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で 観 想 contemplation, θεωρία が、 思 考 とは「 明 らかに 異 なる」とアーレントが 述 べている 点 に 注 意 す<br />

れば、 観 想 ( 的 生 活 )と、 思 考 という 活 動 力 との 区 別 を 精 密 化 することになるのは、 論 理 の 必 然 であ<br />

ったともいえる。)<br />

アーレントは、 観 想 的 生 活 について『 精 神 の 生 活 』では 次 のように 書 いている。<br />

〔 観 想 的 生 活 様 式 contemplative way of life が 至 上 であるとする〕この 視 座 にあっては、 活 動<br />

的 生 活 様 式 active way of life は、「 苦 労 が 多 い laborious」ものであり、〔 他 方 〕 観 想 的 様 式 は 全<br />

くの 静 寂 である。 活 動 的 生 活 は 公 共 において、 観 想 的 生 活 は「 砂 漠 」において 営 まれる。 活 動<br />

的 生 活 は「 隣 人 の 必 要 性 」のために、 観 想 的 生 活 は「 神 を 見 ること vision of God」のためにある。<br />

〔 略 〕 観 想 が 精 神 の 至 上 の 状 態 であるという 観 念 は、 西 洋 哲 学 そのものと 同 じだけ 古 い。〔 略 〕<br />

換 言 すれば、 思 考 は 観 想 を 目 的 とし aims at、 観 想 において 完 結 する ends in のである。そして<br />

観 想 とは 活 動 力 = 能 動 性 activity ではなく、 受 動 性 passivity であった。すなわちそれは 精 神<br />

的 活 動 力 が 安 らうようになる 地 点 だったのだ。 112<br />

アーレントの 観 想 的 生 活 に 対 する 評 価 は、『 人 間 の 条 件 』におけるそれと 基 本 的 には 変 わらないが、<br />

一 点 重 要 なのは、それが「 受 動 性 」であるという 評 価 をはっきりと 下 している 点 である。しかし 精 神 的<br />

活 動 力 まで 究 極 的 には 受 動 性 であると 捉 えてしまうのは、 問 題 ではないか。そのように 考 えたアー<br />

レントは、『 人 間 の 条 件 』を 次 のカトーの 言 葉 で 終 えていた。「ヒトハ 何 モ 為 サナイ 時 ホド 活 動 的 デア<br />

ルコトハナク、 孤 独 デアル 時 ホド 孤 独 デナイコトハナイ numquam se plus agere quam nihil ageret,<br />

numquam minus solum esse quam cum solus esset」 113 。この 謎 めいた 一 節 を 理 解 するには、アーレ<br />

ントの『ウィータ・アクティーワ』におけるドイツ 語 訳 を 見 るのがよい。アーレントはそこで 次 のように 訳<br />

、、、<br />

している。「ひとは、 外 見 上 dem äußeren Anschein nach 何 もしていないときほど 活 動 的 であることは<br />

、、、、、、、、<br />

なく、 自 己 とともにある mit sich 孤 独 のうちにおいて 一 人 であるときほど 一 人 でないときはない」( 傍 点<br />

は 橋 爪 ) 114 。つまり 彼 女 は「 見 かけ 上 活 動 的 でないとき(すなわち 活 動 力 を 発 揮 していないように 見<br />

えるとき)ですら、 人 間 は 活 動 的 なのではないか」という 気 づきをこの 言 葉 に 託 していたのである。そ<br />

して、 外 見 上 一 人 で 思 索 しているように 見 えるときでさえ、それは 神 を 観 想 するという 受 身 の 状 態 で<br />

はなく、「 自 分 自 身 を 伴 った 対 話 」という 能 動 的 な 活 動 力 なのではないか、というのが、さらなるアー<br />

レントの 問 いだった。 言 い 換 えれば、アーレントはここで 精 神 の 活 動 力 があること、それが 問 題 化 さ<br />

れるべきであることを 示 したのだ。「カトーが 正 しかったと 仮 定 しよう。そのとき、 問 いは 明 らかである。<br />

我 々がなにも 為 さずただ 考 えているとき、 我 々はなにを『 為 す』のか 普 通 は 常 に 仲 間 に 囲 まれ<br />

ている 私 達 が、 誰 も 伴 わず 自 分 自 身 と 共 にあるとき、 我 々はどこにいるのか」 115<br />

112 ARENDT, The Life of the Mind: One/ Thinking (op.cit.), p.6. ( 前 掲 訳 書 、6 頁 。 但 し 橋 爪 が 訳 しなおした。)<br />

113 ARENDT, The Human Condition (op.cit.), p.325 ( 前 掲 訳 書 、504 頁 )に 引 用 されている。また、ARENDT, The Life<br />

of the Mind: One/ Thinking (op.cit.), pp.7f. ( 前 掲 訳 書 、10 頁 )に 再 引 用 されている。 訳 文 は、アーレントによる 英<br />

訳 を 参 照 しつつ、 彼 女 が 引 用 しているラテン 語 の 原 文 から 直 截 訳 した。<br />

114 ARENDT, Vita activa (ebenda), S.415.<br />

115 ARENDT, The Life of the Mind, One: Thinking (op.cit.) p.8.<br />

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