 速度 をさらに 低 下 させた。23 日 、 艦 隊 は 宮 古 島 の 北 方 、 尖 閣諸 島 付 近 の 海 上 で、 再 度 、 石 炭 の 積み 込 みを 行 った。これが、 最 後 の 石炭 補 給 になった。 各 艦 艇 は 積 めるだけの 石 炭 を 詰 め 込 んだ。 艦 の 喫 水 が下 がり、 甲 板 は 石 炭 で 覆 われた。25 日 、 日 本 艦 隊 との 遭 遇 を 予 測 した 艦 隊 は 給 炭 船 6 隻 と 仮 想 巡 洋 艦 2 隻を 上 海 沖 合 の 東 シナ 海 で 分 離 して 上海 へ 向 かわせた。 後 に、この 給 炭 船の 分 離 がバルチック 艦 隊 の 運 命 を 決めることになる。この 時 期 、 日 本 の 連 合 艦 隊 は 朝 鮮半 島 の 南 端 、 釜 山 西 方 の 鎮 海 湾 で 待機 していた。 連 合 艦 隊 は「 三 井 物 産 のようせん 傭 船 が 台 湾 南 方 でバルチック 艦 隊 の臨 検 を 受 けた」との 情 報 は 得 ていたが、それ 以 降 、 同 艦 隊 の 位 置 を 把 握していなかった。バルチック 艦 隊 が 対 馬 海 峡 を 通 過 するか、 太 平 洋 をう 回 、 津 軽 海 峡 を 抜 けてウラジオストクへ 向 かうかは、 連 合艦 隊 にとって 最 大 の 問 題 であった。そして、 連 合 艦 隊 は5 月 26 日 正 午をもって 待 機 場 所 を 北 方 ( 北 海 道 江 差沖 合 )に 移 動 することを 決 定 した。ところが、 同 日 未 明 、 上 海 から「バルチック 艦 隊 の 給 炭 船 が 入 港 した」との 緊 急電 が 入 った。この 電 報 が 連 合 艦 隊 を救 った。この 情 報 があと1 日 遅 く 到 着していたら、 北 上 した 連 合 艦 隊 の 後を 追 いかけるようにバルチック 艦 隊が 対 馬 海 峡 を 通 過 し、 日 本 海 を 抜 け、ウラジオストクへ 入 るところであった。その 場 合 、「 狭 い 海 峡 でバルチッせんめつ ク 艦 隊 を 補 足 して 殲 滅 する」との 連 合艦 隊 の 基 本 戦 術 は 覆 る。ロシアの 給炭 船 はここでもバルチック 艦 隊 の 足を 引 っ 張 ることになった。 連 合 艦 隊は 直 ちに 鎮 海 湾 で 戦 闘 準 備 に 入 った。日 本 海 海 戦 の 勝 因翌 5 月 27 日 の 未 明 、 対 馬 海 峡 の 西 、五 島 列 島 の 北 西 海 域 で 警 戒 中 の 仮 装巡 洋 艦 「 信 濃 丸 」が 濃 霧 のなかでバルチック 艦 隊 を 発 見 した。この 時 点 でバルチック 艦 隊 の 旗 艦 「スワロフ」の残 存 石 炭 量 は1,000トンであった。ウラジオストクまで、あと1,000km、時 速 12ノット( 約 22 km)で 航 行 して59 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセー45 時 間 が 必 要 であった。「スワロフ」の 機 関 長 は 戦 闘 が 予 測 されるなか、残 存 の 石 炭 量 と 航 続 距 離 、さらに 海戦 になった 場 合 、ドイツの 給 炭 船 が補 給 した 石 炭 の 質 の 悪 さに 不 安 を 抱いていた。一 方 、 連 合 艦 隊 は 戦 闘 を 前 に 甲 板にも 搭 載 されていた 高 品 質 のカーディフ 炭 を 火 災 防 止 のために 海 中 に投 下 させた。 戦 艦 4 隻 を 含 む 計 45 隻ばつびょう が 一 斉 に 抜 錨 して 鎮 海 湾 を 出 撃 、 予想 される 会 合 海 域 に 向 かった。海 戦 を 詳 細 に 述 べるのは 本 稿 の 目的 でないので 省 略 するが、 連 合 艦 隊は、27 日 午 後 、 福 岡 県 北 方 60km、玄 界 灘 、 沖 の 島 海 域 でバルチック 艦隊 38 隻 と 会 合 して 戦 闘 状 態 に 入 った。戦 闘 は 開 始 後 20 分 程 度 で 連 合 艦 隊 側が 優 勢 となり、40 分 後 には 追 撃 戦 に移 る 圧 勝 となった。 結 果 は 連 合 艦 隊がバルチック 艦 隊 を 破 り 撃 沈 16 隻 、自 沈 5 隻 、 捕 獲 6 隻 の 戦 果 を 上 げた。バルチック 艦 隊 の 残 存 した 艦 船 は中 立 国 に 逃 避 して 武 装 解 除 されたもの6 隻 、ウラジオストクに 逃 げ 込 んだもの3 隻 、 無 事 、 本 国 へ 帰 還 したもの2 隻 に 過 ぎなかった。 日 本 側 の 損 害 は水 雷 艇 3 隻 (34、35、6 9 号 )であった。日 本 の 勝 因 として、1 英 国 製 を 中心 に 最 新 式 の 艦 艇 をそろえていたこと、2 補 給 ・ 待 機 基 地 が 至 近 で 艦 艇がよく 整 備 されていたこと、3 敵 艦隊 の 到 着 までに 十 分 な 訓 練 が 行 われていたこと、4 相 手 の 先 頭 艦 を 抑 える「 丁 字 戦 法 」が 有 効 に 機 能 したこと、しも せ5 爆 破 力 、 発 生 熱 量 が 高 い 下 瀬 火 薬*3を 使 用 したこと、6 三 六 式 無 線 電 信機 ( 明 治 35 年 制 式 化 : 交 信能 力 370km)が 世 界 で 初 めて 実 戦 に使 用 され、 会 合 前 から 敵 艦 隊 の 情 報が 的 確 に 司 令 部 へ 伝 達 されたこと、7 食 事 にパン・ 麦 飯 食 が 導 入 され「 脚気 」が 少 なく、 兵 員 の 健 康 状 態 が 良 好であったこと、8 英 国 産 無 煙 炭 の 使用 で 機 関 の 出 力 、 視 界 が 確 保 できたことなどが 挙 げられる。「 脚 気 」 対 策 が 勝 因 の 一 つ要 因 7の「 脚 気 」について。 日 露 戦 争時 、 陸 軍 は 脚 気 患 者 21 万 人 、 脚 気 死亡 者 2 万 7,800 人 を 出 して 戦 力 の 低 下が 大 問 題 になった。 海 軍 では 戦 争 前 から 高 木 兼 寛 海 軍 軍 医 総 監 の 提 言 で 兵 員の 食 事 に 麦 飯 ・パン 食 が 導 入 され、 脚気 患 者 はほとんど 発 生 しなかった。明 治 16(1883) 年 、ニュージランド、チリ、ハワイ 方 面 へ 遠 洋 航 海 に 出 た 装甲 艦 「 龍 驤 」( 常 備 排 水 量 :1,429トン)は 乗 組 員 378 名 のうち、150 名 が 脚 気を 発 病 して23 名 の 死 者 を 出 した。 当時 の 高 木 医 務 局 長 は、 漢 方 医 書 、 英 国留 学 時 代 の 栄 養 学 、 欧 米 海 軍 の 乗 組 員に 脚 気 がない 事 例 等 から 主 食 の 白 米 によるたんぱく 質 の 不 足 、 炭 水 化 物 の 過多 による 栄 養 障 害 が 脚 気 の 主 因 との「 食 物 原 因 説 」を 唱 えた。翌 年 、 高 木 局 長 の 改 革 献 立 ( 麦 飯 、パン 食 )を 取 り 入 れ、「 龍 驤 」と 同 コースをたどった「 筑 波 」( 常 備 排 水 量 :1,978トン)は 乗 組 員 333 名 中 15 名 の脚 気 患 者 にとどまった。この 時 の 患 者は 献 立 の 肉 を 全 く 食 べなかった 者 、コンデンスミルクを 飲 まなかった 者 だけであった。 当 時 、 水 兵 たちは 貧 しい 家の 出 身 が 多 く、 彼 らは 海 軍 に 入 って 白米 が 食 べられるのを 楽 しみにしていた。そのため 麦 飯 やパン 食 、ビスケットを 喜 ぶ 者 は 少 なかったのである。海 軍 では 新 献 立 表 の 導 入 によって脚 気 患 者 が 激 減 した。 高 木 兼 寛 は 英国 の 聖 トーマス 病 院 医 学 校 に 留 学 、英 国 医 学 教 授 の 資 格 を 取 得 、 英 国 式の 臨 床 中 心 の 医 学 を 実 践 していた。彼 は「 東 京 慈 恵 会 医 科 大 学 」の 創 設 者でもあり、また、 日 本 で 最 初 の 看 護婦 養 成 機 関 「 看 護 婦 教 育 所 」を 設 立 した。 伝 記 として『 白 い 航 跡 』( 吉 村 昭 )がある。一 方 、 陸 軍 では 森 林 太 郎 ( 鴎 外 ) 第 2軍 軍 医 総 監 ( 後 に 陸 軍 軍 医 総 監 )はドイツ 式 の 細 菌 学 の 立 場 から「 細 菌 原 因説 」を 採 り、「 食 物 原 因 説 」を 激 しく 攻撃 して 白 米 の 主 食 を 改 めなかった。ドイツ 系 、 東 大 医 学 部 系 の 陸 軍 軍 医には 臨 床 主 義 の 英 国 系 医 学 は 受 け 入れられなかった。そのため、 戦 場 の兵 士 たちには 脚 気 患 者 が 多 発 した。後 年 、 脚 気 はビタミンB 1 の 不 足 が 原因 と 判 明 して 高 木 説 の 正 しさが 証 明された。余 談 。 日 露 戦 争 中 の 明 治 38(1905)年 2 月 28 日 、 奉 天 会 戦 の 日 、 日 本 陸 軍 、まれすけ 第 三 軍 ( 司 令 官 : 乃 木 希 典 ) 第 9 師 団 ( 金沢 ) 歩 兵 第 7 連 隊 の 朝 食 。 白 米 とおかずは 福 神 漬 だけ。 昼 食 のおかずは 塩ば れい しょサンマ、 夕 食 は 牛 肉 、 白 菜 、 馬 鈴 薯の 煮 付 けであった。 福 神 漬 は 東 京 ・上 野 「 酒 悦 」の 産 、 軍 用 副 食 に 多 用 された。 炊 飯 には 煙 の 出 ない 煉 炭 が 使われた。海 軍 では、 明 治 38 年 5 月 27 日 、 日本 海 海 戦 の 日 、 第 二 艦 隊 第 4 駆 逐 隊 ( 司令 : 鈴 木 貫 太 郎 大 佐 、 後 に 首 相 ) 駆 逐艦 「 白 雲 」の 昼 と 夕 食 。ともに 乾 パン、砂 糖 、コンビーフ、 水 。 第 1 駆 戦 隊 ( 司令 : 藤 本 秀 四 朗 大 佐 )の 駆 逐 艦 「 霰 」では 士 気 を 高 めるために 朝 食 として 石炭 で 白 米 が 炊 かれ、 梅 干 し 入 りの 握り 飯 を 高 波 でずぶ 濡 れになりながら食 べた。丁 字 型 戦 法 の 採 用日 本 海 海 戦 の 勝 利 は「 丁 字 型 戦 法 」の 採 用 によると 言 われている。「 丁 字型 戦 法 」は 縦 一 線 で 進 んでくる 敵 艦 隊に 対 して 丁 字 型 に 敵 の 先 頭 艦 を 抑 え、味 方 の 敵 方 舷 側 の 大 砲 を 集 中 して 砲撃 するもので、 味 方 の 脇 腹 をさらす代 わりに 保 有 する 火 力 の 多 くが 使 用できる。 特 に 接 近 して 使 用 した 時 の効 果 が 大 きい。この「 丁 字 型 戦 法 」の 発 案 者 は、 通さねゆき説 では 連 合 艦 隊 の 秋 山 真 之 作 戦 参 謀2011.3 Vol.45 No.2 60


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-が 瀬 戸 内 海 や 熊 野 など 日 本 古 来 の 水軍 の 戦 法 を 研 究 して 考 案 したものとされていた。しかし、 日 本 海 海 戦 時に 防 護 巡 洋 艦 「 笠 置 」の 艦 長 であったた にん山 屋 他 人 大 佐 ( 後 に 大 将 、 連 合 艦 隊 司令 長 官 )の 発 案 であるとの 説 ( 野 村 實 ・元 防 衛 大 学 校 教 授 )がある。 山 屋 他 人が 海 軍 大 学 の 教 官 時 代 、 校 長 は 東 郷平 八 郎 であった。 野 村 説 では、 東 郷司 令 長 官 は 日 露 開 戦 以 来 、 旅 順 艦 隊との2 度 の 海 戦 、 黄 海 の 海 戦 と 計 3 回 、「 丁 字 型 戦 法 」を 使 用 したがいずれも成 功 せず、4 回 目 の 日 本 海 戦 でようやく 成 功 したとしている。 日 本 海 海 戦かみ むら ひこの 前 、 第 二 艦 隊 の 上 村 彦の之じょう丞ウルサン司 令 官がウラジオ 艦 隊 と 戦 った 蔚 山 沖 海 戦で「 丁 字 戦 法 」を 使 用 し 成 功 した。「 丁 字 戦 法 」は 日 露 戦 争 の 開 戦 直 前に 作 成 された「 連 合 艦 隊 戦 策 」で 日 本海 軍 の 戦 術 とされ、 東 郷 司 令 長 官 は日 本 海 海 戦 でこの 戦 策 を 規 定 どおりに 採 用 したとされる。石 炭 から 石 油 へ燃 料 としての 石 炭 ( 固 形 燃 料 )は、重 油 ( 液 体 燃 料 )と 比 較 して 同 一 重 量では 発 生 熱 量 が6 割 程 度 しかない。そのため 重 油 と 同 一 の 熱 量 を 得 るために 石 炭 は 少 なくとも4 割 増 の 量 が 必 要であった。洋 上 で 石 炭 の 補 給 を 行 う 時 、 艦 隊は 停 船 した。また、 荒 天 や 波 が 高 い 時 、補 給 は 無 理 であったし、 可 能 な 時 でも 必 要 な 労 力 と 時 間 は 大 変 なものであった。 機 関 長 は 常 に 残 存 の 石 炭 量に 注 意 しながら 運 航 する 必 要 があり、これが 戦 闘 艦 の 燃 料 として 大 きな 問題 であった。この 軍 艦 の 燃 料 に 石 炭 から 重 油 への 切 り 替 えという 大 きな 変 化 がやってきた。 海 軍 は 軍 艦 の 燃 料 を 石 炭 から 重 油 へ 切 り 替 える 研 究 を 日 露 戦 争中 から 行 っていた。まず、 水 雷 艇 「 小鷹 」( 常 備 排 水 量 :203トン)に 重 油 専焼 缶 を 取 り 付 けて 操 作 方 法 を 研 究 した 後 、 明 治 39(1906) 年 、 通 報 艦 *4 「 八重 山 」( 常 備 排 水 量 :1,609トン)に 重油 専 焼 缶 を 取 り 付 けて 燃 焼 実 験 を行 った。 最 初 に 重 油 を 燃 やして( 混 焼式 ) 航 海 をしたのは、 明 治 41(1908)年 3 月 に 呉 工 廠 で 竣 工 した 装 甲 巡 洋 艦「 生 駒 」( 常 備 排 水 量 :1 万 3,750トン)であった。海 軍 はその 創 設 時 から 主 力 艦 は 英国 、フランス、イタリア、ドイツで建 造 されたものを 使 用 していた。 国内 の 造 船 技 術 の 進 歩 とともに、「 須 磨 」「 明 石 」「 新 高 」など2,000 ~ 3,000トン 級 の 軽 巡 洋 艦 は 国 産 されていたが、「 生 駒 」のように1 万 トンを 超 える 大 艦の 建 造 は 国 内 で 初 めてであった。1 万トンを 超 える 軍 艦 は「 生 駒 」の 同 型 艦「 筑 波 」が 1 年 早 く 同 じ 呉 工 廠 で 竣 工 している。「 筑 波 」は 石 炭 専 焼 式 であったが、「 生 駒 」の 成 功 後 、 混 焼 缶 式 に改 造 された。「 生 駒 」の 機 関 は 石 炭 ・ 重 油 の 混 焼缶 を 装 備 、レシプロ 式 機 関 *5 で2 万5 0 0 馬 力 、 最 大 速 力 20.5ノットを 出 した。 燃 料 搭 載 量 は 石 炭 1,911トン、 重油 160トン、 石 炭 が 主 、 重 油 が 従 の運 用 であった。 混 焼 缶 の 導 入 の 結 果 、生 駒 の 馬 力 は10 ~ 15% 上 昇 することが 認 められた。明 治 43(1910) 年 に 横 須 賀 工 廠 で竣 工 した「 薩 摩 」( 常 備 排 水 量 :1 万 9,372トン)は 日 本 が 独 力 で 設 計 、 建 造 した最 初 の 戦 艦 であった。「 薩 摩 」は 戦 艦として 初 めて 混 焼 缶 を 装 備 した。1 万7,300 馬 力 、 最 大 速 力 18.3ノットを 出 し、燃 料 搭 載 量 は 石 炭 2,860トン、 重 油3 7 7 トンであった。海 軍 で 最 初 の 重 油 専 焼 式 の 軍 艦 は、英 国 のヤロー 社 で 建 造 された 一 等 駆逐 艦 「 浦 風 」( 常 備 排 水 量 :907トン)であった。この 艦 は 重 油 専 焼 缶 を 搭載 し、タービン 式 機 関 *6 によって2 万2,0 0 0 馬 力 、 最 大 速 力 30ノットを 出 した。この 時 期 、 重 油 の 専 焼 缶 の 性 能は 不 安 定 であったため、「 浦 風 」には別 に 石 炭 ・ 重 油 の 混 焼 缶 も 搭 載 されていた。重 油 専 焼 缶 だけを 搭 載 した 最 初 の軍 艦 は、 大 正 8(1919) 年 12 月 に 竣 工した 二 等 駆 逐 艦 「 樅 」( 常 備 排 水 量 :850トン)であった。 重 油 専 燃 缶 、2 万 1,500 馬 力 、タービン 式 機 関 で36ノットの 高 速 を 出 した。興 味 深 いのは、 日 本 海 軍 は 巡 洋 艦 、駆 逐 艦 の 中 小 型 艦 には 比 較 的 早 い 大正 時 代 に 重 油 専 焼 缶 を 導 入 していることである。その 後 の 太 平 洋 戦 争 を戦 った 戦 艦 で、 大 正 時 代 に 竣 工 した「 金 剛 」( 竣 工 1913 年 )、「 比 叡 」( 同1914 年 )、「 榛 名 」( 同 1915 年 )、「 霧島 」( 同 1915 年 )、「 桑 名 」( 同 1914年 )、「 山 城 」( 同 1917 年 )、「 伊 勢 」( 同 1917 年 )、「 日 向 」( 同 1918 年 )、「 長 門 」( 同 1920 年 )、「 陸 奥 」( 同1921 年 )は、 当 初 、 全 て 混 焼 缶 、ないしは、 混 焼 缶 + 重 油 専 焼 缶 であった。その 理 由 は、 戦 艦 は 主 力 艦 であったため 石 油 を 産 しない 日 本 で、 万 一 、重 油 が 確 保 できない 場 合 を 考 慮 してのことであった。 海 軍 は 重 油 に 切 り替 えたものの 石 油 の 確 保 に 懸 念 を 抱いていたのである。これらの 戦 艦 は 昭 和 に 入 ると 近 代化 のために 重 油 専 焼 式 へと 改 造 されていった。この 重 油 化 は 戦 艦 の 性 能を 高 性 能 、 高 効 率 化 した。 重 油 専 焼式 は 混 焼 式 と 比 較 して、タービンとボイラーの 重 量 が 半 分 になり、 出 力は2 倍 に 上 昇 した。そして、 重 量 と 容積 が 減 少 した 分 、 新 たな 兵 装 ( 砲 )を加 えることができた。純 粋 な 重 油 専 焼 式 として 竣 工 した戦 艦 は「 大 和 」と「 武 蔵 」であった。この 両 戦 艦 はワシントン 海 軍 軍 縮 条 約が 無 効 になった 昭 和 12(1937) 年 に起 工 され、 昭 和 16(1941) 年 と17 年(1942) 年 に 竣 工 した。「 陸 奥 」 以 来 、15 年 ぶりの 戦 艦 の 竣 工 であった。この 両 戦 艦 は、 当 初 、 燃 料 の 消 費61 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-られた。締 結 された 軍 縮 条 約 の 概 要 は、 戦艦 と 航 空 母 艦 の 保 有 比 率 は 米 、 英 10、日 本 6、 仏 、 伊 3.5であった。 補 助 艦の 制 限 は 昭 和 5(1930) 年 のロンドン軍 縮 会 議 で 決 められた。 日 本 は 補 助艦 の 対 米 英 比 率 7 割 を 主 張 した。 結果 は 6.975であった。解 読 されていた 暗 号このワシントン 軍 縮 条 約 は 主 力 艦の 新 規 建 造 を 制 限 したが、 改 装 に 関しては 規 定 がなかった。そのため、日 本 海 軍 は 主 力 艦 の 対 米 英 比 率 6 割 、補 助 艦 7 割 の 劣 勢 を 補 うために 艦 の 火力 を 向 上 させることに 専 念 した。 改装 は 艦 船 の 重 量 を 増 加 させるため 機関 の 強 化 が 必 要 となった。大 正 2(1913) 年 に 竣 工 した 巡 洋 戦艦 「 金 剛 」は 第 一 次 改 装 ( 昭 和 6 年 )で 防御 力 を 強 化 し、 第 二 次 改 装 ( 昭 和 1 2 年 )では 機 関 を 重 油 専 焼 式 に 切 り 替 えて最 大 時 速 30ノットを 出 す 高 速 戦 艦 に変 貌 した。 昭 和 前 期 に 日 本 海 軍 の 艦艇 はほぼ 重 油 専 焼 式 に 切 り 替 わり、装 備 も 改 装 によって 強 化 された。ワシントン 軍 縮 条 約 の 時 、 米 国 務 省の 暗 号 解 読 班 「ブラック・チェンバー」は 東 京 の 外 務 省 と 日 本 代 表 団 との 間で 取 り 交 わされていた 暗 号 電 報 を 解読 していた。日 本 は 主 力 艦 の 対 米 英 比 率 7 割 を 主張 していたが、 日 本 の 外 務 省 が 発 信した 会 議 の 対 処 方 針 は、「やむを 得 ない 場 合 は6.5 割 を 提 案 すること、さらに、やむを 得 ない 場 合 は 太 平 洋 地 域の 防 備 制 限 と 引 き 換 えに6 割 まで 下 げるのも 致 し 方 がない」であった。 米 国は 暗 号 電 文 の 解 読 によって 日 本 の 妥協 線 を 捉 え、 強 硬 な 交 渉 態 度 を 取 り続 けた。 自 分 のカードを 見 せながらの 交 渉 は 勝 負 にならない。 日 本 は 対米 英 比 率 6 割 をのまざるを 得 なかった。後 に、ブラック・チェンバーの 責任 者 ハーバート・ヤードレーは、『 米国 のブラック・チェンバー』と 題 する本 を 出 版 して、 米 国 の 国 務 省 、 日 本しん かんの 外 務 省 、 海 軍 省 を 震 撼 させた。この 本 は 世 界 各 国 で 翻 訳 、 出 版 されたが、 最 も 売 れたのは 日 本 で、 販 売 部数 は3 万 部 を 超 え、 当 時 としては 大 ベストセラーとなった。話 は 昭 和 へ 飛 ぶが、 太 平 洋 戦 争 直前 に 行 われた 日 米 交 渉 でも 日 本 の 暗号 電 文 は 解 読 されていた。 真 珠 湾 攻きち さぶ ろう撃 の 後 、 日 本 の 野 村 吉 三 郎 大 使 と 来栖 三 郎 大 使 が 対 米 覚 書 をハル 国 務 長官 に 手 交 した 時 、 米 国 側 は 大 統 領 以下 、 既 に 対 米 覚 書 の 解 読 文 を 読 んでいた。さらに、 開 戦 後 、 最 高 機 密 の海 軍 D2( 波 ) 暗 号 が 解 読 されて、 山本 五 十 六 連 合 艦 隊 司 令 長 官 の 搭 乗 機が 撃 墜 された。 戦 争 の 最 高 指 揮 官 が暗 号 の 解 読 によって 暗 殺 されたのである。 日 本 の 情 報 に 対 する 管 理 能 力は 大 正 時 代 から 既 に 問 題 があったのである。 当 時 、 外 務 省 はいずれの 場合 も 外 交 暗 号 が 解 読 されていることに 気 が 付 かなかった。また、 海 軍 は以 前 から 暗 号 解 読 の 徴 候 が 指 摘 されていたにもかかわらず、「 海 軍 の 暗 号は 絶 対 に 解 読 できない」と 根 拠 なき 自信 によって 一 蹴 していた。増 加 する 軍 事 予 算日 本 国 内 では 海 軍 内 部 からロンド表 4ワシントン、ロンドン 軍 縮 条 約 の 内 容戦 艦日 本 英 国 米 国315,000トン(3) 525,000トン(5) 525,000トン(5)(9 隻 ) (15 隻 ) (15 隻 )( 単 艦 基 準 排 水 量 ) 35,000トン 以 下航 空 母 艦 81,000トン(3) 135,000トン(5) 135,000トン(5)( 単 艦 基 準 排 水 量 ) 27,000トン 以 下 、ただし、 合 計 トン 数 内 で33,000トン 以 下 を2 隻重 巡 洋 艦108,000トン(6.02) 146,800トン(8.1) 180,000トン (10)(12 隻 ) (15 隻 ) (18 隻 )( 単 艦 基 準 排 水 量 ) 10,000トン 以 下軽 巡 洋 艦 100,450トン(6.02) 192,200トン(13.4) 143,500トン(10)( 単 艦 基 準 排 水 量 ) 1,850~10,000トン駆 逐 艦 105,500トン(7) 150,000トン(10) 150,000トン(10)( 単 艦 基 準 排 水 量 ) 1,850トン 以 下潜 水 艦 52,700トン(10) 52,700トン(10) 52,700トン(10)( 単 艦 基 準 排 水 量 ) 2,000トン 以 下 ( 各 国 3 隻 に 限 り2,800トンまで)( 注 )ワシントン 条 約 では 主 力 艦 ( 戦 艦 、 航 空 母 艦 )で 仏 、 伊 とも 対 米 比 率 1.75。出 所 : 日 本 海 軍 の 歴 史 、 日 本 海 軍 史 から 作 成 。63 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセーン 軍 縮 条 約 に 対 し 強 い 不 満 の 声 が 上がった。この 後 、 条 約 反 対 派 ( 艦 隊 派 :軍 令 部 )と 受 け 入 れ 派 ( 条 約 派 : 海 軍省 )との 対 立 が 海 軍 内 部 を2 分 することになる。もともと、ワシントン 軍縮 条 約 にも 不 満 であった 軍 令 部 は、ロンドン 軍 縮 条 約 で 大 型 巡 洋 艦 の 対英 米 比 率 7 割 、 潜 水 艦 7.8 割 を 死 守 すべきと 主 張 した。 特 に、 艦 隊 決 戦 の 際 、戦 艦 に 次 ぐ 火 力 と 高 速 性 を 併 せ 持 つ重 巡 洋 艦 の 比 率 が6 割 であったことに不 満 が 集 中 した。日 本 海 軍 の 対 米 戦 法 は 日 本 海 海 戦をモデルとした 太 平 洋 海 戦 「 西 太 平 洋において 来 航 する 米 艦 隊 を 邀 撃 する」であった。 日 本 海 軍 は 来 航 する 米 艦隊 を、まず、 航 空 機 、 潜 水 艦 で 攻 撃 し、その 戦 力 を 漸 減 、その 後 、 主 力 艦 同士 の 決 戦 を 行 う「 漸 減 邀 撃 戦 法 」を 基本 にしていた。ではなぜ、 軍 令 部 が対 米 英 比 率 7 割 にこだわったかというと、 理 論 的 には 英 国 の 航 空 技 術 者 であったフレデリック・ランチェスターが 第 一 次 世 界 大 戦 の 航 空 戦 から 得 た「ランチェスターの 法 則 」が 一 つの 論拠 とされていた。これは、「 対 峙 する二 つの 軍 団 の 戦 闘 力 は 兵 力 の2 乗 となる」というもので、1 0 対 7 の 兵 力 の 戦闘 力 はそれぞれ2 乗 すると100 対 49となる。10:6 の 兵 力 だと 1 0 0:3 6 になり 問 題 にならない。 少 なくとも 対米 戦 闘 力 の5 割 を 保 持 するためには「 保 有 艦 艇 の 対 米 英 比 率 で7 割 が 絶 対的 に 必 要 」との 主 張 につながった。一 方 、 条 約 派 は、「7 割 だと 国 防 上3,150 万 円 と3,550 万 円 、 国 家 予 算 に対 する 海 軍 予 算 の 割 合 はいずれも8%であった。 比 較 的 割 合 が 低 いのは、日 本 の 場 合 、 戦 争 時 には 一 般 会 計 予算 とは 別 に 特 別 会 計 の 臨 時 軍 事 費 が組 まれるためで、 戦 争 の 開 始 から 終了 までを 一 つの 会 計 期 間 としていた。日 露 戦 争 の 海 軍 の 臨 時 軍 事 費 は2 億4,000 万 円 、これを 加 えた 海 軍 予 算 の国 家 支 出 に 対 する 年 間 の 割 合 は3 5.5 %に 膨 らんでいた。しかし、 日 露 戦 争 が 終 結 した 後 も海 軍 の 予 算 は 増 え 続 けていった。ワシントン 軍 縮 会 議 が 開 催 された 大 正10(1921) 年 、 日 本 の 国 家 予 算 は15億 9,000 万 円 、これに 対 する 海 軍 の 予算 は5 億 200 万 円 と 国 家 予 算 に 対 する割 合 は32%である。 平 時 においても、海 軍 は 国 家 予 算 の3 分 の1を 使 用 するようになっていた。 陸 軍 と 合 わせた軍 事 費 は 国 家 支 出 の4 割 を 超 えていた。この 海 軍 軍 事 費 の 比 率 はワシントン軍 縮 会 議 の 後 、 大 正 11(1922) 年 には26.5 %、 大 正 13(1924) 年 には15.8%と 減 少 して、 昭 和 8(1933) 年まで 1 4 ~ 17%の 割 合 を 継 続 する。 軍縮 の 成 果 は 確 実 に 上 がったのである。参 考 までに、 明 治 以 降 、 日 本 が 行 った 戦 争 の 費 用 、すなわち 特 別 会 計 の臨 時 軍 事 費 、 一 般 会 計 の 臨 時 軍 事 費 、臨 時 事 件 費 の 合 計 で 見 ると、 日 清 戦争 は2 億 3,300 万 円 、 日 露 戦 争 は18 億2,600 万 円 、 山 東 出 兵 は7,000 万 円 、第 一 次 世 界 大 戦 とシベリア 出 兵 の 合計 は 約 15 億 5,400 万 円 、 満 州 事 変 は19 億 500 万 円 ( 臨 時 事 件 費 で 処 理 )、8年 間 続 いた 日 華 事 変 と 太 平 洋 戦 争 は7,558 億 8,900 万 円 であった。軍 事 費 は 単 なる 消 えていく 費 用 であって、 工 場 や 機 械 への 設 備 投 資 のように 再 生 産 に 貢 献 しない。 日 本 は日 清 戦 争 以 来 、 太 平 洋 戦 争 の 終 結 まで、ほぼ 継 続 してこうした 戦 争 費 用を 出 費 し 続 けていたのである。このけん し費 用 の 源 泉 は 絹 糸 であった。 日 本 は絹 糸 を 米 国 に 輸 出 し、その 外 貨 で 綿花 、 機 械 類 を 購 入 した。さらに、 綿花 を 綿 製 品 に 加 工 してアジアへ 輸 出した。 大 まかに 言 えば 絹 糸 で 軍 艦 を造 る 経 済 構 造 であった。 国 家 財 政 に占 める 軍 事 費 の 割 合 は 満 州 事 変 以 前の 平 時 で13% 台 、 満 州 事 変 から 日 華事 変 までは12 ~ 18%、 日 華 事 変 ~太 平 洋 戦 争 までは35 ~ 54%、 太 平洋 戦 争 中 では58 ~ 70%であった。戦 争 中 の 戦 費 は 戦 争 開 始 から 終 結までを1 会 計 年 度 とする 臨 時 軍 事 特 別会 計 で 賄 われたことを 述 べたが、この 特 別 会 計 は 軍 事 機 密 とされていた。したがって、 大 蔵 省 の 予 算 審 査 、 会計 検 査 院 の 検 査 もなく、 議 会 の 秘 密会 で 可 決 された。2.26 事 件 後 は 大 蔵 省主 計 局 は 軍 事 費 査 定 の 機 能 を 失 い 次第 に 単 なる 編 成 事 務 機 関 化 していた。そのため、 太 平 洋 戦 争 時 には 戦 争 の安 全 で、6 割 だと 国 が 守 れないことではない。そのために 外 交 がある。 米表 5日 本 の 戦 費国 とは 国 力 が 根 本 的 に 違 い、このまま 軍 拡 を 続 ければ 国 防 が 充 実 する 前に、 財 政 面 で 国 が 破 産 してしまう」との 考 えが 強 かった。明 治 37(1904) 年 から 同 38(1905)年 の 日 露 戦 争 時 、 日 本 の 国 家 予 算 はそれぞれ3 億 9,960 万 円 と4 億 6,490 万円 であった。この 時 、 海 軍 の 予 算 は戦 費現 在 価 値日 清 戦 争 2 億 3,300 万 円 4.5 兆 円日 露 戦 争 18 億 2,600 万 円 22.5 兆 円山 東 出 兵 7,000 万 円 0.4 兆 円第 一 次 世 界 大 戦 ・シベリア 出 兵 15 億 5,400 万 円 18 兆 円満 州 事 変 19 億 500 万 円 13.5 兆 円日 華 事 変 ・ 太 平 洋 戦 争 7,558 億 8,900 万 円 1,710 兆 円( 注 ) 戦 費 = 特 別 会 計 臨 時 軍 事 費 + 一 般 会 計 臨 時 軍 事 費 + 臨 時 事 件 費出 所 : 事 典 「 昭 和 戦 前 期 の 日 本 」、 日 本 軍 事 史 他2011.3 Vol.45 No.2 64


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-進 展 とともにこの 特 別 会 計 は 膨 張 に膨 張 を 重 ねることになった。 陸 軍 、海 軍 とも 継 続 する 日 華 事 変 は 予 算 に拘 束 されない 戦 費 を 得 て 装 備 を 充 実させることに 繋 がった。では、その 財 源 は 何 によって 賄 われたのであろうか。 大 部 分 (8 割 )が 公債 、 占 領 地 の 現 地 通 貨 の 借 入 金 で、その 他 は 一 般 会 計 、 帝 国 鉄 道 、 朝 鮮総 督 府 、 台 湾 総 督 府 特 別 会 計 からの繰 り 入 れが 行 われた。 公 債 は 支 那 事変 公 債 、 大 東 亜 戦 争 公 債 発 行 などによった。これらの 公 債 は 太 平 洋 戦 争の 終 結 後 、 発 生 した 猛 烈 なインフレでただ 同 然 になった。つまり 国 民 が購 入 した 公 債 は 紙 切 れになってしまったのである。統 帥 権 を 後 押 しした 政 党政 治 面 では、 政 友 会 ( 野 党 )の 犬 養毅 と 鳩 山 一 郎 が、「 浜 口 内 閣 ( 民 政 党 )が 軍 縮 条 約 を 締 結 したのは、 統 帥 権の 独 立 を 侵 す 行 為 である」として 政 府かんを 攻 撃 した。これは 後 に「 統 帥 権 干ぱん犯 」 問 題 として、この 力 に 気 が 付 いた陸 軍 に 使 用 され 政 治 を 軍 部 の 支 配 下に 置 く 武 器 となった。 政 党 が 軍 部 に新 兵 器 を 渡 したのである。 言 葉 の 強烈 さで 政 界 を 震 撼 させた「 統 帥 権 干犯 」は、 当 時 、 右 翼 の 大 物 として 隠 然たる 勢 力 を 持 ち、2.26 事 件 に 関 係 したとして 処 刑 された 北 一 輝 の 造 語 とも言 われている。この 時 期 、 軍 令 部 はい あく天 皇 に 軍 縮 反 対 の 意 見 を 伝 える「 帷 幄じょうそう上 奏 問 題 」 *8 を 起 こす。 昭 和 5(1 9 3 0)お さち年 4 月 、 浜 口 雄 幸 首 相 が 代 表 団 への 回答 案 「 条 約 を 妥 結 すべき」を 天 皇 に 上奏 する 予 定 になっていた。 加 藤 軍 令部 長 は 首 相 より 先 に「 断 固 反 対 」を 天皇 へ 上 奏 することを 申 し 出 た。 鈴 木貫 太 郎 侍 従 長 ( 後 の 首 相 )がそれを 思いとどまらせ、 翌 日 、 軍 令 部 長 は 上奏 した。 後 に、 軍 令 部 はこれを「 上 奏権 干 犯 」と 攻 撃 した。 昭 和 天 皇 は 戦 後 、「 当 時 海 軍 省 と 軍 令 部 が 相 反 していたたから べ たけしので、 財 部 ( 彪 海 相 )としてはこの 際しま断 然 軍 令 部 長 を 更 迭 して 終 へばよかったのを、ぐずぐずしていたから事 が 紛 糾 したのである」( 昭 和 天 皇 独白 録 )と 述 べている。浜 口 首 相 はこの 問 題 によって、 右翼 団 体 「 愛 国 社 」の 青 年 、 佐 郷 屋 留 雄に 東 京 駅 で 狙 撃 された。 重 傷 を 負 った 浜 口 首 相 は 療 養 中 に 政 友 会 の 執 拗な 登 院 要 請 によって 国 会 に 出 席 する。この 登 院 が 傷 口 を 悪 化 させて、 首 相 は翌 年 に 死 亡 する。 首 相 以 下 が、「 条 約を 受 け 入 れるべし」と 主 張 したのは、当 時 の 国 内 経 済 の 不 況 、 日 本 の 財 力 、国 力 を 勘 案 すると「 緊 縮 財 政 が 必 要 である」と 判 断 した 結 果 であった。旧 憲 法 には、「 天 皇 は 陸 海 軍 を 統 帥し、 編 成 及 び 常 備 兵 力 を 定 む( 第 11ほ ひつ条 )」「 兵 力 量 は 陸 海 軍 大 臣 が 輔 弼 する( 第 1 2 条 )」との 条 項 があって、 兵 力量 は 陸 海 軍 大 臣 が 内 閣 の 一 員 である政 府 が 議 会 の 承 認 を 得 て 決 定 することになっていた。 軍 令 部 はこれを 拡大 解 釈 して 兵 力 量 も 統 帥 権 に 属 すると 主 張 したのであった。伏 見 宮 博 恭 王 と 東 郷 平 八 郎元 帥ロンドン 軍 縮 会 議 の 直 後 の 昭 和 7(1932) 年 2 月 、 日 本 海 海 戦 の 英 雄 で聖 将 とされていた 東 郷 平 八 郎 元 帥 と加 藤 寛 治 軍 令 部 長 の 強 い 主 張 によっふし み のやひろやすおう て 伏 見 宮 博 恭 王 が 軍 令 部 長 に 就 任 した。この 就 任 は 軍 令 部 ( 艦 隊 派 )がその 権 限 を 強 化 するのが 大 きな 目 的 であった。 伏 見 宮 は、 昭 和 16 年 4 月 に軍 令 部 長 を 退 任 するまで、 以 後 9 年 間 、絶 対 的 な 力 を 持 って 海 軍 内 に 君 臨 することになる。その 後 、 艦 隊 派 の 背後 には、 常 に 伏 見 宮 と 東 郷 元 帥 が 座 っていた。軍 令 部 長 の 名 称 は 昭 和 8(1933) 年に 陸 軍 の 参 謀 総 長 ( 閑 院 宮 )に 合 わせて 軍 令 部 総 長 と 改 称 された。 海 軍 は常 に 陸 軍 との 横 並 びを 求 めていたのであった。 伏 見 宮 はドイツ 海 軍 兵 学校 への 留 学 、 日 露 戦 争 では 旗 艦 「 三笠 」の 後 部 砲 塔 指 揮 官 として 黄 海 開 戦に 参 戦 、 第 一 次 世 界 大 戦 前 の 英 独 の艦 艇 建 造 競 争 期 には 英 国 駐 在 、その後 、 第 二 艦 隊 司 令 長 官 など 豊 富 な 実務 経 験 と 知 識 を 持 ち、 人 事 面 にも 精通 した 実 力 派 の 軍 令 部 総 長 として 君臨 した。 伏 見 宮 はその 実 務 経 験 から艦 隊 派 的 、 大 艦 巨 砲 主 義 的 な 志 向 が強 かった。伏 見 宮 が 軍 令 部 長 に 就 任 すると 軍令 部 は「 軍 令 部 令 」と「 省 部 互 渉 規 定 」の 改 定 に 成 功 する。この 軍 令 部 の 権限 を 強 化 する 改 定 は、 後 に、 軍 令 部が 開 戦 への 道 を 独 走 する 助 走 器 の 役割 を 果 たすことになる。次 に、 人 事 面 に 影 響 が 現 われた。昭 和 8(1933) 年 から 同 9(1934) 年にかけて 行 われた「 大 角 人 事 」がそれおお すみ みね おである。 時 の 大 角 岑 生 海 相 は 条 約 派の 将 官 を 一 気 に 予 備 役 に 編 入 ( 退 役 )した。 条 約 派 は 財 部 彪 海 相 、 山 梨 勝之 進 海 軍 次 官 、 堀 悌 吉 海 軍 省 軍 務 局長 など 海 軍 省 の 上 層 部 に 多 かった。ロンドン 軍 縮 会 議 時 の 海 軍 省 次 官 山梨 勝 之 進 大 将 、 軍 縮 条 約 を 順 守 し 満 州事 変 後 の 海 軍 増 強 を 認 めなかった 軍 令なお み部 長 の 谷 口 尚 真 大 将 、ロンドン 軍 縮 会さ こん じ せいぞう議 首 席 随 員 の 左 近 司 政 三 中 将 、 満 州 事変 時 の 海 軍 省 軍 務 局 長 寺 島 健 中 将 、ロンドン 軍 縮 会 議 時 の 海 軍 省 軍 務 局 長 堀悌 吉 中 将 など、 将 来 の 海 軍 を 担 う 首 脳部 人 材 が 更 迭 された。これらの 将 官 はワシントン 軍 縮 会議 全 権 の 加 藤 友 三 郎 大 将 の 人 脈 につながっていた。 国 際 協 調 主 義 を 採 る将 官 の 予 備 役 編 入 は、 日 華 事 変 以 降 、日 米 関 係 が 険 悪 化 した 時 、 海 軍 が 調整 、 交 渉 に 堪 え 得 る 有 用 な 人 材 を 投入 できず、 太 平 洋 戦 争 に 突 入 する 主原 因 の 一 つになった。ロンドン 軍 縮会 議 の 全 権 であった 財 部 彪 海 相 はこの65 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセー大 角 人 事 の 前 、 同 軍 縮 条 約 が 批 准 された 翌 日 に 海 相 を 辞 任 、その 後 、 予 備 役に 編 入 されていた。これらの 人 事 はいずれも 艦 隊 派 、 伏 見 宮 軍 令 部 長 、 東 郷元 帥 の 圧 力 、 意 向 で 行 われたがこの 段階 で 条 約 派 はほぼ 一 掃 された。この 頃 の 東 郷 元 帥 の 言 動 を 示 す 記述 がある。「それで 私 ( 岡 田 啓 介 *9 )は 2 、3 日たって( 東 郷 ) 元 帥 を 訪 れ、 財 部 ( 海 相 )のことをお 伝 えしたら、『なぜ 今 すぐやめぬ。 大 臣 1 日 その 職 にあればそれだけ 海 軍 の 損 失 だ』とおっしゃった。私 はそのむずかしい 事 情 をいろいろ説 明 申 し 上 げてその 日 は 帰 ってきたが、 日 をおいてまた 元 帥 邸 に 行 き、『 御批 准 の 前 に、 全 権 たる( 財 部 ) 海 軍 大臣 がやめては、 海 軍 が 政 治 問 題 の 渦中 に 入 ることになります。それにどんな 理 由 にせよ、いま 大 臣 がやめては、 世 間 では、 海 軍 が 大 臣 に 詰 腹 を切 らせたように 見 られ、 海 軍 は 一 部の 人 士 からうらみを 買 うことになります』と 申 し 上 げたところ、 元 帥 は、『そうではないだろう。 私 が 財 部 にやめろ、と 口 に 出 して 言 えば 政 治 に 関係 したことになるが、 財 部 が 自 発 的にやめるのに、どうして 政 治 上 の 問題 になるのだ。このごろ 私 にいろいろ 言 ってくるものがいる、 私 はとりあわんようにしている。ただ 聞 いているだけだ。 軍 人 が 政 治 に 関 係 してはならぬから、その 点 は 私 も 大 いに注 意 している』とおっしゃった。 私も、『どうぞ 御 自 重 下 さるよう』お 願いしておいたが、こうした 曲 折 があって、9 月 に 入 り 急 転 直 下 、 枢 密 院 も 御批 准 のことを 決 議 、10 月 2 日 、 浜 口総 理 はロンドン 条 約 批 准 のことを 上奏 し、 御 裁 可 をえるはこびになった」( 岡 田 啓 介 回 顧 録 )。当 時 、 海 軍 では、 将 官 の 定 年 は 少将 60 歳 、 中 将 62 歳 、 大 将 65 歳 であった。しかし、 元 帥 府 ( 名 誉 職 的 )に 列せられた 大 将 は 定 年 も 予 備 役 への 編入 もなく、 生 涯 現 役 とされた。このため、 東 郷 元 帥 は 昭 和 9(1934) 年 に86 歳 で 死 去 するまで 海 軍 の 最 重 鎮 として 発 言 権 を 保 持 していた。また、伏 見 宮 は、 日 伊 独 三 国 同 盟 に 賛 成 し、開 戦 前 には「 早 期 対 米 開 戦 」を 唱 えていた。表 7年 度 軍 事 費 歳 出 軍 事 費 対 全 歳 出 (%)大 正 5(1916) 年 182 583 31.2大 正 10(1921) 年 731 1,490 49.0大 正 14(1925) 年 444 1,525 29.1昭 和 6(1931) 年 434 1,477 29.4昭 和 7(1932) 年 733 1,950 37.6昭 和 8(1933) 年 873 2,225 39.2昭 和 9(1934) 年 955 2,163 44.2昭 和 10(1935) 年 1,032 2,206 46.8昭 和 11(1936) 年 1,105 2,282 48.4昭 和 12(1937) 年 3,953 5,521 71.6昭 和 13(1938) 年 6,097 8,084 75.4昭 和 14(1939) 年 6,417 8,952 71.7昭 和 15(1940) 年 7,266 11,033 65.9出 所 : 財 務 省 「 財 政 統 計 」後 年 、 日 独 伊 三 国 同 盟 に 反 対 し、開 戦 を 前 に 避 戦 派 の 代 表 的 存 在 とな表 6 艦 艇 建 造 ・ 改 装 成 立 予 算 (100 万 円 )年 度 艦 艇 建 造 成 立 予 算 艦 艇 改 装 成 立 予 算 計明 治 44(1911) 年 158 158大 正 6(1917) 年 268( 注 1) 268 268大 正 7(1918) 年 331( 注 2) 331 331大 正 9(1920) 年 798( 注 3) 798 798大 正 11(1922) 年 86( 注 6) 86大 正 12(1923) 年 913 50( 注 4) 963昭 和 6(1931) 年 245( 注 5) 28 273昭 和 10(1935) 年 0.3 42 42.3昭 和 12(1937) 年 813( 注 7) 112( 注 8) 925昭 和 13(1938) 年 17 18 35昭 和 14(1939) 年 1,206( 注 9) 27 1,233昭 和 15(1940) 年 0.05 28 28.05昭 和 16(1941) 年 263 14 277( 注 1) 八 四 艦 隊 予 算 、( 注 2) 八 六 艦 隊 予 算 、( 注 3) 八 八 艦 隊 予 算 、( 注 4) 昭 和 5 年 までの 主 力 艦 第一 次 改 装 、( 注 5) 第 一 次 補 充 計 画 、( 注 6)ワシントン 軍 縮 条 約 締 結 年 、( 注 7) 昭 和 12 年 度 補 充 計 画 、( 注 8) 戦 艦 「 比 叡 」 改 装 他 、( 注 9) 昭 和 14 年 度 充 実 計 画出 所 : 戦 史 叢 書 海 軍 軍 戦 備 (1)日 本 の 一 般 会 計 軍 事 費 と 一 般 会 計 歳 出(1931~1940 年 )(100 万 円 )る 山 本 五 十 六 少 将 ( 当 時 )はロンドン軍 縮 会 議 の 次 席 随 員 であった。 山 本少 将 はこの 会 議 では 対 米 英 比 率 7 割 、潜 水 艦 の 現 有 量 保 持 を 若 槻 礼 次 郎 首席 全 権 ( 前 首 相 )、 財 部 彪 全 権 ( 海 相 )、斎 藤 博 全 権 ( 外 務 省 情 報 局 長 )、 松 平恒 雄 全 権 ( 駐 英 大 使 )に 強 く 主 張 し、艦 隊 派 的 な 言 動 を 示 していた。そのため、 艦 隊 派 からは 明 確 に 条 約 派 と2011.3 Vol.45 No.2 66


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-分 類 されず、むしろ、 艦 隊 派 的 な 考えの 持 ち 主 と 思 われていた。山 本 少 将 は 軍 縮 会 議 の 終 盤 で 条 約を 受 け 入 れようとする 全 権 たちを 猛か烈 に 突 き 上 げた。 大 蔵 省 からの 賀おきのりや屋興 宣 随 員 ( 後 に 東 條 英 機 内 閣 で 蔵 相 )が 財 政 面 から 条 約 に 賛 同 の 意 見 を 述べようとした 時 、「 賀 屋 黙 れ、なお 言どうかつ うと 鉄 拳 が 飛 ぶぞ」と 恫 喝 したと 言 われる。 随 員 中 、 最 も 強 硬 な 意 見 を 述べていたのは、ミッドウェー 海 戦 で第 二 航 空 戦 隊 司 令 官 として 空 母 「 飛龍 」とともに 沈 んだ 山 口 多 聞 中 佐 (ロンドン 条 約 時 )であった。第 一 次 世 界 大 戦 と 海 軍大 正 6(1917) 年 2 月 、 二 等 巡 洋 艦 「 明石 」( 常 備 排 水 量 :2,6 5 7 トン)を 旗 艦かばかたとして、 樺 型 二 等 駆 逐 艦 ( 常 備 排 水 量 :665トン)の「 梅 」「 楠 」「 桂 」「 楓 」「 杉 」「 柏 」「 松 」「 榊 」8 隻 で 編 成 された 第二 特 務 艦 隊 が 連 合 国 軍 の 一 部 として 地中 海 のマルタ 島 へ 派 遣 された。 最 初 の世 界 大 戦 に 直 面 した 欧 州 各 国 は 兵 力 の不 足 に 悩 み 始 めていた。 同 盟 関 係 にあった 英 国 は、 当 初 、 陸 軍 部 隊 の 派 遣を 日 本 に 要 請 した。しかし、 師 団 単 位の 部 隊 を 欧 州 まで 派 遣 することは 兵 力的 にも 補 給 的 にも、そして 何 よりも 陸軍 にとって 利 益 がなかった。次 に、 英 国 は 海 軍 の 艦 艇 を 欧 州 へ派 遣 することを 要 請 してきた。 当 時 、大 西 洋 、 地 中 海 ではドイツ 海 軍 のUボートが 活 躍 して、 連 合 国 と 中 立 国の 輸 送 船 が 大 きな 被 害 を 受 けていた。当 初 、 日 本 政 府 はこの 派 遣 に 消 極 的であった。しかし、 英 国 は 大 戦 が 終了 した 段 階 で、「 日 本 に 中 国 の 山 東 半島 にドイツが 持 つ 権 益 と 赤 道 以 北 のドイツ 領 南 洋 諸 島 の 権 益 を 渡 す」との条 件 を 出 してきた。 政 府 はこの 条 件と 引 き 換 えに 駆 逐 艦 隊 の 派 遣 に 同 意し、「ドイツ 権 益 の 秘 密 譲 渡 契 約 」が締 結 された。 日 本 はドイツに 山 東 半チンタオ島 の 青 島 要 塞 を 中 国 に 返 還 することを 要 求 し、ドイツがこれを 受 け 入 れないと、 大 正 3(1914) 年 8 月 、 大 戦参 戦 の 宣 戦 布 告 を 行 い、 青 島 を 攻 撃 、これを 占 領 した。 第 二 特 務 艦 隊 の 旗艦 「 明 石 」は、 石 炭 専 焼 缶 を 装 備 、レシプロ 機 関 で8,500 馬 力 、 速 力 20ノット、 石 炭 搭 載 量 590トン、 航 続 距 離1 万 1,000 海 里 ( 約 2 万 400km)の 性 能を 持 っていた。 樺 型 駆 逐 艦 は 第 一 次世 界 大 戦 の 勃 発 によって、 急 きょ、建 造 された 航 洋 型 駆 逐 艦 で、 炭 油 混焼 缶 と 重 油 専 焼 缶 を 装 備 、レシプロ機 関 で9,500 馬 力 、 最 大 速 力 30ノット、航 続 距 離 1,600 海 里 ( 約 3,000km)の 性能 であった。大 正 6(1917) 年 2 月 18 日 、4 隻 の駆 逐 艦 (「 松 」「 榊 」「 杉 」「 柏 」)は 佐 世保 を 出 航 、スエズ 運 河 を 経 由 して、54 日 目 に 地 中 海 のマルタ 島 に 到 着 した。 同 年 6 月 、 旗 艦 は「 明 石 」から 装 甲巡 洋 艦 「 出 雲 」( 排 水 量 :9,906トン)に 交 代 した。さらに、 増 強 のために桃 型 駆 逐 艦 ( 常 備 排 水 量 :835トン)4隻 (「 桃 」「 樫 」「 柳 」「 檜 」)が 派 遣 された。桃 型 駆 逐 艦 は 大 正 5 ~ 6 年 に 建 造 された 新 造 駆 逐 艦 で、 樺 型 より 一 回 り大 きかった。 炭 油 混 焼 缶 と 重 油 専 焼缶 を 備 えタービン 機 関 で1 万 6,700 馬力 、 最 大 速 力 は31.5ノット、 航 続 距離 2,400 海 里 ( 約 4,500 km)と 馬 力 、速 力 、 航 続 距 離 いずれもが 強 化 されていた。さらに、 大 正 7(1918) 年 11月 には 装 甲 巡 洋 艦 「 日 進 」( 常 備 排 水量 :7,700トン)が 派 遣 されて、 第 二特 務 艦 隊 の 所 属 になった。 駆 逐 艦 の任 務 は 地 中 海 東 西 航 路 (アレクサンドリア~マルセイユ)の 護 衛 であった。大 正 6(1917) 年 6 月 11 日 、 日 本 の駆 逐 艦 「 榊 」と「 松 」がエーゲ 海 南 部 、ミロ 島 沖 を 航 行 中 、「 榊 」がUボートから 発 射 された 魚 雷 を 受 けた。この攻 撃 による 死 者 は59 名 、 重 軽 傷 者 16名 であった。「 榊 」の 戦 死 者 の 遺 体 は火 葬 されマルタ 島 のバレッタ 軍 港 の英 海 軍 墓 地 に 埋 葬 された。このバレッタ 海 軍 墓 地 には「 榊 」の 被 雷 1 年 後 、 大正 7 年 6 月 に「 大 日 本 帝 国 第 二 特 務 艦隊 戦 死 者 の 墓 」の 石 碑 が 建 てられた。「 榊 」の 戦 死 者 、 乗 組 員 で、 当 時 、 流行 したスペイン 風 邪 に 倒 れた 者 、 事故 で 死 亡 した 者 計 78 名 のうち、73 名の 遺 骨 が 納 められている。Uボートの 活 躍第 一 次 世 界 大 戦 の 前 期 では、 後 に対 潜 兵 器 の 主 力 となる 水 中 聴 音 機(ソナー)、や 爆 雷 はまだ 開 発 されたばかりで 駆 逐 艦 にいき 渡 らず、また、能 力 も 低 かった。これらの 兵 器 が 実用 になるのは 大 戦 の 終 盤 期 であった。それでもさまざまな 対 Uボート 戦 法 が編 み 出 された。Uボートの 積 載 魚 雷 数は 大 型 の 巡 洋 型 を 除 き、 通 常 4 ~ 8 本程 度 であった。Uボートは 魚 雷 を 節 約するため 攻 撃 対 象 が 商 船 の 場 合 は、 浮上 して 甲 板 砲 を 使 用 した。 連 合 国 側 はおとり通 常 の 商 船 を 武 装 させた 囮 船 、 通 称 QシップでUボートを 攻 撃 した。Qシップの 外 見 は 通 常 の 商 船 であった。Uボートが 臨 検 あるいは 砲 撃 のために 浮上 してくると、Qシップは、 突 然 、 砲の 覆 いを 取 り 払 い 砲 撃 した。 第 一 次 世界 大 戦 では200 隻 以 上 のQシップが 活動 した。次 に、Uボートが 浮 上 した 時 に 味 方の 潜 水 艦 が 水 中 から 魚 雷 を 発 射 して 仕留 める 戦 法 が 採 用 された。この 戦 法 は、トロール 船 と 潜 水 艦 を 電 話 線 で 連 結し、Uボートがトロール 船 を 臨 検 するために 浮 上 してくると、トロール 船 から 水 中 の 潜 水 艦 にその 状 況 を 知 らせて魚 雷 で 攻 撃 した。さらに、Uボートが 出 入 りする 港 湾の 出 口 に 水 深 別 に 数 段 の 機 雷 を 仕 掛ける 戦 法 が 採 られた。この 方 法 は 単純 ではあるが 効 率 がよく、 多 くのUボートを 撃 沈 した。また、 掃 海 艇 の艇 尾 に 機 雷 を 付 けたロープを 取 り 付67 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-石 油 不 足 は 実 際 より1 年 早 く 昭 和 18(1943) 年 末 には 激 甚 なものになっていた」と 記 されている。燃 料 としての 石 炭 と 石 油第 一 次 世 界 大 戦 では 艦 船 の 燃 料 として 石 炭 と 石 油 が 使 用 された。 石 炭 と石 油 の 比 較 は 機 能 性 だけでなく 経 済 性も 含 めてさまざまな 研 究 が 行 われていよろずた。 当 時 の 代 表 的 な 新 聞 「 万 朝 報 」 *10が 米 国 で 行 われた 実 験 の 例 ( 艦 名 、トン 数 等 不 明 )を 掲 載 している( 大 正8 年 3 月 7 日 付 )。「 燃 料 としての 石 炭 と 石 油 」の 価 値 を比 較 するため 同 じトン 数 の 汽 船 2 隻 を用 いて 世 界 を 周 航 させた。1 隻 は 石 炭 、他 の1 隻 は 石 油 を 燃 料 とした。 出 発 点は 欧 州 、 大 西 洋 を 南 下 し 南 米 南 端 のホーン 岬 を 経 由 してサンフランシスコに 到 着 、ここから 太 平 洋 を 横 断 して、スエズ 運 河 を 通 過 、 地 中 海 を 通 って 欧州 に 帰 着 した。 石 炭 使 用 の 汽 船 はこの航 海 で14 回 停 船 して 石 炭 8,500トンを 消 費 、 石 炭 代 は4 万 1,275ドル、 全航 海 に 費 やした 日 数 は300 日 ( 航 海1 8 3 日 、 港 湾 停 泊 117 日 )、 運 搬 した貨 物 は7,500トンであった。一 方 、 石 油 を 使 用 した 汽 船 は1,250トンの 石 油 搭 載 能 力 を 持 っていたが、最 初 に820トンしか 積 載 しなかったため、サンフランシスコとシンガポールに 立 ち 寄 った。 最 初 に 石 油 を 満 載 していれば 無 寄 港 航 海 も 可 能 であった。 使用 した 石 油 の 量 は1,446トン、 石 油 代は1 万 2,940ドル、 航 海 日 数 は236 日 ( 航海 140 日 、 港 湾 停 泊 96 日 = 貨 物 の 積み 下 ろし 緩 慢 が 理 由 )、 運 んだ 貨 物 は8,5 0 0トンであった。石 炭 船 には 火 夫 として14 人 が 乗 り込 み、 機 関 部 要 員 は19 人 、 石 油 船 の火 夫 は 零 、 機 関 部 員 は13 人 であった。この 様 にあらゆる 面 に 於 いて 石 油 が 優れているが、 唯 一 の 問 題 は 石 油 を 容 易に、 且 つ、 多 量 に 得 る 国 でなくてはならぬ。この 点 、 米 国 は 世 界 の 石 油 生 産量 の65%を 占 め、 石 油 が 非 常 に 豊 富なメキシコが 手 近 に 控 えている」。この 記 事 が 掲 載 された 背 景 には、 当 時 、民 間 の 運 輸 業 界 でも 石 油 と 石 炭 との 優劣 、 特 にコストが 問 われ、また、 既 に石 油 の 入 手 問 題 が 課 題 になっていたことがうかがわれる。 軍 艦 と 同 様 に 民 間船 舶 の 燃 料 も 炭 油 混 焼 を 経 て 石 油 専 焼へと 移 行 していった。表 8 石 炭 と 石 油 の 効 率 比 較石 炭 石 油燃 料 消 費 量 8,500トン 1,446トン燃 料 費 41,275ドル 12,940ドル航 海 日 数 300 日 236 日運 搬 貨 物 量 7,500トン 8,500トン火 夫 14 名 0 名機 関 部 要 員 19 名 13 名出 所 : 万 朝 報 ( 大 正 8 年 3 月 7 日 付 )兵 器 としての 航 空 機第 一 次 世 界 大 戦 時 、 日 本 は 連 合 国 軍側 に 立 ってドイツ 軍 が 守 る 中 国 の 山 東半 島 にある 青 島 要 塞 を 攻 撃 した。その際 、 海 軍 はファルマン 式 水 上 型 複 葉機 2 機 を 輸 送 船 改 造 の 特 設 水 上 機 母 艦「 若 宮 丸 」( 常 備 排 水 量 :5,895トン)に 搭 載 して 偵 察 や 爆 撃 に 使 用 した。大 戦 終 了 後 の 大 正 10(1921) 年 、海 軍 は 英 国 からセンピル 空 軍 大 佐 を 団長 とする「センピル 航 空 教 育 団 」( 総 勢しょうへい 29 名 )を 招 聘 した。この 教 育 団 は 日 英同 盟 の 関 係 もあって 英 国 空 軍 が 第 一 次世 界 大 戦 の 実 戦 で 得 た 教 訓 と 戦 術 を1年 半 にわたって 日 本 海 軍 に 教 授 した。それまで、 海 軍 の 航 空 技 術 は 初 歩 的 な段 階 にとどまっていた。 教 育 団 は、 最新 鋭 の 戦 闘 機 、 雷 撃 機 、 偵 察 機 、 飛 行艇 、 練 習 機 を 約 100 機 も 持 ち 込 み、 海軍 のパイロットたちに 空 中 戦 、 爆 撃 、電 撃 などの 高 度 な 技 術 を 教 えた。 海 軍航 空 隊 の 基 礎 をつくったのは 英 国 空 軍であった。その 後 、この 技 術 を 習 得 した 海 軍 のパイロットたちが 霞 ヶ 浦 航 空 隊 発 足 の中 心 となる。 日 本 は 明 治 初 期 の 海 軍 発足 以 来 、 英 国 海 軍 を 模 範 にして 艦 艇 からシステムに 至 るまで 英 国 式 を 学 んだが、 航 空 においても 英 国 からその 技 術と 運 用 を 導 入 した。 英 国 は 第 一 次 世 界大 戦 中 の 大 正 7(1918 年 ) 年 4 月 、 航空 機 が 主 要 な 戦 力 になると 判 断 して 陸軍 航 空 隊 と 海 軍 航 空 隊 を 合 わせて 世 界最 初 の 空 軍 を 設 立 していた。大 正 10 年 、 大 正 11(1922) 年 、 海軍 は 偵 察 艦 として 搭 載 機 15 機 の 空 母「 鳳 翔 」( 常 備 排 水 量 :9,449トン)を竣 工 させた。 海 軍 は 近 代 兵 器 としての 飛 行 機 と 空 母 に 着 目 したのである。それから20 年 、 太 平 洋 戦 争 開 始 時 の昭 和 16(1941) 年 末 、 海 軍 は 空 母 10隻 (「 鳳 翔 」「 赤 城 」「 加 賀 」「 龍 驤 」「 蒼龍 」「 飛 龍 」「 翔 鶴 」「 瑞 鶴 」「 瑞 鳳 」「 大鷹 」)の 世 界 最 大 数 の 空 母 を 保 有 していた。この 時 点 で 複 数 の 空 母 を 集 中 運用 できる 能 力 を 持 っていたのは 米 国 と日 本 だけであった。海 軍 は 空 母 の 他 に 横 須 賀 、 横 浜 、 館山 、 木 更 津 、 千 歳 、 美 幌 、 大 湊 、 佐 世保 、 佐 伯 、 鹿 屋 、 呉 、 舞 鶴 、 元 山 ( 朝 鮮 )、鎮 海 ( 朝 鮮 )、 父 島 ( 小 笠 原 )、 高 雄 ( 台 湾 )などに 基 地 航 空 隊 を 置 いた。これらの陸 上 基 地 には 戦 闘 機 だけでなく、 空 母に 搭 載 できない 双 発 の 陸 上 攻 撃 機 ( 爆撃 機 )、 水 上 機 、 輸 送 機 が 配 備 された。開 戦 前 、 海 軍 の 運 用 可 能 な 航 空 機 は3,300 機 になっていた。太 平 洋 戦 争 の 開 始 直 後 、 海 軍 は 英 国東 洋 艦 隊 の 戦 艦 「プリンス・オブ・ウェールズ」と 巡 洋 戦 艦 「レパレス」をマレー 半 島 沖 で 撃 沈 する。 攻 撃 したのは 美 幌 、 元 山 、 鹿 屋 の 各 基 地 航 空 隊 所属 の 九 六 式 陸 上 攻 撃 機 と 一 式 陸 上 攻 撃機 であった。この 戦 闘 は「マレー 沖 海戦 」と 呼 ばれるが、 世 界 で 初 めて 作 戦69 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセー表 9航 空 機 用 揮 発 油 の 消 費 量 (1,000kl)た 日 本 の 航 空 機 の 性 能 に 大 きく 影 響やした。また、 金 属 冶 金 の 技 術 力 の 問年 海 軍 陸 軍 民 間 計昭 和 6(1931) 年 23 23 - 46昭 和 10(1935) 年 33 32 3 68昭 和 12(1937) 年 60 50 3 113昭 和 15(1940) 年 100 91 13 204昭 和 16(1941) 年 165 185 11 361昭 和 17(1942) 年 562 370 - 932昭 和 18(1943) 年 640 421 - 1,061昭 和 19(1944) 年 555 367 - 922昭 和 20(1945) 年 86 56 - 142( 注 ) 昭 和 16~20 年 の 民 間 消 費 量 は 不 明出 所 : 第 二 復 員 省 資 料 、 戦 史 叢 書 海 軍 軍 戦 備 (1)題 で 高 性 能 ターボ( 過 給 器 )が 造 れず、高 々 度 飛 行 ができなかった。このため、 戦 争 後 期 のB- 29の 来 襲 には 迎 撃能 力 に 問 題 が 生 じた。ちなみに、 日 米 開 戦 の 前 年 、 昭 和15(1940) 年 に 海 軍 で 制 式 採 用 され、太 平 洋 戦 争 を 通 して 主 力 戦 闘 機 として 使 用 された 零 式 艦 上 戦 闘 機 の 燃 料搭 載 量 は、 初 期 型 で525l、 航 続 距 離約 2,200kmであった。1 回 の 出 撃 でドラム 缶 約 2.5 本 の 航 空 機 用 揮 発 油 を 消費 した。また、 昭 和 16(1941) 年 に表 10 海 軍 の 航 空 機 用 揮 発 油 の 備 蓄 量備 蓄 量 ( 千 kl)昭 和 元 (1926) 年 0.9昭 和 6(1931) 年 3.2 満 州 事 変昭 和 10(1935) 年 3.3昭 和 12(1937) 年 99.0 日 華 事 変昭 和 15(1940) 年 150.0 日 華 事 変昭 和 16(1941) 年 477.5 太 平 洋 戦 争昭 和 17(1942) 年 40.3 太 平 洋 戦 争昭 和 18(1943) 年 32.3 太 平 洋 戦 争昭 和 19(1944) 年 19.5 太 平 洋 戦 争昭 和 20(1945) 年 7.2 太 平 洋 戦 争出 所 : 第 二 復 員 省 資 料 、 戦 史 叢 書 海 軍 軍 戦 備 (1)制 式 化 された 一 式 陸 上 攻 撃 機 ( 双 発 )の 燃 料 搭 載 量 は4,800l、ドラム 缶 約24 本 分 の 航 空 用 揮 発 油 を 積 んで4,200kmを 飛 行 した。オクタン 価 については、 当 初 、87 程 度 であったが、徐 々に 品 質 の 改 良 が 進 められ、 戦 争の 後 半 、 実 戦 機 には91 ~ 92 程 度 、一 部 には95の 航 空 用 揮 発 油 が 使 用 されていた。オクタン 価 による 馬 力 の増 加 は85と100ではその 数 値 差 分 、15% 程 度 であった。海 軍 の 石 油 備 蓄行 動 中 の 戦 艦 を 航 空 機 が 沈 没 させたことで 有 名 になった。センピル 航 空 教 育団 が 海 軍 航 空 隊 の 基 礎 を 築 いてから20 年 、その 航 空 隊 が 英 国 海 軍 の 最 新鋭 戦 艦 を 撃 沈 した。時 のチャーチル 英 国 首 相 は 回 想 録で、「 総 理 、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパレス』は、 日 本 航 空 部 隊 の攻 撃 で 沈 められました。 司 令 長 官 (トーマス・フィリップス 中 将 も 戦 死 しました)」「 間 違 いありませんか?」「 間 違いありません」「 私 は 受 話 機 を 置 いた。戦 争 の 全 期 間 を 通 じて、 私 はこれ 以 上のショックを 受 けたことがなかった。私 はベツドの 上 で 身 もだえした。もう、太 平 洋 は 日 本 のものになった」と 記 述している。飛 行 機 の 燃 料 、 航 空 機 用 揮 発 油 の 消費 量 は 昭 和 6(1931) 年 では 4 万 6,000klであった。 日 華 事 変 が 勃 発 した 昭和 12(1937) 年 は11 万 kl、 太 平 洋 戦争 中 の 昭 和 18(1943) 年 は106 万 klと6 年 間 で 約 10 倍 に 激 増 している。開 戦 直 前 の 航 空 機 用 揮 発 油 の 備 蓄 量は 約 4 8 万 kl、 海 軍 の 最 大 の 関 心 はこの 航 空 機 用 揮 発 油 をいかに 確 保 するかにあった。さらに、 量 だけでなく質 の 問 題 もあった。 米 国 で 通 常 に 使用 されていたオクタン 価 100の 航 空 機用 揮 発 油 は 日 本 では 最 後 まで 量 産 化されることはなかった。このことは 小出 力 のエンジンしか 製 造 できなかっ艦 艇 用 の 燃 料 が 重 油 に 切 り 替 えられると、 海 軍 は 石 油 の 購 入 と 備 蓄 を開 始 した。 明 治 42(1909) 年 、 最 初の 石 油 備 蓄 用 に 国 内 産 重 油 3,700トンが 購 入 された。これが 海 軍 最 初 の 大量 購 入 であった。 同 年 末 、この 重 油を 備 蓄 するタンクが 横 須 賀 の 箱 崎 地区 に 完 成 した。タンクは 鋼 鉄 製 、 備蓄 容 積 は6,000トンであった。さらに、 海 軍 は 明 治 44(1911) 年 に佐 世 保 、 大 正 2(1913) 年 に 呉 、 大 正3(1914) 年 に 舞 鶴 と、 備 蓄 タンクを建 造 した。 同 年 末 にはタンク 容 積 の 合計 は2 万 4,500トンになった。 備 蓄 タンクは 鋼 鉄 製 だけでなくコンクリート製 の 土 中 式 タンクも 建 造 された。主 力 艦 で 最 初 に 石 炭 ・ 重 油 混 焼 缶2011.3 Vol.45 No.2 70


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-を 搭 載 したのは 戦 艦 「 薩 摩 」、 重 油 の搭 載 量 は377トンであった。 大 正 3(1914) 年 、 第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 すると 海 軍 軍 令 部 は 戦 時 6カ 月 分 の 重 油19 万 トンを 備 蓄 することを 政 府 に 要求 した。 大 戦 は 艦 艇 の 炭 ・ 油 混 焼 缶の 増 加 と 備 蓄 用 設 備 の 整 備 を 急 速 に進 めさせた。表 11 海 軍 の 石 油 備 蓄 容 量 ( 大 正 8 年 )トン横 須 賀 30,500呉 30,000佐 世 保 57,000舞 鶴 3,000馬 公 ( 台 湾 ) 9,000計 129,500出 所 : 戦 史 叢 書 海 軍 軍 戦 備 (1)明 治 36(1903) 年 、 海 軍 は「 燃 料 調査 委 員 会 」を 設 置 して 艦 艇 の 燃 料 に 関する 研 究 を 開 始 した。 日 露 戦 争 の 終 結後 に 出 された 報 告 書 では、 重 油 の 優 秀性 が 評 価 され 海 軍 の 燃 料 として 重 油( 炭 ・ 油 混 焼 缶 )を 使 用 することが 決 められた。この 委 員 会 の 第 2 回 報 告 書 では、「 重 油 の 供 給 は 国 産 品 で 可 能 」と 楽観 的 であったが、その 直 後 から 石 油 の民 間 での 使 用 が 増 加 した。さらに、 第一 次 世 界 大 戦 での 産 業 の 活 性 化 が 加わって 将 来 的 に 国 産 品 だけでは 石 油 の需 要 に 応 じきれないことが 分 かってきた。 民 間 の 石 油 消 費 量 が 増 加 したのである。大 正 初 期 、 国 内 原 油 の 生 産 量 は 年 間約 40 万 klであった。 民 間 では 農 業 用の 発 動 機 、 漁 船 の 動 力 、 工 場 の 動 力 などに 加 えて 家 庭 でも 暖 房 用 の 石 油 ストーブ、 炊 事 用 の 石 油 コンロが 使 われ、自 動 車 も 徐 々に 普 及 していた 時 期 だった。 民 間 の 石 油 消 費 量 は 年 間 55 万 ~60 万 klにも 上 り、 国 産 原 油 だけでは賄 いきれなくなっていた。このことは 必 然 的 に 石 油 を 輸 入 することを 意 味 するが、 第 一 次 世 界 大 戦 の進 展 は 世 界 的 に 油 槽 船 と 石 油 不 足 を 招き、 重 油 の 調 達 が 容 易 でなくなった。この 状 況 を 考 慮 した 海 軍 省 艦 政 局 は、大 正 7(1 918) 年 1 月 、1 石 油 業 の 海軍 官 営 、2 石 油 の 統 制 、3 海 軍 製 油所 の 設 立 を 内 容 とする「 軍 用 石 油 需 要おぼえの 根 本 策 覚 」を 加 藤 友 三 郎 海 相 に 提 出した。加 藤 海 相 はこの 根 本 策 覚 をさらに 艦政 局 に 検 討 させて、 同 年 5 月 、「 軍 事上 の 必 要 に 基 づく 石 油 政 策 」を 立 案 させた。これが 海 軍 で 最 初 の 石 油 政 策 となった。この 石 油 政 策 の 概 要 は 次 のとおりであった。(1) 日 本 の 石 油 業 は 営 利 会 社 の 経 営 に 任すのではなく、 官 業 として 利 益 の 一部 で 油 田 の 調 査 開 発 を 行 う。(2) 平 時 の 燃 料 は、 極 力 、 外 国 産 の 原 料に 求 め、 国 内 の 油 田 を 開 発 、これを予 備 油 田 として 有 事 に 備 える。(3) 国 内 の 石 油 会 社 を 統 合 し、 政 府 が 関与 して 石 油 業 の 統 一 を 図 る。(4)この 統 合 会 社 へ 石 油 の 専 売 権 を 与 え軍 用 石 油 の 供 給 義 務 を 負 わせる。この「 石 油 政 策 」が 目 的 とするところは、1 石 油 事 業 の 官 業 化 、2 石 油 の統 制 、3 非 常 時 における 石 油 の 供 給義 務 であった。 日 本 の 石 油 政 策 はその最 初 から 統 制 的 傾 向 を 持 っていたと 言える。この 政 策 は 閣 議 決 定 などの 正 式な 政 府 の 方 針 にはならなかったが、 寺まさたけ内 正 毅 総 理 以 下 の 関 係 大 臣 に 説 明 が 行われた。この 時 期 、 海 軍 はロイヤル・ダッチ・シェルの 販 売 会 社 ライジングサン 石 油会 社 と 同 社 が 保 有 する 福 岡 県 の 西 戸 崎製 油 所 から 石 油 の 貯 蔵 設 備 を 購 入 する交 渉 を 行 っていた。 大 正 7(1918) 年11 月 、 第 一 次 世 界 大 戦 が 終 結 するとひっ ぱく油 槽 船 の 逼 迫 状 態 も 収 まり、 物 価 も 下落 した。この 経 済 変 化 のなかで 石 油 会社 との 交 渉 で 資 産 の 購 入 価 格 が 一 致 しなかった 海 軍 は、 購 入 をやめて 自 前 の製 油 所 を 建 設 することを 決 めた。急 きょ、 新 製 油 所 の 建 設 が 徳 山 の海 軍 煉 炭 製 造 所 で 始 まった。 大 正 9(1920) 年 9 月 、 海 軍 省 に 軍 需 局 が 設けられ 海 軍 の 燃 料 行 政 は 同 局 の 所 管となった。 翌 大 正 10(1921) 年 4 月 、海 軍 は 徳 山 の 煉 炭 製 造 所 を 廃 止 して海 軍 燃 料 廠 を 設 立 する。この 海 軍 燃料 廠 は、 当 初 、 目 標 として 重 油 の 年間 生 産 量 を20 万 トンとした。 海 軍 燃料 廠 は、その 後 、8カ 所 に 設 置 されることになる。(1) 第 一 海 軍 燃 料 廠 ( 神 奈 川 県 横 浜 市 栄区 )= 燃 料 研 究 の 中 心(2) 第 二 海 軍 燃 料 廠 ( 三 重 県 四 日 市 )=海 軍 の 液 体 燃 料 、 潤 滑 油 の 主 要 部分 を 生 産(3) 第 三 海 軍 燃 料 廠 ( 山 口 県 徳 山 市 )=海 軍 の 液 体 燃 料 、 潤 滑 油 の 一 部 を生 産(4) 第 四 海 軍 燃 料 廠 ( 福 岡 県 新 原 )= 石かんりゅう炭 の 生 産 と 石 炭 ボタの 乾 溜(5) 第 五 海 軍 燃 料 廠 ( 朝 鮮 平 壌 )= 無 煙炭 の 生 産 、 煉 炭 の 製 造 、 石 炭 ボタの 乾 溜(6) 第 六 海 軍 燃 料 廠 ( 台 湾 高 雄 、 新 竹 、新 高 )高 雄 = 本 部 、 精 製 部新 竹 = 合 成 部 (ブタノール 醗 酵 )新 高 ( 台 中 海 岸 )= 化 成 部 ( 潤 滑 油 )(7) 南 方 海 軍 燃 料 廠第 百 一 海 軍 燃 料 廠 (ボルネオ)バリクパパン= 本 部 、 第 3 作 業 部( 石 油 精 製 )サンガサンガ= 第 1 作 業 部 ( 採 油 )タラカン= 第 2 作 業 部 ( 採 油 )ロクアール= 第 4 作 業 部 ( 採 炭 =ロクアール 炭 鉱 )第 百 二 海 軍 燃 料 廠 =バリクパパンの 第 3 作 業 部 が 独 立 移 管(8) 鹿 児 島 海 軍 燃 料 廠 ( 鹿 児 島 県 国 分 )原 油 処 理 量 60 万 klの 精 油 を 目 的としたが、 資 材 不 足 で 建 設 を 中 断71 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセー第 三 海 軍 燃 料 廠 ( 徳 山 )の配 置 図備 蓄 用 タンクの 建 造 も 第 一 次 世 界 大戦 の 終 結 が 一 つの 契 機 になった。 大 戦で 鋼 材 の 需 要 が 増 加 し、 逼 迫 していた石 油 市 場 が 緩 んだためであった。 海 軍は 米 海 軍 の 標 準 タンク( 鋼 鉄 製 7,000トン)を 輸 入 して、これを 参 考 に 同 型タンクを 製 造 した。 製 造 されたタンクは 83 基 、その 貯 蔵 容 量 は 5 8 万 トンになった。この 結 果 、 大 正 15(1926)年 末 の 海 軍 の 備 蓄 用 タンク 容 量 は159万 トン、 大 正 8(1919) 年 から 僅 か7年 間 で12 倍 にもなった。国 内 の 原 油 生 産 がピークを 迎 えたのは 大 正 4(1915) 年 、 生 産 量 は47 万 klであった。この 頃 の 主 力 油 田 は 新 潟 県の 西 山 油 田 ( 日 本 石 油 )、 東 山 油 田 ( 宝田 石 油 )であった。しかし、 民 間 の 石油 消 費 も 増 加 して、 国 内 産 の 原 油 だけでは 需 要 が 賄 いきれなくなっていた。海 軍 は 大 正 6(1917) 年 から 本 格 的 に海 外 から 石 油 の 調 達 を 開 始 した。 最 初は 蘭 印 ( 現 インドネシア)のボルネオ 重油 (タラカン 産 )6 万 トンが 英 国 の「アングロサクソン・ペトロリアム」 社 の販 売 会 社 「アジアティック・ペトロリアム」 社 から 輸 入 された。このボルネオ 重 油 は 海 軍 で 好 評 であったことから、 大 正 8(1919) 年 には、5 年 間 にわたる 年 間 8 万 トンの 長 期 輸 入 契 約 が結 ばれた。このため、 後 年 、 太 平 洋 戦争 の 開 始 とともに、 海 軍 は 真 っ 先 にタラカン 油 田 を 占 領 する。さらに、 購 入先 は 米 国 、メキシコ、ペルシア、 樺 太 と 広 がっていった。樺 太 からの 原 油 輸 入 は 大 正 8(1919)年 のロシアのイワン・スターヘーフ 商会 と 日 本 のコンソーシアム 会 社 「 北 辰会 」( 久 原 、 三 菱 、 大 倉 、 日 石 、 宝 田 、三 井 物 産 、 鈴 木 商 店 が 出 資 )の 合 弁 事業 を 基 盤 にしていた。 大 正 9 年 (1920)年 に 起 こった 革 命 派 パルチザンの 北 樺太 占 領 、 尼 港 (ニコラエフスク)での 日本 人 虐 殺 事 件 などの 補 償 として、 日 本はソ 連 から 北 樺 太 の 既 存 発 見 油 田 の 採掘 権 と 樺 太 東 海 岸 の 試 掘 権 を 得 た。 政府 は「 北 樺 太 石 油 株 式 会 社 」を 設 立 して 表 12 日 本 の 原 油 生 産 量年kl/ 年明 治 7(1874) 年 555明 治 10(1877) 年 1,825明 治 20(1887) 年 5,467明 治 30(1897) 年 41,730明 治 40(1907) 年 273,116大 正 元 (1912) 年 263,076大 正 5(1916) 年 467,724大 正 10(1921) 年 353,777昭 和 元 (1926) 年 269,965昭 和 5 (1930) 年 316,560昭 和 10(1935) 年 350,957昭 和 15(1940) 年 331,002昭 和 16(1941) 年 287,195昭 和 17(1942) 年 262,871昭 和 18(1943) 年 271,248昭 和 19(1944) 年 267,054昭 和 20(1945) 年 243,062出 所 : 石 油 統 計 年 報 ( 昭 和 36 年 )出 所 : 徳 山 海 軍 燃 料 廠 史図 2徳 山 地 区 油 槽 分 布 図表 13 日 本 の 石 油 輸 入 量 (1,000kl)年 原 油 石 油 製 品 計昭 和 6(1931) 年 1,016 2,099 3,115昭 和 10(1935) 年 2,032 3,184 5,216昭 和 12(1937) 年 3,176 3,449 6,625昭 和 13(1938) 年 2,925 3,458 6,383昭 和 14(1939) 年 2,995 1,927 4,922昭 和 15(1940) 年 3,751 2,537 6,288昭 和 16(1941) 年 1,313 952 2,265( 注 ) 石 油 輸 入 量 の 数 値 は 種 々あるが、この 数 値 は 海 軍 の 数 値 。出 所 : 戦 史 叢 書 海 軍 戦 備 (1)2011.3 Vol.45 No.2 72


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-海 軍 がその 指 導 にあたった。 生 産 量 は当 初 の 大 正 13(1924) 年 は 5,4 0 0 トンであったが、 昭 和 8(1 9 3 3) 年 にはピークの19 万 3,000トンになった。これに 加 えてソ 連 が 生 産 した 原 油 も 購 入 して 日 本 に 持 ち 込 んだ。その 最 大 量 は 昭和 8 年 の31 万 3,000トンであった。 北樺 太 原 油 の 大 部 分 は 海 軍 の 徳 山 燃 料 廠に 搬 入 された。しかし、 昭 和 11(1936)年 1 1 月 、 日 独 防 共 協 定 ( 翌 年 日 独 伊 防共 協 定 に 改 訂 )が 締 結 されると、ソ 連側 からの 労 働 許 可 の 発 給 停 止 、 関 連 施設 建 設 の 手 続 き 延 期 などの 作 業 を 妨 害する 圧 迫 が 加 わり、 原 油 の 生 産 と 輸 出量 は 急 速 に 減 少 していった。 自 国 を 敵視 する 国 に 対 する 対 応 としてこれは 当然 のことであったが、 日 本 は 蘭 印 なども資 源 の 輸 入 先 国 と 揉 めることが 多 く、これは 一 つの 性 癖 とも 言 えた。一 元 的 に 統 括 する 体 制 がつくられた。軍 需 局 が 打 ち 出 した 燃 料 対 策 は 次 のようなものであった。(1) 外 国 産 石 油 の 購 入 方 針 の 決 定 と 実 施(2) 北 樺 太 油 田 の 開 発(3) 台 湾 油 田 の 開 発(4) 石 炭 低 温 乾 溜 工 業 の 研 究 と 奨 励けつがん (5) 油 頁 岩 (オイルシェール) 工 業 の 奨 励(6) 石 炭 液 化 工 業 の 推 進(7) 石 油 備 蓄 方 針 の 決 定 と 実 施(8) 政 府 としての 燃 料 局 の 開 設(9) 日 華 事 変 対 策(10)イソオクタンおよび 航 空 潤 滑 油の 製 造 技 術 の 導 入(11)イソオクタン 合 成 工 業 の 研 究 と奨 励(1 2) 接 触 分 解 法 技 術 の 導 入(1 3) 航 空 潤 滑 油 対 策(1 4) 耐 爆 剤 ( 四 エチル 鉛 ) 対 策(15)タンカー 助 成 策 の 実 施(16) 海 軍 の 燃 料 備 蓄 方 針 に 基 づく 貯油 タンクの 建 設この、 軍 需 局 の 燃 料 対 策 は、その 後の 海 軍 の 燃 料 政 策 の 基 本 となって 昭 和20 年 の 敗 戦 まで 継 続 されることになる。 以 下 はその 進 展 と 成 果 の 概 要 である。(1) 米 国 、ボルネオ、ペルシヤ、メキシコからの 購 入(2) 北 樺 太 石 油 会 社 の 設 立 、 生 産 、 輸 入(3) 石 油 の 試 掘 は 失 敗 。 自 噴 ガスの 利 用(4) 海 軍 煉 炭 製 造 所 ( 後 の 徳 山 燃 料 廠 )で 実 験 研 究(5) 満 州 撫 順 で 生 産 。 最 大 は 昭 和 17 年の 粗 油 生 産 量 16 万 kl(6) 朝 鮮 窒 素 、 満 鉄 で 実 験 。 工 業 化 に至 らず海 軍 の 燃 料 対 策明 治 39(1906) 年 、 海 軍 が 燃 料 として 重 油 の 採 用 を 決 めた 時 、 海 軍 内 の燃 料 主 管 部 局 は 艦 政 本 部 第 二 部 であった。 大 正 9(1920) 年 1 0 月 、 海 軍 省 内に 軍 需 局 が 設 立 され 海 軍 の 燃 料 問 題 を海 軍 燃 料 タンク 設 置 表表 14( 昭 和 17 年 )容 積地 域原 油 ・ 重 油 揮 発 油横 須 賀 906 7呉 2,976佐 世 保 666 410舞 鶴 282大 湊 117鎮 海 ( 朝 鮮 ) 140旅 順 ( 満 州 ) 14馬 公 ( 台 湾 ) 101徳 山 1,584四 日 市 60計 6,846 417 出 所 : 日 本 海 軍 燃 料 史 ( 注 ) 原 油 、 重 油 は1,000トン、 揮 発 油 は1,000kl出 所 : 戦 史 叢 書 海 軍 軍 戦 備 (1)図 3海 軍 の 備 蓄 量 推 移73 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセー(7) 昭 和 11 年 の 備 蓄 設 定 目 標 、1,000万 kl(8) 昭 和 12 年 6 月 、 商 工 省 燃 料 局 設 立(9) 米 国 製 100オクタン、 蘭 印 製 92オクタンの 航 空 機 用 ガソリンの 輸 入 。支 那 事 変 で 海 軍 航 空 隊 が 使 用(10) 昭 和 13 年 、 米 国 からイソオクタン 製 造 装 置 、 高 級 潤 滑 油 製 造 装置 を 輸 入(11) 朝 鮮 に 年 産 3 万 klの 製 造 装 置 完成 。 昭 和 19 年 3 月 の 稼 働 率 70%(12) 米 国 の 技 術 禁 輸 を 受 けるが、 昭和 16 年 、 第 二 海 軍 燃 料 廠 ( 四 日 市 )に 装 置 完 成(1 3) 輸 入 貯 蔵 品 を 使 用 。 昭 和 18 年 以 降 、国 産 化 に 成 功(1 4) 輸 入 貯 蔵 品 を 使 用 。 昭 和 14 年 以 降 、一 部 、 国 内 製 造 品 も 使 用 可 能(15) 優 速 油 槽 船 の 保 護 政 策 、 海 軍 用燃 料 の 輸 送 策 、 船 質 改 善 の 助 成施 策 、 大 型 優 秀 船 の 建 造 助 成 施策 (14 隻 )(16) 昭 和 17 年 までに 備 蓄 容 積 780 万kl 完 成石 油 の 備 蓄 については 燃 料 対 策 の(7)と(16)に 掲 げられている。 昭 和 2出 所 : 徳 山 海 軍 燃 料 廠 史図 4(1927) 年 、 海 軍 は 石 油 の 備 蓄 量 として300 万 klの 目 標 値 を 掲 げた。この目 標 値 は、 昭 和 9(1934) 年 に600 万kl、 昭 和 11(1936) 年 には1,000 万 klに 増 量 された。( 注 ) 換 算 率 では、 正 確 には 1 トン= 1.16klであるが、 当 時 は 1 トン= 1klと 読む 場 合 があった。この 石 油 備 蓄 タンクは 軍 港 ( 艦 隊 の根 拠 地 : 横 須 賀 、 呉 、 佐 世 保 )、 要 港 ( 軍港 に 次 ぐ 重 要 な 港 : 舞 鶴 、 大 湊 、 鎮 海 、馬 公 )、 旅 順 港 、 燃 料 廠 ( 徳 山 、 四 日 市 )に 設 置 された。 最 大 の 備 蓄 基 地 は 呉で298 万 トンの 備 蓄 容 積 を 持 っていた。タンクは 鋼 鉄 製 、コンクリート 製 、土 中 コンクリート 製 で 構 成 されていた。そのうちの 半 分 は 土 中 コンクリートタンクであった。徳 山 の 第 三 燃 料 廠 、 大 迫 田 地 区 の14 万 坪 ( 約 46 万 3,000m 2 )の 敷 地 に 建設 された 地 下 タンク 群 は12 基 、1 基あたりの 最 大 備 蓄 容 積 は5 万 kl、 直径 88m、 高 さ11mで 各 タンクと 燃 料くだまつ廠 、 日 本 石 油 下 松 製 油 所 の 間 はパイプラインで 結 ばれていた。タンクの 屋根 はコンクリート、 鉄 板 、コンクリートの 三 層 構 造 で、その 上 をさらに 大 迫 田 地 下 油 槽 地 区 50cmの 土 が 覆 っていた。 航 空 機 用揮 発 油 の 備 蓄 タンクは 横 須 賀 の 金 沢と 小 柴 地 区 に7,000kl、 佐 世 保 の 庵崎 と 大 田 地 域 に41 万 klが 貯 蔵 できる設 備 が 建 設 された。政 府 の 石 油 備 蓄昭 和 12(1937) 年 6 月 、 政 府 として初 めて 燃 料 を 総 合 的 に 統 括 する 商 工 省燃 料 局 が 設 置 された。 同 年 7 月 、 日 華事 変 が 勃 発 した。この3 年 前 、 昭 和 9(1934) 年 石 油 の 基 本 法 「 石 油 業 法 」が 執 行 されていた。この 法 律 の 概 要 は、1 外 国 石 油 資 本 の 圧 迫 から 国 内 業 者を 保 護 すること( 販 売 量 の 割 り 当 て)、2 原 油 を 輸 入 して 国 内 精 製 主 義 とすること( 精 製 の 許 可 基 準 )、3 有 事 に備 えて 民 間 にも 備 蓄 義 務 を 課 したこと( 輸 入 量 の 半 年 分 )であった。この 法 律 が 成 立 する 前 、 燃 料 の 主 管部 局 は 商 工 省 鉱 山 局 燃 料 課 であったが、 権 限 が 各 省 に 分 散 していて 統 一 性が 取 れていなかった。そのため、 新 設の 燃 料 局 には 陸 軍 省 、 海 軍 省 からも 部長 、 課 長 級 が 出 向 して 政 策 の 統 一 を 取ることが 図 られた。 新 設 燃 料 局 の 初 仕事 は「 第 一 次 石 油 消 費 規 制 」の 実 施 と 石油 を 輸 入 して 備 蓄 用 の 石 油 を 確 保 することであった。 規 制 は 日 華 事 変 が 勃 発したため 民 間 の 石 油 消 費 を 抑 制 して、戦 争 に 回 す 石 油 を 確 保 することが 目 的であった。民 間 の 石 油 消 費 量 は 産 業 の 発 達 とともに 増 加 して、この 年 ( 昭 和 12 年 )、過 去 最 高 の470 万 klを 示 していた。この 消 費 量 は 昭 和 13(1938) 年 3 月 の「 第 二 次 消 費 規 制 」「 配 給 切 符 制 」の 実施 によって、 太 平 洋 戦 争 開 始 の 昭 和16(1941) 年 には213 万 kl( 対 12 年比 45%)、 敗 戦 の 昭 和 20(1945) 年 には13 万 kl( 同 3%)と 下 降 していく。燃 料 局 は 日 華 事 変 の 開 始 、 消 費 規 制の 実 施 と 同 時 に 新 たに 石 油 を 輸 入 して備 蓄 に 回 すことを 計 画 した。 政 府 は、2011.3 Vol.45 No.2 74


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-直 接 、 石 油 を 新 規 に 大 量 輸 入 することは 米 国 を 刺 激 すると 考 えた。 昭 和12(1937) 年 11 月 、 石 油 関 係 会 社 1 8社 の 出 資 を 得 て 特 殊 会 社 「 協 同 企 業 株式 会 社 」が 設 立 され、 航 空 機 用 揮 発 油向 けの 原 油 28 万 3,900トンと 普 通 揮発 油 向 けの 原 油 42 万 7,900トンの 計71 万 1,800トンを 輸 入 することができた。 原 油 と 同 時 に 米 国 から 備 蓄 用 のタンク 資 材 を 購 入 して、 輸 入 した 原油 が 日 本 に 到 着 する 前 に 容 積 1 万 トンのタンク65 基 が、 急 きょ、 設 置 された。この 原 油 の 輸 入 は 三 菱 商 事 1 社 が 行い、 主 に 米 国 から 英 国 とノルウェーようせん 籍 の 油 槽 船 を 計 50 隻 、 傭 船 して 行 われた。 日 華 事 変 の 最 中 であったが、報 道 管 制 が 敷 かれたこともあって、原 油 は 昭 和 13(193 8) 年 7 月 までに問 題 なく 日 本 へ 運 び 込 まれた。 輸 入された 原 油 は、 翌 14(1 9 3 9) 年 1 0 月 、陸 軍 に 移 管 ( 予 算 4,992 万 円 )された。 陸 軍 はこの 原 油 を 基 に、 昭 和 15(1 9 4 0) 年 8 月 、 陸 軍 燃 料 廠 ( 廠 長 : 長はじめ谷 川 基 少 将 )を 設 立 した。 輸 入 された原 油 の 量 は 昭 和 15 年 に 陸 軍 が 消 費 した 石 油 の 約 2 年 分 に 相 当 した。 日 華 事変 が 始 まって3 年 、 陸 軍 はようやく 石油 問 題 に 本 格 的 に 取 り 組 むことになった。 陸 軍 は 東 京 府 下 の 東 府 中 に17 万 坪 ( 約 56 万 2,000m 2 )の 広 大 な 土地 を 購 入 して 陸 軍 燃 料 廠 の 本 部 と 研究 部 を 設 置 した。 現 在 の 京 王 線 東 府中 駅 の 北 、 府 中 の 森 公 園 と 航 空 自 衛隊 府 中 基 地 がその 跡 地 にあたる。陸 軍 燃 料 廠 の 製 油 所 と 石 油 備 蓄 基地 は 昭 和 16(1941) 年 4 月 から 山 口 県岩 国 、 山 陽 本 線 和 木 駅 の 東 方 、30 万坪 ( 約 99 万 2,000m 2 )の 土 地 に 建 設 された。 跡 地 は 現 在 、 三 井 化 学 岩 国 大竹 工 場 となっている。この 岩 国 に 建設 された 陸 軍 燃 料 廠 は 主 に 航 空 機 用揮 発 油 の 製 造 を 目 的 にしていた。この 燃 料 廠 は「 陸 軍 燃 料 廠 第 一 製 造 所 」「 陸 軍 燃 料 第 一 工 廠 」、「 岩 国 陸 軍 燃 料廠 」と 名 称 を 変 えて 敗 戦 を 迎 える。陸 軍 は 岩 国 の 燃 料 廠 に 加 えて、 中国 大 陸 での 作 戦 へ 通 常 の 石 油 製 品 を供 給 するために 満 州 の 錦 西 に「 第 二 燃料 廠 」を、さらに、 四 平 街 に 人 造 石 油の 製 造 のために「 第 二 工 廠 分 廠 」を 建設 した。 錦 西 は 現 在 の 中 国 遼 寧 省 のこ葫ろ芦 島 、 渤 海 湾 の 最 北 端 に 面 し、 交通 の 要 所 、 港 湾 の 街 である。 四 平 街は 中 国 吉 林 省 の 四 平 、 長 春 の 南 西 約60kmに 位 置 する 石 炭 の 産 地 である。いずれの 工 廠 も 設 備 が 完 成 した 直 後であることと 建 設 中 に 戦 争 が 終 わって 燃 料 供 給 には 貢 献 しなかった。この 原 油 輸 入 とは 別 に、 昭 和 14(1 9 3 9) 年 以 降 、 政 府 は 重 要 物 資 ( 鉄 類 、*11非 鉄 金 属 、 石 油 等 )の 繰 り 上 げ 輸 入表 15 日 本 の 石 油 消 費 量 (1,000kl)年 陸 軍 海 軍 民 間 計昭 和 6(1931) 年 115 324 2,038 2,477昭 和 10(1935) 年 196 604 3,682 4,482昭 和 12(1937) 年 262 737 4,696 5,695昭 和 13(1938) 年 318 808 3,939 5,065昭 和 14(1939) 年 333 915 3,177 4,425昭 和 15(1940) 年 369 1,082 3,133 4,584昭 和 16(1941) 年 509 1,460 2,128 4,097昭 和 17(1942) 年 855 4,875 2,484 8,214昭 和 18(1943) 年 811 4,283 1,525 6,619昭 和 19(1944) 年 674 3,175 837 4,686昭 和 20(1945) 年 146 569 133 848計 4,588 18,832 27,772 51,192( 注 ) 石 油 消 費 量 は 数 種 ある。この 数 値 は 海 軍 の 数 値 。出 所 : 戦 史 叢 書 海 軍 戦 備 (1)表 16 陸 軍 燃 料 廠 の 石 油 製 品 生 産 量 (kl)年 度 昭 和 17 年 昭 和 18 年 昭 和 19 年 昭 和 20 年航 空 機 用 揮 発 油 59,500 80,300 53,340 600普 通 揮 発 油 18,900 32,930 6,000 50軽 油 84,540 90,070 37,880 3,000灯 油 12,000 16,480 2,500 0その 他 8,600 11,700 5,040 0計 183,540 231,480 104,760 3,650( 注 ) 元 数 値 はバレル。1kl=6.3バレル。 操 業 開 始 は 昭 和 17 年 度 第 1 四 半 期 。 昭 和 20 年 は 第 1 四 半 期 。その 他 は 潤 滑 油 、イソオクタン。出 所 : 米 国 戦 略 爆 撃 団 調 査 報 告(2 次 )、 特 別 輸 入 *12 (6 次 )、 調 整 輸入 (2 次 )を 行 った。 物 資 の 調 達 先 は 米国 、カナダ、 豪 州 、 南 ア、エジプト、太 平 洋 諸 島 、 南 米 など 広 範 囲 にわたった。 石 油 については 昭 和 16(1941)年 2 月 閣 議 決 定 の 特 別 輸 入 ( 第 6 次 )までで 原 油 65 万 kl、 航 空 機 用 揮 発 油19 万 kl、 普 通 揮 発 油 27 万 klなど137 万 klを 輸 入 した。この 枠 外 輸 入に 使 用 された 費 用 ( 全 物 資 分 )は6 億870 万 円 に 達 した。 輸 入 先 は 主 に 米 国であった。では、 日 本 は 開 戦 前 、どの 程 度 の 石油 を 備 蓄 したのであろうか。 統 計 数 値には 各 種 の 数 値 がある。75 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセー特 別 輸 入 繰 り 上 げ 輸 入 合 計第 1 種 原 油 165 200 365第 2 種 原 油 288 288航 空 揮 発 油 160 30 190普 通 揮 発 油 272 272機 械 油 85 3 88航 空 潤 滑 油 30 30重 油 137 137合 計 1,137 233 1,370出 所 : 敗 戦 の 記 録表 17 < 参 考 > 石 油 の 特 別 ・ 繰 り 上 げ 輸 入 量 (1,000kl)表 18 日 本 の 石 油 輸 入 先 国 ( 昭 和 14 年 )国 原 油 製 品 計 %米 国 269 162 431 81.2蘭 印 9 67 76 14.3樺 太 16 - 16 3.0その 他 2 6 8 1.5計 296 235 531 100.0( 注 ) 昭 和 12~16 年 の 輸 入 先 国 を 見 ると、この 他 にバーレーン、サウジアラビア、イラン、ペルー、エクアドル、メキシコがある。出 所 :スタンダード・バキューム 石 油 と 米 国 の 東 アジア 政 策よる 還 送 であれ 供 給 が 行 われなければならない。 備 蓄 だけでは 持 久 手 段 にすぎない。 南 方 供 給 源 からの 供 給 ルートの 確 保 なくして 戦 略 化 は 行 われないのであった。しかし、そのためには、蘭 印 のパレンバンから 日 本 の 間5,000kmの 航 路 確 保 が 必 要 であった。日 本 海 軍 が「 海 上 護 衛 総 司 令 部 」を 設置 したのは 開 戦 2 年 後 の 昭 和 18(1943)年 11 月 であった。この 時 すでに 石 油の 還 送 コースは 寸 断 され 始 めていた。海 軍 は 第 一 次 、 二 次 世 界 大 戦 の 大 西 洋の 戦 いが「 補 給 ルート 確 保 の 戦 い」であることを 理 解 していなかった。 第 二次 世 界 大 戦 の 前 半 、1940、1941 年 のUボートによる 英 国 船 の 撃 沈 は 年 200万 トンを 超 えていたのである。「 海 上護 衛 戦 」の 意 味 を 理 解 できなかった 海軍 は 石 油 備 蓄 を 戦 略 化 することができず 備 蓄 量 を 消 耗 させていった。秘 密 にされていた 石 油 備蓄 量・ 米 国 戦 略 爆 撃 団 調 査 報 告810 万 kl( 昭 和 16 年 末 )・ 陸 軍 省 国 力 判 断837 万 トン( 昭 和 1 6 年 8 月 )・ 企 画 院840 万 kl( 昭 和 1 6 年 1 0 月 )・ 海 軍 省 軍 務 局940 万 kl( 昭 和 16 年 8 月 )・ 軍 令 部970 万 kl( 昭 和 16 年 6 月 )一 般 的 には 昭 和 16 年 10 月 、 大 本 営政 府 連 絡 会 議 で 企 画 院 が 説 明 した 数値 840 万 klが 使 用 される 例 が 多 い。筆 者 は 需 給 数 値 等 を 勘 案 して850 万 から875 万 klの 間 であったと 推 測 している。840 万 klの 備 蓄 量 は 開 戦 前 年の 昭 和 15 年 の 石 油 消 費 量 の 約 1 年 10カ 月 分 、 国 内 生 産 分 と 人 造 石 油 分 を 合わせると2 年 分 に 相 当 する。この 時 期 、世 界 の 主 要 国 でこれだけの 石 油 を 備蓄 した 国 はなかった。その 意 味 では 日本 は 世 界 で 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」を行 っていた。当 時 、 米 国 は 世 界 最 大 の 産 油 国 で、昭 和 16 年 の 原 油 生 産 量 は 日 産 60 万 kl、日 本 が 繰 り 上 げ、および 特 別 輸 入 などのあらゆる 手 段 を 講 じ、 苦 労 して 積 み上 げた 備 蓄 量 は 米 国 の 原 油 生 産 量 の僅 か2 週 間 分 に 過 ぎなかった。さらに、米 国 は 太 平 洋 に 面 したカルフォルニアの 油 田 群 を 海 軍 予 備 油 田 として 保有 し、 必 要 があればいつでも 生 産 が行 える 体 制 にあった。 西 海 岸 から4,000km 離 れた 米 太 平 洋 艦 隊 の 本 拠 地真 珠 湾 には 艦 隊 用 の 重 油 と 航 空 機 用の 揮 発 油 を 合 計 で 約 7 0 万 kl 備 蓄 していた。これは 日 本 海 軍 が 想 定 していた1 海 戦 分 の 石 油 量 の1.4 倍 に 相 当 する。日 本 は 平 時 2 年 分 の 石 油 を 備 蓄 した。これを「 戦 略 」 石 油 備 蓄 にするためには、 南 方 からの 日 蘭 会 商 であれ 占 領 に太 平 洋 戦 争 の 開 戦 前 、 石 油 の 備 蓄 量は 極 秘 事 項 であった。 開 戦 50 日 前 の昭 和 16(1941) 年 10 月 17 日 、 東 條 内閣 成 立 の 前 日 、 重 臣 会 議 *13 ( 於 : 宮中 西 留 の 間 )が 開 催 された。 以 下 は、その 時 の 質 疑 応 答 である。若 槻 礼 次 郎 ・ 元 首 相 日 米 戦 争 を 主 唱する 論 として、いわゆるジリ 貧 論 をしばしば 耳 にするが、これ 程 危 険 な 話 はない。 果 たして 戦 争 したならばどうなるかということになるが、 余 程 の 検 討を 必 要 とする。原 嘉 道 ・ 枢 密 院 議 長 石 油 問 題 が、どうも 中 心 と 思 われる。 海 軍 の 油 のことは2 年 位 あるとか 言 うように 聞 かされているが、 陸 軍 は 果 たしてどれ 程 の 準備 を 持 っているか、 分 かっておれば 聞きたい。( 以 上 について、 誰 も 十 分 に 説 明 する者 はなかった。)2011.3 Vol.45 No.2 76


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-岡 田 啓 介 ・ 元 首 相 、 海 軍 大 将 油 の 問題 はいろいろと 煎 じつめても、 結 局 、結 論 は 得 られない。阿 部 信 行 ・ 元 首 相 、 陸 軍 大 将 急 進 の論 をする 人 も、また 引 っ 張 って 外 交 交渉 をする 人 も、 気 持 ちは 同 じで、 要 するに 油 ということなのだが、( 近 衛 ) 首相 はどこまで 追 及 して 研 究 したのであろうか。木 戸 幸 一 ・ 内 大 臣 それは 首 相 としても 相 当 の 追 求 はしたようだが、 十 分 には 扱 えなかったであろうと 思 う。岡 田 海 軍 の 言 うところ、すなわち 条約 でいくなら 徹 底 的 に 条 約 で 進 めてくれという 論 は、うなずけないでもない。海 軍 は 割 合 に 油 を 持 っているのではないか。清 浦 奎 吾 ・ 元 首 相 、 元 枢 密 院 議 長 出先 の 大 使 が 見 込 みありと 言 うのに、 急に 態 度 を 決 めなくてはならぬというのは、どういうわけであるか。木 戸 その 点 は 御 前 会 議 (9 月 6 日 :「 帝国 国 策 遂 行 要 領 」を 決 める= 外 交 で 日本 の 要 求 が10 月 上 旬 になっても 貫 徹できない 場 合 、 対 米 英 蘭 戦 を 決 意 )で決 心 の 期 間 を10 月 上 旬 という 具 合 に切 ってあるため、 陸 軍 との 意 見 の 相 違ができたので、 政 府 ( 第 3 次 近 衛 内 閣 )としては 行 き 詰 まらざるを 得 なかったのだと 思 う。阿 部 清 浦 さんの 言 われるとおり、 見込 みがあるというのに、 政 府 がやめなければならぬというのは、どうも 理 解できない。( 中 略 )若 槻 支 那 事 変 も 既 に4 年 を 費 やしているのだが、 一 体 対 米 戦 争 は 何 年 位 かかると 思 っているのであろう。米 内 光 政 ・ 元 首 相 、 海 軍 大 将 海 軍 が日 米 戦 わば 勝 つということは、 太 平 洋を 土 俵 として 日 米 の 両 艦 隊 が 戦 えば 勝てるということであって、いつ 戦 うかわからない、 自 給 力 はまた 別 論 である。( 海 軍 大 将 米 内 光 政 覚 書 )この 重 臣 会 議 の 発 言 を 見 ると、 重 臣たちが 石 油 の 備 蓄 量 を 正 確 に 把 握 していないことが 分 かる。この 重 臣 会 議 の翌 日 、 東 條 内 閣 が 成 立 し、 開 戦 時 の 内閣 となった。なお、 陸 軍 の 石 油 備 蓄 については、昭 和 16 年 8 月 の 陸 軍 「 物 的 国 力 判 断 」では 航 空 機 用 揮 発 油 47 万 トン、 普 通揮 発 油 40 万 トンの 計 87 万 トン。 陸 軍「 物 的 戦 力 資 料 」では、 原 油 としての貯 蔵 分 を 合 わせて、 航 空 機 用 揮 発 油50 万 kl、 普 通 揮 発 油 40 万 kl、 計90 万 kl( 昭 和 16 年 11 月 時 点 )の 数値 がある。この 量 は 当 時 の 陸 軍 保 有兵 力 の 戦 時 所 要 に 対 し 航 空 機 用 揮 発油 約 1 年 分 、 自 動 車 用 揮 発 油 約 6カ 月分 に 相 当 する。表 19 開 戦 前 の 各 種 需 給 予 測 ( 万 kl)戦 争 終 結 の 展 望供給予測量需要予測量年末備蓄量1 軍 令 部 2 海 軍 省 軍 務 局( 昭 和 16 年 6 月 ) (16 年 8 月 )3 企 画 院(16 年 11 月 )3-2 臥 薪 嘗 胆 案(16 年 11 月 )備 蓄 970 940 840 8401 年 目 80 80 85 662 年 目 205 334 260 903 年 目 375 667 530 114計 1,630 2,021 1,715 1,1101 年 目 600 540 520 3152 年 目 550+50 540 500 3153 年 目 550+50 540 475 315計 1,700+100 1,620 1,495 9451 年 目 450 480 405 5912 年 目 55 274 165 3663 年 目 ▲ 120 401 220 165戦 争 は 始 めるよりもやめる 方 が 難 しいと 言 われる。 始 めた 戦 争 はいつか 終結 させなければならない。では、 日 本は 戦 争 の 終 結 にどのような 見 通 しを持 っていたのだろうか。 開 戦 前 の 昭 和16 年 11 月 15 日 、 大 本 営 政 府 連 絡 会 議に 提 出 された「 対 米 英 蘭 戦 争 終 末 促 進に 関 する 腹 案 」がその 終 結 案 であった。この「 腹 案 」は 陸 軍 省 軍 務 局 軍 務 課 の 高級 課 員 石 井 秋 穂 大 佐 と 海 軍 省 軍 務 局 第二 課 の 高 級 課 員 藤 井 茂 大 佐 の 合 作 によるもので、 起 案 の 後 、 陸 軍 省 参 謀 本 部 、海 軍 省 、 軍 令 部 を 回 り、 大 本 営 政 府 連絡 会 議 で 起 案 どおり 採 択 された。その内 容 は 以 下 のとおりである。( 注 ) 1の 需 要 には 艦 隊 決 戦 がある 場 合 、1 回 分 50 万 kl×2 回 として 計 100 万 klが 追 加 。2の 需要 には 艦 隊 決 戦 1 回 50 万 klが 追 加 、 予 備 ・ 油 槽 内 残 留 130 万 kl 焦 げ 付 きが 差 し 引 き。3の説 明 では 備 蓄 量 840 万 klのうち、150 万 klは 予 備 量 として 差 し 引 き 計 算 。3-2は 企 画 院 説明 の 臥 薪 嘗 胆 (がしんしょうたん) 案 。 陸 海 軍 需 要 量 が 未 記 述 のため 昭 和 14,15 年 の 平 均 値( 米 国 戦 略 爆 撃 調 査 団 の 数 値 315 万 klを 使 用 。 需 給 表 のポイントは 需 要 数 値 。 昭 和 12 年 の消 費 量 は570 万 kl。 米 英 を 相 手 の 世 界 戦 争 をこの 程 度 の 消 費 量 で 戦 える 見 込 みはなく、 需要 が 調 整 値 とされた。出 所 : 杉 山 メモ( 上 )、 戦 史 叢 書 「 海 軍 軍 戦 備 (1)」( 方 針 )お1. 極 東 に 於 ける 米 、 英 、 蘭 の 拠 点 を攻 撃 して「 自 存 自 衛 」の 態 勢 を 確 立する。さらに、 積 極 的 な 攻 勢 によっ77 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセーて 中 国 の 蒋 介 石 政 権 を 降 伏 さす。ま独 、 伊 と 提 携 して、 先 ず、 英 国 を降 伏 させて 米 国 の 戦 争 継 続 の 意 欲を 喪 失 させる。2. 極 力 、 戦 争 相 手 国 の 増 加 を 防 ぎ、第 三 国 を 日 本 の 味 方 にする。( 注 :大 戦 中 日 本 に 宣 戦 布 告 をした 国 は52カ 国 = 含 未 承 認 国 )( 具 体 的 には)日 本 は 速 やかに 武 力 を 行 使 してアジア 及 び 西 南 太 平 洋 にある 米 、 英 、 蘭 の拠 点 、 基 地 、 根 拠 地 を 攻 撃 して 戦 略 的に 優 位 な 態 勢 を 作 る。 重 要 な 資 源 地 域と 主 要 な 交 通 線 を 確 保 して「 長 期 自 給 」の 態 勢 を 整 備 する。手 段 を 尽 くして 適 当 な 時 期 に 米 海 軍の 主 力 を 誘 い 出 してこれを 撃 滅 する。1. 日 独 伊 が 協 力 して、まず、 英 国 の降 伏 を 図 る。2. 日 独 伊 は 協 力 して、 対 英 作 戦 と 並行 して 米 国 の 戦 意 を 喪 失 させる。3. 中 国 に 対 しては、 対 米 英 蘭 戦 争 、そ特 に 其 の 作 戦 の 成 果 を 活 用 して 援蒋 ルートの 断 絶 、 抗 戦 力 の 減 殺 を図 り、 中 国 にある 租 界 を 掌 握 、 南洋 の 華 僑 を 日 本 側 に 導 き、 作 戦 の強 化 等 の 手 段 を 積 極 的 に 利 用 して蒋 介 石 政 権 を 降 伏 させる。4. 日 本 は 南 方 作 戦 の 間 は、 極 力 、ソ連 との 戦 争 を 防 止 する。 独 ソ 両 国を 講 和 させソ 連 を 枢 軸 側 へ 引 き 入れ、 日 本 とソ 連 の 関 係 を 調 整 しつつ、 場 合 によってはソ 連 のインド、イラン 方 面 への 進 出 を 助 長 する。5. 仏 印 に 対 しては 現 施 策 を 継 続 し、タイに 対 しては 日 本 の 施 策 に 協 調するように 誘 導 する。6. 常 時 、 戦 局 の 推 移 、 国 際 情 勢 、 敵民 心 の 動 向 等 に 対 して 周 密 な 監視 、 考 察 を 加 へつつ 戦 争 終 結 のため 次 の 機 会 を 捉 える。(イ) 南 方 に 対 する 作 戦 の 主 要 段 落(ロ) 中 国 に 対 する 作 戦 の 主 要 段 落 特に 蒋 介 石 政 権 の 屈 伏(ハ) 欧 州 戦 局 の 情 勢 変 化 の 好 機 、 特に 英 本 土 の 屈 伏 、 独 ソ 戦 の 終 末 、対 インド 施 策 の 成 功 。このためにすみやかに 南 米 諸 国 、スウェーデン、ポルトガル、ローマ 法王 庁 に 対 して 外 交 と 宣 伝 を 強 化 する。日 独 伊 三 国 は 単 独 不 講 和 を 取 極 めると共 に 英 国 の 屈 伏 時 には、 直 には 講 和 せず 英 国 をして 米 国 を 和 平 へ 誘 導 するように 施 策 する。対 米 和 平 の 促 進 策 としては、 南 洋 方すず面 で 生 産 される 錫 、ゴムの 供 給 及 びフィリピンの 取 扱 に 考 慮 する。この「 腹 案 」は 現 時 点 から 見 ると、天 動 説 的 、 他 力 依 存 的 な 印 象 を 受 けるが、 提 出 された 時 には 比 較 的 よくできた 案 とされた。 政 府 、 陸 海 軍 の世 界 情 勢 の 分 析 力 、 情 報 の 収 集 力 の水 準 とその 限 界 であった。 日 本 は 開戦 時 、 準 備 不 足 の 米 英 蘭 の 拠 点 を 奇襲 、また、 資 源 地 域 を 確 保 することには 成 功 した。しかし、 前 年 の 昭 和1 5(1 9 40) 年 9 月 、ドイツがバトル・オブ・ブリテン( 英 国 海 峡 上 空 航 空 戦 )で 英 国 に 敗 れ、 英 国 本 土 への 上 陸 作戦 を 延 期 という 形 で 放 棄 した 時 点 で、英 国 を 降 伏 させる 見 込 みは 完 全 に 遠のいていた。しかし、その 後 も 日 本の 陸 海 軍 は 英 国 が 降 伏 することを 前提 として 対 米 戦 の 構 想 を 構 築 していたのである。 状 況 把 握 が10カ 月 以 上遅 れていた。同 年 末 、ドイツはソ 連 への 侵 攻 作戦 (バルバロッサ 作 戦 )を 発 令 して 兵力 を 西 部 から 東 部 に 振 り 向 けた。 日本 は 翌 16 年 6 月 、ドイツが300 万 の兵 力 でソ 連 に 侵 攻 する 直 前 まで、 同盟 国 ドイツからこのことを 知 らされていなかった。 日 本 が 独 ソ 戦 の 可 能性 に 気 が 付 くのは 昭 和 16 年 4 月 の 段階 であった。 大 本 営 機 密 戦 争 日 誌 は次 のように 記 している。4 月 21 日 の 記 述 、「 独 及 米 大 使 より独 ソ 開 戦 の 可 能 性 近 きに 在 る 長 文 電( 独 大 使 は 故 に 日 本 は 武 力 南 進 すべしあ まで米 大 使 は 飽 く 迄 局 外 中 立 を 守 るべしいと 云 う) 来 る。 怪 電 文 情 報 は 誠 に 複雑 怪 奇 なり」、「 独 ソの 冷 却 化 日 米 の提 携 、 新 聞 、 特 暗 等 に 散 見 を 始 む」、「 独 ソ 開 戦 の 微 ある 武 官 電 少 なからず」、「ソ、 一 部 の 入 営 延 期 の 停 止 、 独ソ 国 境 200km 間 重 要 物 資 設 備 の 後 退等 々 如 し」日 本 が 独 ソ 戦 の 勃 発 を 確 証 し、それに 対 する 対 処 を 開 始 したのはドイツ 軍 の 攻 撃 開 始 僅 か1カ 月 前 であった。5 月 13 日 の 記 述 、「 独 、 伊 、ソ 三 巨頭 会 談 説 新 聞 報 あり。 日 、 独 、 伊 、ソ 四 国 同 盟 成 か」「 独 武 官 より 独 ソ 開戦 必 至 山 下 ( 奉 文 ) 調 査 団 の 帰 国 を 急ぐを 可 とす。( 独 第 二 部 長 、 西 郷 中 佐に 語 る)の 電 有 り。 独 ソ 開 戦 に 伴 ふ 帝国 の 態 度 省 部 の 意 見 を 求 む、 陸 軍 省意 見 来 る」。当 時 、 日 本 は 開 戦 前 であったため戦 争 当 事 国 の 英 国 、ドイツ、イタリアはもちろん、 周 辺 の 中 立 国 スウェーデン、スイス、スペイン、ポルトガルなどにも 大 使 館 を 持 ち、 駐 在 武 官を 配 置 して 情 報 収 集 を 行 っていた。しかし、 東 京 の 外 務 省 、 陸 軍 省 、 参謀 本 部 、 海 軍 省 、 軍 令 部 は 同 盟 国 のドイツからの 情 報 は 信 頼 するものの英 国 、スウェーデン 等 からの 情 報 は欧 米 派 武 官 、 皇 道 派 武 官 からのものとしてほとんど 無 視 していた。また、ドイツは 兵 力 の 英 仏 海 峡 側からソ 連 国 境 への 移 動 を 日 本 側 に 徹底 的 に 隠 していた。 当 然 のことながら 日 本 の 駐 独 大 使 ( 大 島 浩 )、 駐 在 武いんぺい 官 に 対 し 情 報 の 隠 蔽 と 操 作 を 行 っていたのである。 駐 独 大 使 の 情 報 はドイツ 首 脳 部 と 直 結 しているとして 重要 視 されていたが、この 情 報 は 連 合国 側 によって 解 読 され、「 大 島 情 報 」として 貴 重 な 情 報 源 となっていた。 近代 戦 は 高 度 な 情 報 戦 とも 言 えるが、 同盟 国 をひたすら 信 じ 必 要 な 情 報 は 与 え2011.3 Vol.45 No.2 78


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-られず、 操 られていた 日 本 の 情 報 収集 ・ 分 析 能 力 では 世 界 戦 争 を 戦 える 段階 に 達 していなかったとも 言 える。「 英 国 を 降 伏 させ、 米 国 を 和 平 に 導く」という 発 想 は、 昭 和 1 6(1 9 4 1) 年8 月 、ニューファンドランド 沖 の 戦 艦プリンス・オブ・ウェールズの 艦 上でチャーチル 英 国 首 相 とルーズベルト 米 大 統 領 が 会 談 して「 大 西 洋 憲 章 」を 作 成 していたことを 勘 案 すると、現 実 性 を 伴 わない 単 なる 机 上 の 作 文に 過 ぎなかった。米 和 平 交 渉 のカードとしての 占 領地 のゴム、スズの 提 供 等 については、米 国 は 昭 和 16 年 10 月 、 国 家 プロジェクトとして 合 成 ゴムの 開 発 を 行 うためのゴム 準 備 公 団 (Rubber ReserveCompany:RRC)を 設 立 し、 大 量 生 産体 制 を 既 に 始 動 させていた。情 報 収 集 の 世 界 では「 必 要 な 情 報 の9 割 以 上 は 公 開 情 報 から 得 ることができる」との 言 葉 がある。 昭 和 1 6 年 5 月14 ~ 17 日 付 日 本 工 業 新 聞 の 記 事 「 米国 化 学 工 業 の 現 状 (1 ~ 4)」には「 米 国は 合 成 ゴムの 生 産 に 躍 起 。 合 成 ゴムの 成 分 は 全 て 米 国 内 で 調 達 可 能 。この 一 両 年 で 消 費 量 の8%、3 ~ 4 年 で25%の 生 産 を 計 画 」と 書 かれている。また、 昭 和 17 年 1 月 5 日 の 同 紙 の 記 事「 合 成 樹 脂 工 業 と 合 成 ゴム 工 業 の 関係 」には「 現 在 、 米 国 の 合 成 ゴムの 製造 能 力 は 年 11 万 トン、 南 洋 ゴムの 入手 不 可 能 につき 年 22 万 トン 生 産 体 制へ」との 記 述 がある。 米 国 は 戦 争 最 終年 の1945 年 には 年 間 72 万 トンの 合成 ゴムを 生 産 した。 国 際 情 勢 だけでなく 敵 国 の 経 済 、 産 業 、 生 産 力 に 関して 国 内 での 情 報 収 集 も 十 分 に 行 われていなかった。急 速 に 不 足 する 石 油開 戦 後 、 日 本 軍 は 南 方 の 油 田 地 帯を 占 領 して 復 旧 活 動 を 行 う。 南 方 石油 の 還 送 は 昭 和 17 年 149 万 kl、18油 田 名 昭 和 17 年 昭 和 18 年 昭 和 19 年 昭 和 20 年 計サンガサンガ 297 832 423 5 1,557タラカン 158 381 210 749セラム 0.3 2.3 0.3 2.9ニューギニア 0 1 3 4計 455.3 1,216.3 636.3 5 2,312.9出 所 : 日 本 海 軍 燃 料 史年 265 万 klと 順 調 に 行 われ、 予 測 された17 年 30 万 kl、18 年 200 万 klよりも 多 い 量 が 日 本 へ 還 送 された。しかし、 昭 和 19 年 になると 米 海 軍 の潜 水 艦 の 活 動 が 活 発 になる。 強 力 な護 衛 艦 隊 を 持 たない 日 本 の 油 槽 船 は大 量 に 撃 沈 されるようになり、 日 本への 還 送 石 油 は 急 激 に 減 少 していった。 昭 和 19 年 の 還 送 石 油 の 見 込 み 量は450 万 klであったが、 実 際 に 還 送された 量 は106 万 klに 過 ぎなかった。戦 争 中 の 石 油 需 給 では 国 産 原 油 、人 造 石 油 、 南 方 からの 還 送 を 含 めた供 給 量 では 需 要 量 を 賄 うことができなかった。 開 戦 直 前 、 日 本 の 石 油 備蓄 量 は 海 軍 の 数 値 で859 万 kl、 企 画院 の 数 値 では840 万 klであった。 需給 のバランスでは 供 給 量 の 不 足 分 をじゅうてん この 備 蓄 量 で 充 填 しても 約 500 万 klの 不 足 となる。この 不 足 分 は 少 し 量が 多 いが 大 部 分 、 海 軍 艦 艇 に 現 地 パ表 20 海 軍 地 区 油 田 別 生 産 量 (1,000kl)表 21 陸 軍 地 区 油 田 別 生 産 量 (1,000kl)油 田 名 昭 和 17 年 昭 和 18 年 昭 和 19 年 昭 和 20 年 計ジャンビ 521 998 1,118 192 2,829タランジマーツ 416 776 395 118 1,705ペンドッポ 984 1,953 1,296 331 4,564マングンジャヤ 182 306 173 84 745北 スマトラ (390) (780) (390) - (1,560)ジャワ 310 579 391 244 1,524ミリ 411 792 346 - 1,549計 3,214 6,184 4,109 969 14,476合 計 3,669.3 7,400.3 4,745.3 974 16,788.9( 注 「ビルマの ) 生 産 量 を 含 まず、 南 方 地 区 生 産 量 表 の 数 値 と 一 致 しない。 北 スマトラの( )は 推 定 値 。計 は 実 績 。 合 計 は 海 軍 、 陸 軍 地 区 両 油 田 の 計 。出 所 : 日 本 海 軍 燃 料 史レンバン(シンガポール 他 )で 補 充 されたと 推 測 される。ただ 戦 時 中 の 需給 数 値 には 各 種 ありどれが 正 確 とは言 えないのが 実 情 である。 石 油 を 本土 に 還 送 する 油 槽 船 の 不 足 、 海 没 によって 現 地 では 普 通 揮 発 油 、 灯 油 が過 剰 状 態 となりその 一 部 は 放 流 、 燃焼 されていた。ただ、 還 送 については 幾 つかの 問 題 が 生 じていた。その内 容 について 当 事 者 は 次 のように 記している。「 油 槽 船 の 建 造 量 はその 量 だけの 点から 言 えば 目 標 に 到 達 したけれども、そのでき 栄 えがよくなかったため、故 障 が 多 く 稼 行 率 は 余 りよくなかった。また、 貨 物 船 の( 応 急 油 槽 船 への)しんちょく 改 造 は 工 事 は 予 定 どおり 進 捗 したが、ろう えいその 輸 送 力 はタンクの 漏 洩 、 積 卸 性能 不 良 等 のため 甚 だしく 予 想 と 異 なるものがあって 所 期 の 目 的 は 達 し 得なかった。 機 帆 船 タンカーの 建 造 は79 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセーほとんど 掛 け 声 のみに 終 わったかの観 がある」「ただ 一 つ、 艦 隊 の 燃 料 南方 現 地 取 得 の 問 題 だけは 逐 次 実 現 せられたのであるが、それではその 時まではどうであったかというと 随 分おかしな 話 ではあるが、 艦 隊 への 補給 船 はいったん 内 地 に 還 送 した 油 をさらにタンカーに 積 み 込 んで 外 地 にある 艦 隊 まで 補 給 していったのである。これは 後 から 考 えると 誠 にばか気 た 話 であるけれども、 慣 性 というものは 偉 い 力 を 持 っているもので、しょう けいその 分 かり 切 った 捷 径 が 燃 料 の 需 給が 極 めて 困 難 なる 事 態 にぶつかって初 めて 採 用 されたということは 記 録されるべきであろう」(「 大 東 亜 戦 争中 の 石 油 物 動 」 斉 藤 昇 元 海 軍 省 軍 需 局第 二 課 長 )徹 底 的 に 不 足 していた 油槽 船戦 争 中 に 生 産 された 人 造 石 油 の7 割近 くは 満 州 撫 順 のオイルシェール( 油頁 岩 )の 乾 留 から 作 られる 人 造 石 油 であった。オイルシェールから5%の 粗油 が 生 産 でき、これをさらに 精 製 し表 22 戦 争 中 の 石 油 需 給 (1,000kl)供 給 昭 和 17 年 昭 和 18 年 昭 和 19 年 昭 和 20 年 計国 産 原 油 263 271 267 243 1,044人 造 石 油 240 274 219 45 778南 方 還 送 1,489 2,646 1,060 0 5,195計 1,992 3,191 1,546 288 7,017需 要 昭 和 17 年 昭 和 18 年 昭 和 19 年 昭 和 20 年 計陸 軍 915 812 673 145 2,545海 軍 4,854 4,282 3,175 569 12,880民 間 2,482 1,526 837 85 4,930計 8,251 6,620 4,685 799 20,355供 給 需 給 差 ▲6,259 ▲3,429 ▲3,139 ▲511 ▲13,338( 注 ) 「 戦 争 と 石 油 ―2」の 石 油 需 要 量 ( 計 1,232 万 kl)、 還 送 量 ( 計 477.4 万 kl)は「 米 国 戦 略 爆 撃 調 査団 石 油 報 告 」の 数 値 を 使 用 。 戦 争 中 を 含 めこれらの 数 値 は 各 種 あり、また、 差 が 大 きい。 同 石 油 報告 では 南 方 での 消 費 ・ 損 失 量 は1,416 万 klとの 数 値 あり。 本 稿 では 主 として 海 軍 の 数 値 を 使 用 した。昭 和 20 年 は8 月 まで。 需 給 差 のマイナスは 備 蓄 分 と 南 方 での 海 軍 充 当 分 を 含 む。 昭 和 20 年 の 南 方 還送 量 に 最 終 船 等 の 量 がない 理 由 は 不 明 。出 所 : 日 本 海 軍 燃 料 史 、 石 油 統 計 年 表 ( 国 産 原 油 )て 3 5 %の 人 造 石 油 ( 全 体 の1.75%)ができた。その 生 産 量 は 昭 和 17 年 16.3万 kl、18 年 16 万 kl、19 年 8.3 万 kl、20 年 1.6 万 klであった。オイルシェールの 乾 留 から 作 られる 人 造 石 油 は、その 性 状 が 良 質 なため、 徳 山 の 海 軍第 三 燃 料 廠 へ 運 ばれて 潜 水 艦 の 燃 料に 使 用 された。昭 和 19(1944) 年 に 入 ると、 日 本の 商 船 は 米 軍 の 潜 水 艦 に 加 えて 航 空機 の 攻 撃 を 受 けるようになる。 同 年10 月 の 日 本 商 船 の 喪 失 量 は134 隻 51万 5,000トンの 過 去 最 高 に 達 した。しかし、 南 方 から 石 油 の 還 送 は 日 本 の生 命 線 であったため、 日 本 は 還 送 ルートの 保 全 に 全 力 を 尽 くす。南 方 石 油 の 還 送 に 従 事 した 油 槽 船は 昭 和 17 年 12 月 43 万 トン、18 年 12月 61 万 トン、19 年 12 月 72 万 トンと増 加 を 続 けたが、 昭 和 20 年 に 入 ると、1 月 70 万 トン、2 月 39 万 トン、3 月 15万 トン、4 月 10 万 トンと 急 速 に 減 少していく。 数 値 上 は 南 方 石 油 の 還 送用 となっていても、 実 際 は 燃 料 の 原油 がなく 日 本 の 港 に 係 留 されているもの、 燃 料 の 手 当 てができて 出 港 しても 途 中 で 攻 撃 を 受 けて 沈 没 するものが 多 く、3 月 に 入 ると 還 送 船 はほぼなくなった。 制 海 権 と 制 空 権 が 完 全に 日 本 の 手 を 離 れていった。このため、 海 軍 は 次 々と 四 次 にわたる 石 油の 消 費 規 制 を 行 った。 具 体 的 には 毎月 の 航 空 機 用 揮 発 油 、 通 常 揮 発 油 、艦 隊 用 重 油 を 割 り 当 てるものであった。 規 制 は 第 1 次 = 昭 和 19 年 12 月 14日 、 第 2 次 = 昭 和 20 年 2 月 23 日 、 第 3次 = 昭 和 20 年 5 月 5 日 、 第 4 次 = 昭 和20 年 6 月 10 日 に 実 施 された。航 空 機 用 揮 発 油 の 配 分 を 見 ると 第 1次 から 第 4 次 の 半 年 間 で 月 あたりの供 給 割 当 量 ( 実 用 機 ・ 練 習 機 用 )は1万 8,500klから 1 万 1,500klへと 6 割に 減 じている。南 方 からの 石 油 還 送 が 途 絶 し、 石油 需 給 が 逼 迫 するなかで 工 業 生 産 力は 低 下 し 国 力 は 戦 争 遂 行 に 問 題 を 生 じるようになっていく。 昭 和 20 年 6 月 、表 23 海 軍 の 消 費 規 制 (kl/ 毎 月 )第 1 次 規 制 ( 昭 和 19 年 12 月 )航 空 機 用 揮発 油アルコール実 用 機 15,500 0練 習 機 3,000 11,000工 作 庁 ・ 会 社 3,500 1,640自 動 車 用 0 4,900計 22,000 17,540第 2 次 、3 次 規 制 ( 昭 和 20 年 2 月 、5 月 )航 空 機 用 揮発 油アルコール実 用 機 ・ 練 習 機 15,500 7,000工 作 庁 ・ 会 社 2,500 1,000計 18,000 8,000第 4 次 規 制 ( 昭 和 20 年 6 月 )航 空 機 用 揮発 油アルコール実 用 機 ・ 練 習 機 11,500 4,300工 作 庁 ・ 会 社 1,500 700計 13,000 5,000( 注 ) 工 作 = 航 空 機 工 作 庁 、 第 2 次 規 制 では 別 に 海軍 指 揮 下 の 陸 軍 部 隊 に 毎 月 600kl 供 給 。出 所 : 戦 史 叢 書 海 軍 戦 備 (2)2011.3 Vol.45 No.2 80


戦 争 と 石 油 (5) - 世 界 最 初 の「 戦 略 石 油 備 蓄 」-御 前 会 議 で「 今 後 採 るべき 戦 争 指 導 の基 本 大 綱 」が 決 定 された。その 内 容 は次 のようなものであった。・ 人 的 国 力 は 戦 争 に 因 る 消 耗 未 だ 大ならず。 物 的 国 力 に 比 すれば 尚 余裕 あり。 之 が 活 用 の 如 何 に 依 りては、 戦 力 増 出 の 余 地 ありと 認 められる。・ 使 用 船 舶 量 急 激 に 減 少 して、 現 在 、約 百 万 総 噸 なるも、 而 も 燃 料 の 不足 、 敵 の 妨 害 激 化 及 荷 役 力 の 低 下等 の 為 著 しく 運 航 を 阻 害 されあり。本 年 末 に 於 いては、 使 用 船 腹 量 は殆 んど 皆 無 に 近 き 状 態 に 立 到 るべし。航 空 機 用 揮 発 油普 通 揮 発 油重 油潤 滑 油計日 満 液 体 燃 料 生 産 努 力 目 標表 24(1,000kl)品 名表 25昭 和 19 年 度下 半 期昭 和 20 年 8 月 の 国 内 石 油備 蓄 量 ( 陸 海 軍 、 民 間 合 計 )出 所 : 戦 史 叢 書 海 軍 戦 備 (2)生 産 量昭 和 20 年 度国 産 原 油 150 310人 造 石 油 95 270頁 岩 油 100 280アルコール( 日 ) 200 530アルコール( 満 ) 30 70メタノール 20 50松 根 油 等 60 300タール 製 品 30 50油 脂 類 40 100計 725 1,960出 所 : 敗 戦 の 記 録10.0 万 kl6.5 万 kl16.2 万 kl4.6 万 kl37.3 万 kl・ 液 体 燃 料 の 供 給 は 今 後 日 満 の 自 給に 俟 つの 他 なく、 貯 油 の 払 底 と 増産 計 画 の 進 行 遅 延 に 伴 ひ、 航 空 燃料 等 の 逼 迫 は 中 期 以 降 戦 争 遂 行 に重 大 なる 影 響 を 及 ぼす 情 勢 なり。・ 航 空 機 を 中 心 とする 近 代 兵 器 の 生産 は 空 襲 の 激 化 に 因 る 交 通 及 び 生産 の 破 壊 竝 に 前 記 原 材 料 、 燃 料 等の 逼 迫 の 為 、 在 来 方 式 に 依 る 量 産遂 行 は 遠 からず 至 難 となるべし。・ 物 的 国 力 の 充 実 極 めて 困 難 なる 状あい ろ況 にありと 雖 も、 之 が 最 大 の 隘 路は 生 産 意 欲 竝 敢 闘 精 神 の 不 足 と 国力 の 戦 力 化 に 関 する 施 策 の 不 徹 底なるに 在 る。船 舶 輸 送 力 は 激 減 、 途 絶 、「 燃 料 は夏 以 降 には 戦 争 遂 行 に 重 大 なる 影 響を 及 ぼす」と 予 測 されるなかで、 物 的国 力 は 敢 闘 精 神 に 転 嫁 され、 物 的 総力 戦 は 精 神 的 総 力 戦 に 変 化 した。ポツダム 宣 言 の 受 諾 はこの2カ 月 後 であった。昭 和 20 年 8 月 の 敗 戦 段 階 でどの 程度 の 石 油 備 蓄 があったのか、 正 確 な資 料 は 残 っていない。 海 軍 関 連 の 資料 では 陸 海 軍 、 民 間 を 合 わせて 本 土の 備 蓄 量 は37 万 kl、 満 州 、 朝 鮮 、 台湾 を 合 わせて48 万 klとされている。開 戦 時 に 保 有 していた 石 油 備 蓄 の4%であった。エピローグ南 方 からの 最 後 の 石 油 の 還 送 は 昭和 2 0(1 9 45) 年 3 月 に 徳 山 に 入 港 した富 士 山 丸 (1 万 238 総 トン)と 光 島 丸 (1万 4 5 総 トン)であった。 輸 送 量 は 原 油と 重 油 3 万 4,500kl、これ 以 降 、 石 油は 入 ってこなくなった。 南 シナ 海 、台 湾 海 峡 、 日 本 周 辺 海 域 の 制 空 権 、制 海 権 は 完 全 に 米 軍 の 手 中 に 入 り、南 方 からの 油 槽 船 はほぼ 確 実 に 撃 沈された。このような 状 況 の 下 で、 昭 和 20(1945) 年 5 月 、 海 軍 は 潜 水 艦 による南 方 からの 石 油 の 輸 送 を 計 画 する。まず、 飛 行 艇 への 航 空 用 揮 発 油 の 補給 を 目 的 に 建 造 されした 伊 号 第 351潜 水 艦 がその 任 務 についた。この 潜水 艦 は 昭 和 20 年 1 月 に 竣 工 、 常 備 排水 量 3,512トン、 全 長 111m、 最 大 幅10.15mと 日 本 の 潜 水 艦 中 、 最 大 クラス *14 で、 艦 内 に500kl、ドラム 缶 2,500本 分 の 航 空 機 用 揮 発 油 を 入 れるタンクが 設 置 されていた。 本 来 は 飛 行 艇への 燃 料 の 補 給 を 目 的 にした 世 界 でも 珍 しい「 潜 水 タンカー」であった。同 艦 は5 月 1 日 、 呉 を 出 撃 、シンガポールで 航 空 用 揮 発 油 を 積 み 込 み、6 月 初旬 、 無 事 、 佐 世 保 に 帰 着 した。6 月 22日 、2 回 目 の 輸 送 作 戦 として 佐 世 保 を出 撃 、7 月 11 日 、 揮 発 油 を 満 載 してシンガポールを 出 航 したが、7 月 14 日 、南 シナ 海 で 米 潜 水 艦 「ブルーフイッシュ」の 雷 撃 を 受 けて 沈 没 した。伊 号 第 373 潜 水 艦 ( 常 備 排 水 量 :1,926トン)はガダルカナル 島 への 補 給 が 難航 したことにより 魚 雷 発 射 管 を 装 備していない 輸 送 用 潜 水 艦 として 建 造された。 艦 内 に100klの 航 空 用 揮 発油 と100トンの 物 資 が 積 載 可 能 な「 潜水 輸 送 船 兼 タンカー」であった。8 月 9日 、 台 湾 から 航 空 用 揮 発 油 を 運 ぶため 佐 世 保 を 出 撃 、 往 路 の8 月 14 日 、終 戦 の 前 日 、 東 シナ 海 で 米 潜 水 艦 「スパイクフィッシュ」に 雷 撃 されて 沈 没した。海 軍 は 昭 和 20 年 7 月 から10 月 の 期間 に 合 計 12 隻 の 潜 水 艦 を 投 入 して、シンガポール、 台 湾 、 父 島 、 南 鳥 島から 貯 蔵 されている 航 空 用 揮 発 油 の輸 送 作 戦 を 実 施 する 計 画 であった。しかし、 実 際 に 投 入 されたのはこの2隻 だけであった。あらゆる 手 段 、 方 策 、機 会 を 講 じての 石 油 輸 送 作 戦 はここに 壊 滅 した。81 石 油 ・ 天 然 ガスレビュー


エッセー< 注 ・ 解 説 >*1: 連 合 艦 隊 =2 個 以 上 の 常 設 艦 隊 で 編 成 した 非 常 時 の 艦 隊 。 日 本 海 軍 は 日 清 、 日 露 戦 争 を 常 備 艦 隊 と 警 備 艦 隊 ( 支 援部 隊 )を 統 合 して 運 用 した。*2:バルチック 艦 隊 = 日 露 戦 争 時 、ロシアにはバルト 海 艦 隊 、 黒 海 艦 隊 、 太 平 洋 艦 隊 の3 艦 隊 があった。ロシアは 旅 順港 に 籠 城 した 太 平 洋 艦 隊 を 支 援 するためバルト 海 艦 隊 から 太 平 洋 第 二 艦 隊 、 同 第 三 艦 隊 を 編 成 して 極 東 に 送 った。まさちか*3: 下 瀬 火 薬 = 日 本 海 軍 の 下 瀬 雅 允 技 師 が 実 用 化 したピクリン 酸 を 主 成 分 とする 火 薬 。 化 学 反 応 性 が 高 く、 爆 発 力 が 大りゅうだん きい。 榴 弾 として 構 造 物 の 破 壊 や 人 員 を 殺 傷 する 目 的 で 使 用 された。 日 露 戦 争 後 はTNT 火 薬 が 主 流 となって 旧 式化 した。*4: 通 報 艦 = 無 線 の 存 在 しない 時 代 、その 快 速 を 生 かして 基 地 間 の 連 絡 や 偵 察 任 務 等 に 活 躍 したが、 通 信 技 術 の 進 展 に伴 いその 役 割 を 終 えた。「 八 重 山 」は 当 時 の 最 速 艦 ( 速 力 20ノット)であった。*5:レシプロ 式 機 関 = 蒸 気 でシリンダー 内 のピストンを 往 復 運 動 させ、 次 いで 回 転 運 動 に 切 り 替 える 機 関 。*6:タービン 式 機 関 = 重 油 を 燃 やしてつくられた 蒸 気 でタービン( 羽 根 車 )を 回 す 機 関 。タービン 式 はレシプロ 式 に 比 べて 大 出 力 に 適 し、 軽 量 であったので 大 正 以 降 は 重 油 専 燃 缶 とタービン 式 機 関 の 組 み 合 わせが 主 流 となった。*7: 巡 洋 戦 艦 = 舷 側 に 装 甲 板 を 張 った 装 甲 巡 洋 艦 から 発 達 した 艦 種 。 巡 洋 艦 の 主 砲 を 戦 艦 並 みに 引 き 上 げているため 強力 な 火 力 と 速 力 で 戦 艦 より 使 いやすい 面 があった。*8: 帷 幄 ( 天 皇 ) 上 奏 問 題 = 明 治 憲 法 下 、 統 帥 機 関 の 参 謀 総 長 、 軍 令 部 総 長 が 統 帥 事 項 を 直 接 天 皇 に 上 奏 すること。*9: 岡 田 啓 介 = 海 軍 大 将 。 昭 和 2(1 9 2 7) 年 、 田 中 義 一 内 閣 の 海 相 、 同 4 年 軍 事 参 議 官 、 同 7 年 海 相 、 同 9 年 首 相 、 同 11年 、2.26 事 件 で 反 乱 派 の 攻 撃 を 受 けて 九 死 に 一 生 を 得 る。 太 平 洋 戦 争 末 期 、 東 條 内 閣 打 倒 の 中 心 人 物 。* 10: 万 朝 報 = 明 治 2 5(1 8 9 2) 年 、 黒 岩 涙 香 の 創 刊 による 日 刊 紙 。 反 権 力 、 社 会 主 義 的 な 傾 向 が 強 く、 幸 徳 秋 水 、 堺 利 彦 、内 村 鑑 三 が 在 社 した。 明 治 30 年 代 の 一 時 期 、 東 京 での 販 売 部 数 が 首 位 。ゴシップ 的 な 社 会 記 事 が 第 3 面 に 掲 載 され「 三 面 記 事 」の 言 葉 を 生 んだ。* 1 1: 繰 り 上 げ 輸 入 = 年 度 内 物 動 計 画 において、 外 貨 事 情 等 から 輸 入 時 期 の 順 序 が 後 になっているものを 繰 り 上 げて 輸 入 。* 12: 特 別 輸 入 = 外 貨 を 工 面 して 重 要 物 資 を 年 度 計 画 以 上 に 戦 略 物 資 の 備 蓄 のために 輸 入 すること。*13: 重 臣 会 議 = 元 老 を 引 き 継 ぐ 形 で、 後 継 の 総 理 大 臣 の 選 定 、 国 家 の 重 要 事 項 に 関 して、 天 皇 の 諮 問 に 答 える 形 式 で開 かれた。 実 質 的 な 政 策 決 定 権 はなかった。 構 成 要 員 は 総 理 大 臣 経 験 者 、 枢 密 院 議 長 。*14: 旧 海 軍 が 建 造 した 最 大 の 潜 水 艦 は「 潜 特 」。 常 備 排 水 量 5,223トン、 全 長 122m、 最 大 幅 12m、 速 力 ( 水 上 / 水 中 )18.7/6.5ノット 時 。 飛 行 機 4 機 を 搭 載 。 米 国 東 海 岸 、パナマ 運 河 攻 撃 を 目 的 とし 敗 戦 までに3 隻 ( 伊 400、 伊 401、伊 402)が 竣 工 。【 参 考 文 献 】111 「 戦 史 叢 書 海 軍 軍 戦 備 (1)、(2)」、「 陸 軍 軍 戦 備 」、「 陸 軍 軍 需 動 員 (1)」、「 大 本 営 海 軍 部 連 合 艦 隊 (1 ~ 6)」、「 蘭 印 攻 略 作 戦 」、「 連 合 艦 隊 (1)」、「ハワイ 作 戦 」、「 海 上 護 衛 戦 」、「 陸 海 軍 年 表 」 防 衛 庁 防 衛 研 修 所 戦 史 部 朝 雲 新 聞 社222 「 現 代 日 本 産 業 発 達 史 Ⅱ 石 油 」 現 代 産 業 発 達 史 研 究 会 交 詢 社333 「 日 本 鉱 業 発 達 史 ( 中 巻 1)」 鉱 山 懇 話 会 原 書 房444 「 日 本 海 軍 燃 料 史 ( 上 )、( 下 )」 燃 料 懇 話 会 原 書 房555 「 日 本 における 戦 争 と 石 油 ― アメリカ 合 衆 国 戦 略 爆 撃 団 ・ 石 油 報 告 」 石 油 評 論 社666 「 徳 山 海 軍 燃 料 廠 史 」 脇 英 夫 、 大 西 昭 生 、 兼 重 宗 和 、 冨 吉 繁 貴 徳 山 大 学 総 合 経 済 研 究 所777 「 帝 国 石 油 五 十 年 史 ( 経 営 )、( 海 外 )、( 技 術 編 )」 帝 国 石 油888 「 日 本 石 油 百 年 史 」 日 本 石 油999 「 石 油 便 覧 」JX 日 鉱 日 石 エネルギー1111「 油 断 の 幻 影 」 高 橋 健 夫 時 事 通 信 社1111「 陸 軍 燃 料 廠 」 石 井 正 紀 光 人 社1111「 日 英 交 流 史 3 軍 事 」 波 多 野 澄 雄 、 平 間 洋 一 、イアン・ガウ 東 京 大 学 出 版 会1111「 現 代 史 資 料 太 平 洋 戦 争 (1)~(5)」、「 国 家 総 動 員 」、「 加 藤 寛 治 日 記 」みすず 書 房2011.3 Vol.45 No.2 82


エッセー5555「 日 本 の 戦 艦 」 学 習 研 究 社6666「 日 本 戦 艦 史 」 世 界 の 艦 船 増 刊 海 人 社6666「 日 本 の 軍 艦 」 福 井 静 夫 出 版 協 同 社6666「 帝 国 海 軍 艦 艇 総 覧 ( 明 治 ・ 大 正 編 )」 学 習 研 究 社6666「 帝 国 海 軍 艦 艇 ガイド」 学 習 研 究 社6666「 軍 艦 武 蔵 ( 上 )、( 下 )」 手 塚 正 己 新 潮 社6666「 戦 艦 武 蔵 」 吉 村 昭 新 潮 社6666「 日 露 戦 争 (1)~(8)」 児 島 襄 文 藝 春 秋6666「 海 軍 Ⅲ 日 露 戦 争 」 海 軍 編 集 委 員 会 誠 文 図 書6666「 昭 和 前 史 ・ 日 露 戦 争 」 毎 日 新 聞 社6666「ツシマ( 上 )、( 下 )」ノビコフ・プリボイ 原 書 房執 筆 者 紹 介岩 間 敏 (いわま さとし)鳥 取 県 生 まれ。 早 稲 田 大 学 第 一 法 学 部 卒 業 。 日 本 経 済 新 聞 社 、トヨタ 自 販 系 研 究 所 を 経 て 石 油 開 発 公 団 に 入 る。 通 商 産 業 省 調 査 員 ( 国 際資 源 )、ハーバード 大 学 中 東 研 究 所 客 員 研 究 員 、 石 油 公 団 パリ 事 務 所 長 、 計 画 部 長 、ロンドン 事 務 所 長 、 理 事 等 を 経 て、 現 在 、 石 油 問 題 研究 家 。著 書 に「 世 界 がわかる 石 油 戦 略 」ちくま 新 書 、「 石 油 で 読 み 解 く『 完 敗 の 太 平 洋 戦 争 』」 朝 日 新 書 、「アジアのエネルギー 環 境 と 経 済 発 展 」( 共著 ) 慶 応 義 塾 大 学 出 版 会 。2011.3 Vol.45 No.2 84

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